故人の思い出

事務局で把握している範囲ですが、逝去された同期は次の方々です。現状で43名です。お悔やみ申し上げます。思い出の文章をまとめておきます。(敬称は略します)

 
有坂 修一 2013/2/25
井口 優

1998/10/26

一色 修一 2002/7
石川直子 2016/1/20 2016/1/12近藤ゆり子、内田純子、1/20時田秀久、川名和夫、10/11嶋田正文の弔文、11/16阿部静夫
伊橋 伸久 2011/7/28   2015/9/1:弔文掲載(板見潤一)、伊藤追記、19/2/4弔文掲載(嶋田正文)
伊良波 寛
植草 譲 2019/12/20 板見君が送った弔電
内田 勝秀 2018/11 鴨山君からの訃報連絡
江原 吉男 2009/1/22
大城 朝行 19/2/4弔文掲載(嶋田正文)
尾崎 雅信 2004/7/2 弔文 掲載(清水教博、渡辺(神保)公子、菅井(會澤)明子)
葛西 美知子 2012/3/13 弔文 掲載(川名和夫、清水(岩藤)啓子
梶原 美知雄

2015/10/25

告別式で佐久間(裕)さんが、梶原君の弟さんから伺ったこと、2016/11/16阿部静夫
川越 謙一

1995/8

向後 由美子

1989/5/10

19/2/4弔文掲載(嶋田正文)
国分 節 19/2/4弔文掲載(嶋田正文)
古宅 立 2001/8/12 弔文 掲載(渡辺(神保)公子)
酒井 洋一

2012/2/8

弔文 掲載(神力洋一)
佐々木 信
志村 明敏

2015/12/6

弔文掲載(衣笠幸夫)、2016/11/16(阿部静夫)
杉浦 八十二 2002/5/31 弔文 掲載(高橋純一、奥山悦男、川村(佐藤)仁子、渡辺章) 、19/2/4弔文掲載(嶋田正文)
杉山 裕英 1998~2003
鈴木 逸夫 2013/10/23 弔文 掲載(岩井秀樹)、三回忌に岩井君が追記
鈴木 秀 2010/6/6 弔文掲載(日暮高則)
神力 洋一 2015/8/20  
高橋 純一 2018/7/6 弔文掲載(川名和夫、板見潤一)
高橋 博孝
堤 保仁 2007/3 弔文 掲載(溝口正人)
杼原 真示
中山 直美 不明
西尾 久美子
萩生田 信義 不明 近年
長谷川信夫 2015/1/25 偲ぶ会の様子
林 慎一 2008/9 弔文 掲載(奥山悦男、川名和夫)
富川 俊郎
古川 保夫 2010/10/22 遺稿「バリ島移住記」 弔文 掲載(林田重吉) 、甲田君の思い出
宮幡(鈴木) 和代 2018/6/6 弔文掲載(奥山悦男、板見潤一)
深山 孝夫
村田 秀志 2019/7/19 奥山君、清水(教)君からの思い出
山下 道隆 2000/12/28 弔文 掲載(堀田泉、古山明男)
山本昭一 2015/4/22 弔文掲載(板見潤一)
吉川 俊昭 不明  19/3/4弔文掲載(嶋田正文) 、3/11近藤ゆり子、3/14衣笠幸雄、永井遵
渡邉 章 2013/4/13
亘 秀夫

卒業はしなかったのですが、在学中に逝去された学友

箱田君 1965年の秋か冬 1年B組在学中に逝去。クラス全員で犢橋までバスで弔問。がっしりした体格のいい男でした。
文化祭か何かの手伝いを依頼したら、他の男子と違って手伝ってくれた(菅井明子)
授業中机に突っ伏していた箱田さんに、「寝ているなら起きなさい。具合が悪いなら保健室に行き
なさい」と指示されたのが、数学の大塚先生で、その時彼が黙って教室を出て行ったこと、その後
欠席が続いたと思ったら訃報が届いたことを、覚えている(渡邉公子)

植草譲(2019/12/20逝去)

【板見君が送った弔電】
故植草譲君の御霊に申し上げます。

 中学高校の友人が次々に消えて行く中で、少年時代を共に過ごした君が逝ってしまうと、その寂寥感は一気に深まる気が致します。
 緑中の部活で君と一緒に走った稲毛海岸辺りも、すっかり様変わりしたでしょうが、半世紀以上の時が経っても、植草譲という人間のイメージが級友たちの胸から消えることがないのです。限られた命は誰しも同じなのに、君は高々と余命宣言をして、何度もお別れ会の主賓としてその笑顔を振りまきました。濃縮されたお別れの手際でした。惜しむらくは、せっかくのその有効期限をフライングしたこと。もう一二度、盃を交わす時間が欲しかった。残念です。
 
  令和元年師走廿二日
                         中学・高校同期 板見潤一

内田勝秀(2018/11逝去)

【鴨山宣夫君から】2019/8/1

鴨山君から7/29に以下のようなメールを受取ました。抜粋してます。
「昨年の11月に内田勝秀君が亡くなりました。数年前から透析をしていました。時々調子がいい時に一杯やっていましたが、昨年7月蔵前で飲み、西船で分かれたのが、最後になってしまいました。

病院から遺品を引取って欲しいと言われ逝去を知りましたが、そのほか詳しいことは一切分かりません。冥福を祈ります。」

【伊藤三平の思い出として1998年11月13日に掲載したもの】

村田秀志(2019/7/19逝去)

【奥山悦男君から】2019/7/28

高校3年の時、村田秀志と同じI組でした。最初のホームルーム(HR)での彼の自己紹介は「村田です。野球部です。」これだけでした。余計なことを言わずカッコいいなと感じました。

村田といえば野球部。

1学期の期末テスト終了後、音楽クラブ管楽器奏者と管楽器経験者が動員されて野球部応援ブラスバンドが急造され、いろんな応援歌を練習しました。
と言っても期末試験終了→高校野球地区予選まで数日しかなく、一夜漬ブラバンでした。

私は千葉高オーケストラでチェロを弾いていましたが、中学時代にブラスバンド活動していた関係で、近所の蘇我中でホルンを借り、応援歌を練習しました。おかげでいろんな応援歌を知りました。

夏の高校野球地区予選応援のため千葉高近くの千葉寺球場へ行きました。
1年時は1回戦敗退(専修大付属松戸5-1)。2年時は3回戦まで勝ち進みました。その時の捕手が村田でした。その村田が3年時に同じクラスになりました。3年の時、地区予選は1回戦敗退でした。

HRで彼は言いました。「応援有り難うございました。」たったそれだけの、相変わらず無駄のないしゃべり方でした。

卒業後、同期会で数回会いましたが、挨拶程度しか言葉を交わしませんでした。プロレスラーのような風貌と酒豪で近づき難かったのかもしれません。

同期HPの「同期の人から」の、「ムラタだけど」(2003年掲載)を見ると、17歳・54歳の顔写真が掲載され、75歳時に彼の顔写真が掲載される予定でした。実現できず残念です。

昨年7月は猛暑でした。福井では今年7月は雨・曇りの日が多く、蒸し暑いですが、外での農作業は楽でした。それでも汗びっしょりになって、夕方帰宅後、ヒグラシの鳴き声を肴に、庭で飲むビールは最高です。この後、庭木の剪定・草むしり・薪割り作業をやろうという気になります。

夜8時近くなって作業を終え、風呂に入り、夕食後は疲れでバッタンキュー。こんな平凡な毎日を過ごしていますが、同期仲間の訃報を聞くと、日常の平凡な当たり前の生活を送ることが出来る幸せを感じます。

そして思うのです。残された我々は、亡くなられた仲間の分までも精一杯生きていかねばと。
村田秀志君のご冥福をお祈りいたします。

【清水教博男君から】2019/7/29

1年B組で一緒でしたね、心からご冥福をお祈りします。
深い付き合いはなかったけど、野球部とテニス部で、部室の中で村田の投げた球を打ったりもしました。
陸上部の短距離の練習をまねて、一緒に50メートルダッシュした時に、数歩走っただけで置いていかれた相手は後にも先にも村田しかいなかった、懐かしい思い出です。

吉川俊昭(逝去年月不明)

【永井遵君から】2019/3/14

近藤さんの発案か小山内薫の劇をやることにしたので、吉川君に、男役を頼みました。男と女の二人しか出ない劇でした。文化祭で発表したのか。
日本家屋、昭和初期の舞台装置に結構こりました。框、障子、襖みんな手作りしたなー。
渡部さんと作ったなー。吉川君は着物姿で結構昔の男をしっかり演技しました。
文化を勉強していたのだと今、思います。顧問の四ノ宮先生が結構凝り性でいろいろ指導されました。

四ノ宮先生は芸大で演劇やっていて、スタニスラフスキー理論を教えてもらいました。
いろいろ思い出して楽しいです。ありがとうございます。

【衣笠幸夫君から】2019/3/14

吉川(よしかわ)君とは、小・中学校から一緒ですが、ずっと「よしかわ」でした。これは付属2小・中の全員がそう思っているはずです。小・中の頃「きっかわ」という話は聞いたことがありません。

高校に入って、おそらく2年になって日本史を習い始めて、彼自身が「先祖は『きっかわ』だ!」と言いだしたように思います。なんでも「祖父の代に(よしかわ)と呼ばれるようになり、それが定着してしまったのだ」というような話で、 通学の列車の中などで、2−3回聞いたような気がします。家紋も聞いていないし、真偽のほどはわかりません。
その時も、先生に名簿の順番を変えてっもらったというような具体的な話は聞いていません。高校の卒業アルバムの名簿を確認したところ、アイウエオ順で、3Dの山本の後ろに入っています。3年の4月のクラス名簿に従ったものだと思いますので、問題があるのであれば、彼が先生に申し出て修正してもらっていると思います。

【近藤ゆり子さんから】2019/3/11

吉川君は、私らの学年で潰れかけていた「伝統ある(宇津井健や市原悦子がいた)」演劇部と接点をもっていました。
演劇部の部室は旧い講堂の舞台横の楽屋にあり、部室と講堂屋上が「エスケープ」場所でした。
屋上は柵もなく危険なので、出て行く扉には一応カギがかかっていたのですが、扉に大きな破れ目があり、事実上自由に出入りできました。
「禁止だから吸ってみたいタバコ」の喫煙所でもありました(全く好きではなかったけど「禁止だから」カバンにタバコを潜ませて、たまに私もここで煙をくゆらせていました)

この屋上で、昼休みだったか、吉川君と結構長くお喋りをしたことがあります。
そのとき「きっかわ」であることを強調していました。とりとめもない話をしただけでしたが、ウマの合う人だと感じました。

卒業後は全くコンタクトがないままでしたので、彼のその後については何も知りませんが。

【嶋田正文君から】2019/3/4

1B(山沢担任)の時、秋の文化祭の仮装行列に参加した、数少ないクラス仲間の一人が、普段は大人しい彼でした。少女(演者は女装の佐藤好男君)と受験生の息子との恋仲を裂く、背の高い父親役で、良く似合う借り物の背広姿にソフト帽をかぶり、当日、ガランとした教室での直前リハでは、張り切った演目原案者の少女役を、ずっでんどうと床に突き転ばして居ましたっけ。千葉港から汽笛が聞こえていました。校庭半周の行列本番は、何の反響も無く、あっという間に終了。5人(少女、受験生、その両親、教師)でお互いの熱演を讃え合い、一番多い拍手はだれが獲ったかと自慢し合いました。お姉さんのブラウスやお父さんの背広等は文化祭当日の朝、自宅から持ち込んだ品。僕の記憶では、吉川君の吉川は「キッカワ」と発音していたはずです。ルーツは四国だと言っていました。


国分 節(逝去年月不明)

【嶋田正文君から】2019/2/4

今はもう商売を閉じてしまった宝文堂(市場町?)の店内でことです。店番のご婦人へ、千葉高の制帽を取った坊主頭の国分君が、「立ち読みさせて、いただきます」と、はっきり断り、書棚上方の部厚い百科事典を一冊抜いてページを繰り出しました。読書慣れした眼差しが、真摯な集中の面持ちです。普通、そんな重いものを立ち読みする人は居ない筈なのに、彼自身はちっとも変だと思わず、まして、立ち読み願いを宣言している。どこと無く、笑えてしまう行動。そういう点に、純粋無垢ともいえる国分君らしい真骨頂が有りました。やがて、実社会に出てからも、この純真さのままで居られるんだろうか、と時々一緒に、葛城の丘から下校していた頃の思い出です。

向後 由美子(逝去年月不明)

【嶋田正文君から】2019/2/4

同じクラスで一緒しましたが、直接お話したことは一度も有りません。しかし、その顔立ちを今でもありありと覚えています。言い方に語弊が有るかも知れませんが、体温の高そうな火照った感じの濃い桃色の頬に、驚きに見開いた折の目が特徴的で、やや突き出たおちょぼ口。お喋りが苦手らしく、何時も引っ込み思案、だから見た限り、校内に親しい友達は居なかった。それが、3学年に成ると、女子生徒の一人とは始終笑顔で連れ立つようになった。卒業式の日も、もう皆の去った中庭の通路に、別れ難いのか、お二人だけでぽつんと立っていた。遠く千葉港が見下ろせた場所です。なぜその光景を覚えて居るかと言うと、内の一人に息苦しく、片思いして居たからで、しかし、50年以上が経った今、不思議にも向後由美子さんの顔立ちだけが目に残り、もう一人の女生徒の様子が、浮かんで来ません。

大城朝行(逝去年月不明)

【嶋田正文君から】2019/2/4

「彼とは1学年B組(山沢担任)で一緒した。既に病弱の印象が強く、体育の授業では余計な運動を避け、体操着に着替えても独りポツンと離れ、見学が多かった。
呼吸器系(又は心臓)に問題が有り、普段から、唇はチアノーゼ気味に紫色を呈し、しばしば鳩胸を苦し気にゼイゼイ鳴らしていた。
秋の文化祭のクラス別仮装行列で、B組の皆が出たがらぬ中、彼は受験生に鞭をふるう教師役を引き受けてくれた。担任から長い白衣を借り、生物学の分厚い本を持つと、寝ぐせ髪のぴょんと突っ立った彼は、自称マッド・サイエンティストだ、と恥ずかしがりながら嬉しそうで、白衣のポケットに万年筆を5~6本差した。学生服の時も胸に差す万年筆の数が多かった。きっと、彼の千葉高入学を祝い、健康を願って、親類の方々の贈ってくれたペンだったのだろう。
3年後、卒業アルバム用に図書館前で、クラス別の集合写真を撮ったが、まだ大城君の左胸に其れらしきものが、幽かに写っている。」

高橋純一君(2018年7月6日逝去)

【川名和夫君から】

高橋純一君の訃報の連絡、驚きと共に一方でやはりと感じました。

今年1月に彼から電話があり飲み会に誘われました。飲み会というより、彼がガンであることを打ち明けられたので「お別れ」の意味が込められているのではないかと感じました。
本人はそのつもりがなかったかもしれませんが、当日は、出席者皆さんが一言挨拶をしたときにも、私は半ば冗談で「会えなくなるといけないので今日は来ました」と発言しましたが、現実になるとは驚きでした。

彼とは幼稚園から一緒でした。中学3年の時には、杉浦八十二君や彼と千葉市の駅伝大会に出場し準優勝の成績を残すことができました。私はアンカーでしたが、私がタスキを受け取った時は、一位との差は大きくまた三位との差も大きかったので、アンカーは誰でもよかったのですが、彼らを含む前の走者が頑張ってくれたおかげでした。

八十二君が亡くなってだいぶたってから、「八十二がいなっくなってしまったけれどあの時の仲間で一度会いたいね」と言っていたのを今でも記憶しています。とうとう実現できませんでした。残念でした。

私も30代にガン病棟で過ごした経験のある人間なので、ガン患者は急変することを知っていました。1月当時は元気でしたが、大丈夫だろうかといつも心配していました。

とうとうこのような結果になってしまったこと、残念です。

【板見潤一君から】

「激走後の安息の時」

高橋純一君とは、緑中・千葉高と一緒ながら殆ど付き合いはなく、当地仙台で教職に就いてもなお、見知らぬ仲でありました。しかしある日、職場の私に県教委から電話、高橋という方から連絡取りたいとのこと。 確認してみると確かに同期生。中高の同期会に全く繋がりもなくて来たこの数十年。聞けば緑中の同期会のまとめ役とのこと、千葉高の集まりも近々あるので是非出席しないかとのお誘いでした。 当地で教員になっているという情報をもとに、彼に釣り上げられたというわけでした。

知らされた彼のサイトを眺めると、海釣の船上で大きい釣果の誇らしげな写真。成程、こんな田舎教師一人釣り上げることは、彼には朝飯前だったのでしょう。
千葉高卒後四十年の同期会にて皆さんと再会出来たのも、その腕一本のお蔭と、会場で高橋純一君と固い握手を交わしたことでした。

彼の存在が身近に浮かんで来るのは、杉浦八十二君の追悼集に彼が綴った「八十二激走」を通してです。爆進する彼ら駅伝チームの様相が、高橋君の筆力で活写されています。私も杉浦君と緑中で出会い、稲毛海岸の聖火ランナーの伴走を共にしたその時、高橋君もその列に居たのでした。彼らとは、共に学ぶ仲間である前に、共に走る同期だったのです。その仲間が既に一人二人と今や欠けて行きます。命を燃やし尽くして後に崩折れて消えていくランナー、それを追悼する同志が同じくまた列を去る。残った観客も、果たしていつまで長らうことになるのでしょうか・・・ 高橋純一君の御霊が、到達点のゴールに安息の時を得んことを祈るのみです。

宮幡(鈴木)和代さん(2018年6月6日逝去)

【奥山悦男君から】

宮幡和代さんの訃報を聞いて驚きました。彼女と林慎一君と私の3人は、高校時代、オーケストラでチェロを弾いていました。3人だけで練習したり、彼女はピアノが上手だったのでピアノ伴奏してもらい、チェロ練習をしたことがありました。

彼女は千葉大学に進学しました。私が大学1年の時、千葉へ帰省した折り、千葉大構内を歩いていたら、偶然彼女に会い、いろいろ話をしました。結果的にそれが彼女との最後の出会いとなりました。50年前のことですが。

林慎一君は10年前に亡くなられました。あの時のチェロ仲間3人の内、2人が鬼籍に入られました。私は亡くなられた2人の分も必死に生きなければと思うのです。
ご冥福をお祈りいたします。

【板見潤一君から】

悼 鈴木和代嬢之御霊

葛城ケ丘の三年B組の教室で、鈴木さんの声は静かだけれど凛とした響きで聞こえてきた。友達と話しているのだろうが、話の内容は今も記憶に新しい。

彼女は音楽部でチェロを担当、そのケースを持って歩いてたところ、訊かれたのだそうだ。「ベースをやってるんですか?」
小柄の彼女が持つとチェロもベースに見えるのか…、ただそう思って聞いていただけの半世紀前の記憶に過ぎないが、鈴木和代さんと云えば、その場面がくっきり浮かんで来る。

在校中、一度も喋ったことはないのだが、訃報を耳にして上記の記憶が蘇るのと同時に、一瞬にして、墓碑銘のようにそれは頭のなかで凍り付いた。

卒業アルバムを開いて改めてお顔を拝見し、嗚呼、美しい方だったのだ…、と認識した。

一段落した机の上を片付けて亡友Yが残したボトルを開け、バッハの無伴奏チェロ組曲を聴けば、次第に周りに死者の影が濃く凝縮し始め、彼女がチェロを弾く姿も眼前に彷彿…

献杯、KAZUYO DU PRÉ

石川直子さん(2016年1月5日逝去)

【阿部静夫君から】

志村君や阿部君などが遊び出向いていた轟町にある附属一中の同級生(女子)のお宅には、石川直子さんも良く遊びに来ていました。
高校を卒業した年、そのお宅で一緒になった石川さんを、夜も遅くなったので登戸まで送ったことがありました。私は運転には自信があり、皆に上手いと言われるのですが、その時の彼女は失礼にもとても怖がっていました。

社会人になってから銀レスで開催した中学のクラス会には、幼い子供さんを連れて参加され、幹事の務めとして、私があやしてあげていた記憶があります。

平成8年の衆議院選挙は、小選挙区制になって最初の選挙でした。木田(当時)さんは千葉1区の民主党候補として出馬されました。(私も記憶違いをしておりましたが、調べましたので確かです)富士見町の通称ナンパ通りにあった同窓生がご主人(?国人)と営んでいた?国料理のお店(現在はインド料理店)で、近所の同窓生に集まって頂いて彼女と懇談する機会をもちました。菅直人と鳩山由紀夫の性格の話など、興味深い楽しいひと時でした。
結果は当選が臼井日出男氏で42.7%の得票率。木田さんは新進党候補に続き17.2%を獲得しましたが比例重複も及ばず、同期からの国会議員は誕生ならずでした。

昨年5月の中学のクラス会に久々に参加され、その頃に力をいれておられたNPO法人のことを熱心に語ってくれた姿が、石川さんとの最後の思い出となってしまいました。

【嶋田正文君から】

先日、三平氏よりTELあり。別件でしたが、後で、何気なくHPを拝見しましたら石川直子さん逝去の報がありました。諸行無常を感じた次第です。
時田秀久さんの追悼文も拝見。まさしく、海岸沿いの国道16号線、千葉海岸駅(京成電車)の少し東側(つまり登戸小学校より)に彼女は住んでいましたっけ。

当時は、もし風邪などで学校を休むと、その日の日直(この言葉は今でもあり)が、給食のパンを、放課後、その子におうちに届けに行くのがルールでしたから一度だけ、石川直子さんのお宅に持っていきました。揚げパンに砂糖のようなものが掛かって、マーガリンが付いていた。

何故そんなことを覚えているかというと、当時、登戸小4年生、学芸会の稽古が講堂であり、「白雪姫」だったか、直子さんはそれを助ける王子様の役だった。青いマントをつけて、大柄な彼女が舞台練習をしていたのを、同級生の我々は、舞台に顎をついて呆然と眺めていました。
なぜなら、あまりにも似合っていて、千葉の登戸あたりの粗雑な少年の眼にとても眩しくてなんだか違う世界があるんだなと、悟らせてくれたからでしょう。

当時の同級生で、千葉高に進んだ方がいるはずなので、そんな小4の彼女の凛々しい舞台姿を覚えたいらっしゃる場合もあるのではと思い、メール致します。

本当に花のあるかたでした、残念です。

【時田秀久君から】

石川さんの訃報を聞いて、お通夜に参列してまいりました。

石川さんとは、小学校の時からのお付き合いで、まだ埋め立て前の千葉街道の上にあったお宅に何度も遊びに行った記憶があります。ちびのワタシにくらべて、直子さんは当時から大きく まるで蚤の夫婦のような感じで遊んだことを、昨日の事のように思い出します。
お母様も楚々とした美しい方だったことを鮮明に記憶しております。

中学では別々になりましたが、高校で再会したときには、「ずいぶん大人になったな!」とびっくりした思いがあります。

その後、大学に進んでからは音信もなくなりましたが、選挙に出たときにハガキをもらって、がんばってるなと思いました。

しばらく連絡もなかったのですが、ヒョンなことから小学校のクラス会が復活し、直子さんにも都度お声掛けし、木更津から何度か出席していただいたことがあります。その後、千葉農産の筍狩り、バーベキュー、イノシシ焼きなぞでご一緒させていただきました。

昨年も直子さんからパパイヤ狩りのお話をいただき、仲間で調整したのですが日程が上手くいかず、来年だね~!なぞとのんきなことを言っておりました。お通夜のお返しに入っていた「パパイヤ茶」をみて、ああ、こんなに一生懸命やっていたのだと思うと涙が止まりませんでした。

闘病の話も一切私たちには話されず、いつも早口で目指す方向を楽しそうに話されていました。

内田さんの弔文に「今が一番幸せ」とお話されていたとありましたが、いかにも直子さんらしい生き方をしたのだなと思います。

いささか乱暴者でしたが、自分の信ずる道をまっしぐらに突き進んでいったんだな!と今更ながら思っています。
不器用なくらいのひたむきさと、優しさが混在していた直子さんでした。
もう、パパイヤ狩りも行けない、行ったとしても直ちゃんはいない!と思うと、悲しいです。

直ちゃんのお通夜は1月9日、直ちゃんの誕生日も1月9日。わたしの誕生日は1月10日。
昔、お誕生会に呼ばれていったことを又思い出しました。「次の日に生まれたんだね。」言っていた顔 思い出します。

直ちゃん!安らかにお休みください。

【川名和夫君から】

石川直子さんとは小学校5、6年で一緒でした。彼女は優秀また体格も立派だったので、いつも学級副委員長でした。私にはなかなか寄り付けない存在でした。

中学は別でしたが高校でまた一緒になりました。 しかし高校では全く、また小学校でもあまり親しく会話することはありませんでしたが、高校を卒業してから、1968年だったか翌年だったか忘れましたが、千葉駅西口を出た ところでばったり会って話しかけられました。

彼女が上智大学で学生運動に参加しているという話を聞きました。彼女でも学生運動に参加するんだと感心し、また初めて 私と共有できる話があるんだと感激しました。

その後特にお付き合いはありませんでしたが、千葉市長 選に立候補された時は、選挙権はありませんでしたが、彼女に応援の手紙を出しました。残念ながら落選してしまいましたが、返事もいただきました。

その後は小学校の同窓会で 2、3度お目にかかりました。特に2014年には同窓会の企画で、彼女の働く農園で 竹の子掘りをしてバーベキューを楽しんだことはよい思い 出になりました。今年予定されていた青パパイヤ狩りも楽しみにしていましたが、残念ながら一緒に楽しむことが出来なくなりました。 農園で会った時も、自らが携わっている仕事を熱心に解説 されている姿に感心いたしました。
学生運動も市長選も彼女の情熱や正義感から発したものだ と思っています。まだ60代、やり残したことはいっぱいあったと思います。 1968年の「あの時代」の闘いを共有したものとしては、もう 少し長生きしてほしかったと思っています。

2018年には1968年の50周年ということで国立歴史民俗博物館が企画展示を行うという検討が進んでいます。2018年には天国から見に来てください。

【近藤ゆり子さんから】…お通夜・告別式に行くのは難しいので、弔電を送りました。

「石川直子さん、逝ってしまわれたのですね。遠くにいたけれど、あなたは私の人生の節目にいつも、目の前に登場して、私に大きな示唆を与えて下さいました。感謝しています。数年前、あなたは「今が一番穏やかな気持ちでいられる」とおっしゃっていました。ゆっくり安らいで下さい。そしてまだ現世で闘い続けている私を、微笑んで見守って下さい。 your friend近藤(長谷川)ゆり子」

【内田純子さんから】

「私と石川さんとは、幼馴染みともいうような時代から学生運動の時代を経て、常に前を向いて次々と新しい課題に挑戦していく彼女に私が置いていかれたような、ブランクがありました。
2011.4月に久しぶりの再会。それは、いつも「一体何をしているの?」という私達同級女子の問いに応えて、彼女が新しく取り組んだ事業地を案内してくれたのでした。そこには 40年放置されて、ほぼ原野にもどった広大な山野が有りました。道が拓かれ、畑と水田が耕されつつある途中、周りはアケビや藤の枝のからむ美しい里山。彼女が早口に説明してくれる未来図は止まることなく続きました。

3回訪ね、一昨年の春に、大鷲の森、上烏田川の源流を二人で遡ったのが、彼女が私にくれた最後の思い出です。闘病も知らされず、亡くなってしまいました。

以下に、今、私の知っているネット上の情報をお伝えしたいと思います。振り返る事を知らず、恒に前を向いて進み続けた石川直子さんの極く近々の姿です。この里山で会った時に、「60年生きて、今が一番幸せ」という言葉を聞いて、感動したのを思い出します。

農業生産法人(株)千葉農産のホームページ、 ブログ:「おじさん 百姓に戻る」の「大鷲里山ファームビレッジ」というカテゴリー(これは、どれが石川直子さんが書いたものかは私はわかりませんでした。

ユーチューブ
NPO農道理事石川直子NO1,
NPO農道理事石川直子NO2
NPO農道理事石川直子NO3


志村明敏君(2015年12月6日)

【阿部静夫君から】

志村明敏君とは同じクラスになった事は無いのですが、1Aで一緒だった衣笠君とのご縁で知ることとなりました。同じ城北予備校に通うことになり遊び友達に。
夏休みには、志村君と二人で予備校仲間と長野県の学生村に。(織本さんもお一人で来ていましたね)

仲の良かった男女で、志村君の家に遊びに行った思い出もあります。

学生時代には、衣笠君・入江君と4人で金沢・能登方面にドライブに行ったりしました。

正月・春・夏の休みには、入江君の家の離れで朝まで麻雀が恒例でした。

予備校が一緒だった轟町の附一中の同級生(女子)の家に、彼は一人でもお邪魔していました。デイトの帰りに落雷で総武線が不通になったと電話があり、大雨の中を西船橋まで迎えに行った事もあり、携帯電話のなかった時代、嗅覚で探し合ったものです。(山田恭史君も弟さんを迎えに来ていました)

三菱重工に就職してからは、造船部門で電気関係の設計に携わっていたようです。海洋科学技術センター(当時)に出向して、しんかい2000や6000に関わっておりました。
奥様のご両親と逗子に家を持たれ、マスオさんをしていると言っていましたが、やがてそのままセンターの職員になられました。市原の三井造船にセンターの船が点検にドック入りした際に、志村君が一人で確認の担当で来ることがあり、突然電話が掛かって来て食事をつき合わされた事も数回。

雄弁では無いのですが、ぽそっと面白い事をいう楽しい男でした。衣笠君の弔文にある通りです。

センターの広報担当になり、TV番組でしんかい6000の説明をした時は、真面目一辺倒で彼らしく無かった。

久しぶりに横浜当たりで皆で飲もうよという年賀状の挨拶を毎年繰り返しながら、実現しないまま時が過ぎ、透析をしているとのことなので心配もしておりました。

学生時代に大変お世話になった入江君のお母さまがご逝去されたと伺い、昨年の2月に皆で入江家に弔問に。懐かしい離れは今も残っておりました。近くで食事をした後、志村君が轟町の家に行きたいとダダをこねる?ので、予定には無かったのですが、皆でお邪魔する事になりました。ご健在のお母さまもとても喜ばれ、楽しいい時もアッという間に過ぎ去り、それが彼との永遠の別れになりました。

通夜には、入江君と轟町にいた友人と3人で逗子までいきました。山越君も二中の友人と見えていました。

【衣笠幸夫君から】…葬儀に出席された衣笠君からの思い出です。

「4月の中学卒業50周年の同窓会には元気に参加してくれ、色々話したのですが、突然で残念です。

私とは小学校5年で、(私が)転入以来、中、高、予備校まで一緒で、そのあともスキー、旅行など一緒に過ごした時間が長く、思い出は尽きません。  

お棺にMacの雑誌が2冊入っていました、Mac党だったのかな?
最近私も慣れないながら。会社がWinに代わってしまう88年~00年頃までズーッと愛用していたMacに回帰しつつあるのですが・・・

添付の写真は2014年1月24日に志村君の勤務していた「海洋科学研究所」を「トヨタ技術会東富士支部」(会社の技術畑のメンバは殆ど加入している非公式組織)の訪問イベント募集に当選して、訪問した時のものです。

 
衣笠君(左)と志村君(右) 

事前に電話したら「その日は出勤日でないから」とつれない返事・・・・。
ちょっと残念な思いを抱きつつ・・・・・。

ところが、当日、現地に着くと、「オウ」とサプライズで現れて、私とその仲間を丁寧に「専属案内人」として説明してくれました。
彼の人の意表を突いたサプライズは、枚挙の暇がないのですが・・・。

深海艇の覗き窓など、深海の圧力に耐えるためののKnow-how、マニュピュレータのメーカ/値段と如何に安くて性能の良いものを採用したかの苦労話など、彼の苦労して成し遂げてきた仕事の一環を、あの時、一部でも垣間見ることができた事は、今にしてみれば、彼との貴重な一瞬であったと、有難く、懐かしく思い出しているところです。

今回も、「やーい、引っかかった、ドッキリだよー」とお棺から起きだしてこないかと、アホな期待も、詮無く/空しく・・・でした。」

梶原美知雄君(2015年10月25日逝去)

【阿部静夫君から】

梶原美知雄君とは、小中の9年間と高3の合計10年間、同じクラスで学んだ友。家が反対方向なので、学校外で一緒に遊んだ思い出は少ないのですが。

高2の夏休み、中学の仲間と(男女がいたので、恩師が一緒に来てくれた)、山中湖の千葉大寮に泊まり、富士登山をした思い出があります。
山頂での記念撮影の中に、梶原君と伊橋君の姿も。

佐久間裕子さんの便りにある通り転勤が多く、退職後に体調を崩されたとのこと。

クラス会にもあまり参加される機会もなくとても残念でした。
山越君・清古君・中ノ森君・笹畑君達とお通夜に参列し、初めてご家族にお会いしましたが、応対してくれたお嬢様が素晴らしい方で感動しました。

【佐久間裕子さんから】…告別式でお参りされた佐久間裕子さんからのメールです。梶原君の弟さんが、佐久間さんの実家に訃報を伝えてくれました。

「小、中、高、同じとはいえ、小学校以来お付き合いがないので、弟さんが私の実家に連絡に来たのはびっくりでした。
私は告別式に参列し、弟さんと話をしました。弟さんによると、梶原君は北海道、岡山など転勤ばかりで63歳まで勤め、あとは病気でどこの同窓会にも出られなかったと言っていました。
告別式の折り、千葉高同期会からの弔電も読んでいただきました。」

山本昭一君(2015年4月22日逝去)

板見君が2015年6月10日に彼自身のブログにアップした追悼文(Y君をここでは山本昭一君に置き換えている)

「ペガサスの泉」

捧故山本昭一君之御霊

山本昭一君…と書き出したまま、どれだけ時間が経ったことだろう。中学時代のアルバムやら、高校の、君が撮った雪積もる校門の写真などを眺めつつ、とうとうウィスキーのボトルを傍らに開ける始末。

君との出会いは中学2年次、K先生のクラスで3年まで一緒だった。理科好き少年ら集って、開館したばかりの科学技術館に出掛けた時の思い出は、昨日のことのように新鮮だ。

未来を占うロボットなるものが設置されており、各自自分の特性傾向を記して入れると「あなたの将来は○○です」と電子おみくじのようなカードが出てくる。みんな「エンジニア」と書いてある中で、僕だけが「教師」とあって、自分もびっくり、みんなも「お前が教師なんて!」と囃し立てる。

だけど、君が腕の良い歯科医となったのはともかく、他の3人が文系のお役所関係などに進んだのだから、ピタリ当たったのは僕だけということになる。まあ科学的予見というのも、そんなものだね。

ご自宅に友人らと何度かお邪魔したことがあった。お優しい母上の歓待を受け、当時珍しかったステレオにレコードを掛けながら一緒に歌ったのは、ミッチ・ミラー合唱団の懐かしい曲の数々、“SING ALONG“や“SIDE BY SIDE”…。だけど当時のクラス仲間は、君を含めて四人が、もう傍に居ないのだ…。

君のメールアドレスにも刻まれた「HAKUBA」が、君の人生の流れに打撃を与えたように聞いた。最も君の安らぎ憩える白馬山系で起きた地震の衝撃、おそらくペガサスが空に翔け上がる際、後脚で山頂を蹴ったのでもあろう。ギリシャ神話では、その跡に泉が出来たのだという。

今宵は君の魂が彼方に昇ってしまう四十九日とのこと。どうか、そのペガサスの作った天上の泉で喉を潤してくれ給え。君の優しい笑顔を振り仰ぐと、僕らは、まだこの地上で幾何かの生を営み続けて行けるような気がする。

クラス毎分散の高校修学旅行では、京都の橋の上でバッタリ出逢ったことがある。アルバムのその写真の橋の下を、どれだけの時間が流れて行ったのだろう。いずれ彼岸に到る橋の上で、おそらく君は言うだろう。「 遅いじゃないか 随分待っていたんだぞ 」

山本君、 今宵、ペガサスの背に乗って星座へ向かう君に献杯する。
先に逝った仲間と、どうかゆっくり僕らを待っていて欲しい。

鈴木逸夫君(2013年10月23日逝去)

岩井君は、鈴木君に対して、まとまった弔文や思い出を記すには、まだ少し気が重いとのことですが、メールにて簡単な思い出を書いてきてくれております。この暮れに親しかった同期4人とお墓参りをされるとのことです。

「高校在学中は、よく稲毛海岸の逸夫の家に遊びに行ったり、高橋君の家でマージャンをしたり、大学に入ってからは、軽自動車のN360で日本国中を旅行しました。東大受験がない年があったため東北大に同級生が多く仙台には5~6回行っています。

社会人になってからも、新宿の社員クラブでお酒を飲んだり、お互いの結婚式に出るのは当然として、私の娘の誕生に際しては未だ字も読めないのに日本昔話の絵本を全巻送ってくれました。

しかしながら、逸夫が結婚してから徐々に疎遠になりました。

いろいろなシーンが次々と思い浮かんでは消えていきます。文章を書くにはまだ少し気が重い感じがします。お許しください。 

<追記:2016.10>
今年は鈴木逸雄君の三回忌にもあたります。彼とは21歳の時に軽自動車「ホンダN360」に乗り、飯盒でラーメンを作り、野宿しながら、一人7、000円の予算で、四国一周大貧乏旅行をした思い出があります

渡邉章君(2013年4月13日逝去)

昨年10月の同期会時に、寄せられた彼の近況報告です。

「すでにお知らせしたかも知れませんが、昨年胃がんが見つかり、2011年4月に、余震の続く中、ほぼ全摘の手術を受けました。現在は、胃のない人に特有の「ダンピング症候群」に悩まされていますが、酒も飲み、何とかやっております。
楽しみは、東京都交響楽団(都響)を中心に、月に2・3回聴きに行っております。もうずっと、聴くだけになってしまいました。」

昨年11月に癌の再発がわかり、余命3ヵ月と宣告を受け、4月1日から浦安市の東京ベイ浦安市川医療センターに入院されていました。

彼と同じく習志野2中出身の川村さんが中学時代の方から連絡を受け、お見舞いに行かれました。

今回、お悔やみに行かれた川村さんが、ご家族から伺ったお話です。

あと三ヵ月と言われた11月、梅の木の鉢を買い、この梅が咲くまで生きようと思われた。
そして梅が咲いた。
次は姫リンゴの花が咲くのを楽しみに過ごされていました。

余命宣告後の5ヶ月間に、身辺の整理をし、諸々の方針を御家族に伝えられ、その一つが葬儀はしないという本人の意向で、家族葬で送られました。

入院してからは、一切の延命治療を断って、最後は眠るようだったそうです。

本当に残念でした。ご立派な死に様だと感服しますが、ご本人にとってはご無念な思いを多々あったことだと拝察いたします。
柳田邦男が定義するところの「一人称の死」に直面されていたわけです。

川村さんは、有坂さんに続いて、習志野2中出身の同期生を続けて失ったと。

酒井洋一君(2012年2月8日逝去)

2012年同期会の案内葉書返信で、奥様から平成24年2月8日に病気で逝去されたとの連絡を受けました。ご冥福をお祈りいたします。

神力君から次のような思い出が寄せられています。
「彼とは学校の帰り、京成ローザで「サウンド オブ ミュージック」を観ました。その翌週、再度観ようと誘われましたが、断った記憶があります」

葛西美知子さん(2012年3月13日逝去:肺ガン)

2012年同期会の案内葉書返信で、葛西さんが3月13日に逝去されていたことを、御姉上様からの連絡で知りました。ご冥福をお祈りいたします。
葛西さんは、第1回同期会から第4回まで、返信葉書の「欠席」の方に○をして、いち早く返信が来ていた方です。いわば、確信的な欠席者(迷い、ためらうことなしに欠席)として、事務局の伊藤は一目を置いておりました。
それが60歳の時の同窓会総会の時は一番ではなく、今回はまだであり、ご病気かなと案じていたところだったのです。(事務局)

○川名和夫君の弔文

「彼女とは小学校から一緒ですが、同じクラスになったことはなく、実は一度も話したことがありません。
葛西さんを知ったのは、小学校6年のときで器楽クラブで一緒になりました。小学校は登戸小ですが、登戸小の器楽クラブは、私が5年の時には全国最優秀賞を受賞しています。
私は5年で器楽クラブに入りハーモニカをやっていましたが、6年になってコントラバスを担当しました。そのとき葛西さんは第一バイオリンでコンサートマスター的な存在でした。その年は結局、東関東二位で終わりました。優勝校はリード楽器が中心だったのに対し、我々は弦楽器が中心。音の精度が勝敗につながったと聞きました。
そのときの曲では途中、葛西さんのバイオリンソロがはいりました。当時からバイオリンの腕前は相当なものと感じていました。(そのときのレコードが残っています)

私はそれ以来、恐れ多くて言葉もかけられずにずっと今まで来てしまいました。
社会人になってからも二度くらい見かけたことはありましたが、いつも難しそうなことを考えていそうでしたし、話しかけたいと思いつつ言葉をかけられませんでした。

そしていつもタバコを吸っていたのが気になりました。
心からお悔やみ申し上げます。」

○清水啓子さんの弔文

「39年前、学生結婚した時から1年ちょっと、あの辺に住んでいました。杉井さんの家も近くでした。毎日のように美知子さんが訪ねてきました。その後、私は就職して、何度か引っ越しました。
長女がバイオリンの手ほどきを受けましたが、ある日、突然お母さんからの電話で、具合が悪いからと、バイオリンは止めました。
信仰を得る前、精神カウンセラ-とのやり取りを口にしていました。あれから30年。私からの年賀状に返事はありませんでした。あの近くに、岩藤の父や祖父の墓があり、今もよく通りますが、気になっていました。
ご冥福を祈ります。」

萩生田信義君

萩生田君が逝去されていることを、2012年の同期会案内葉書における家人の方からの返信で知りました。仔細はわかりませんが、心からお悔やみ申し上げます。(事務局)

伊橋伸久君(2011年7月28日逝去)

同期きってのアスリートでありました伊橋君が病気の為に逝去。(事務局)

○嶋田正文君の弔文(2019年2月4日)

彼とも1学年B組で一緒です。性柔軟、人望があり、リーダ的長所を備え、陸上の選手でもある彼は、眼鏡に落下防止用ゴムバンドを付けていました。ある時、クラスの一少年と取っ組み合いになり、バンドごと眼鏡が飛び、ですが伊橋君は、相手の期待に沿えないで起きた、今の喧嘩の訳を落ち着いて述べ、二人の間に後腐れの無いよう配慮を見せたのです。
天性の教育者かも、と感心しました。それから、長い年月が経って或る時、彼の自宅に電話してみると、奥様と入れ替わりに電話口に出た声は、昔の儘の伊橋君でしたが、低く、苦し気で、精気に欠け、まるで苦悩中にある人のトーンです。後日、彼の訃報を同期会HPで知り、唖然としたことです。

○板見君の弔文(2015年9月1日)

同じクラスのSN君とはよく一緒に下校する仲だったが、ある日彼の友人も一人加わった。S君を中に挟んで三人で坂道を降りるのだが、互いに紹介もされぬままの両端の我々二人は何となく居心地悪さを感じつつ会話を繋いでいた。

坂道を半分ほど降りた頃だろうか、突然彼は学帽を取り、S君越しにこちらに向かって挨拶したのだ。「陸上部の伊橋です、よろしく!」
以後、彼と二人だけで親しく話を交わしたことはなかったが、この、居心地悪さを一気に解決しようとする、まことに几帳面な態度には心から圧倒されるものがあった。
大柄の茫洋とした風貌の奥底には、この真摯な面持ちがいつも窺えて、いい奴だなァとの印象が刻まれた。

S君は否定するのだが、この伊橋君、絵の才能もあって、国鉄沿線某駅某劇場の看板描きをアルバイトでやっているという噂、確かに耳にしたように思うのだ。S情報より他に知るあてもないはずだった。
情報の真否はともかく、伊橋君故にこそと思われるその幅広い逸材の証は、これは間違いないS情報として伝わるところの「作家志望」の話。書き溜めて、某賞候補作になったとか、没であったとか云う。
自身もまた、文学的野望を持っていた筈のS君が言うのであるから、これは間違いないことだろう。

あの坂道途中の脱帽挨拶の彼とはじっくり話してみたかった、と今思う。それがもはや叶えられない以上、その幻の「作品」とやらをぜひ読んでみたいと思うのだ。

(伊藤注)伊橋君らしい姿が捉えられている短文だ。ちなみに彼は絵が上手。1年B組で私も美術をとったが、伊橋君と村田(秀)君のデッサンが上手なのに驚いた。2人とも運動神経はいいし、凄いと思った。彼の小説家志望の件は、私も聞いている。

古川保夫君(2010年10月22日逝去:心筋梗塞)

インドネシアのバリ島のサンラ病院で10月22日午前7時15分急逝。バリ島で奥様立ち会いのもと火葬。(事務局)

○甲田正二郎君がボブ・ディランがノーベル賞を受賞したとのニュースを聞いて(2016.10.18)

フォークソング同好会でギターを弾いて、ボブ・ディランを歌っていたのを思い出します。

ご本人が2003年6月に投稿してくれた「バリ島移住記

○林田重吉君からの弔文

「バリ島で事業を起こした矢先のことで無念のことと思われます。彼とは轟中から一緒でした。中学、高校とバスケット部で活躍した雄姿が目に浮かびます。
今は交流はありませんでしたが、彼の事業のホームページを時々見ては、バリ島に憧れている女房に、知人がいるので行こうねと話していました。ご冥福を祈ります。合掌」

鈴木秀君(2010年6月6日逝去:ガン)

平山文夫君が小学校から大学まで一緒だったそうで、彼からの連絡です。平山君と8ヶ月前に再会し、旧交を温めていたそうですが、3月に入院。ガンが骨まで転移していたようで、以降、闘病生活を続けられ、残念ながら逝去されました。ご冥福をお祈り申し上げます。(事務局)

2014年4月に日暮高則君が「会いたいと思っていた友人が「故人」になっていた時の辛さ(鈴木秀君追悼)」を寄せてくれました。

江原(布施)吉男君(2009年1月22日逝去:ガン)

高橋滋君から、江原吉男君の訃報連絡を受けました。高橋君も先日、葛城中学校の同級生から聞いたそうで、江原吉男君(中学時代の名前、高校時代は布施吉男君/3年I組)が1月22日に逝去したとのことです。詳細は不明ですが、ガンとのことです。ご冥福を心よりお祈り申し上げます。(事務局)

林慎一君(2008年9月逝去)

林君は3年次のクラスはD組。同期会は今年は欠席でしたが、平成6年、10年、15年は出席されています。
今から14年前の平成6年の同期会の近況欄には「昨年大病しました。今年長女が千葉高を卒業 云々」とあります。今年の同期会欠席も、体調が悪かったのでしょうか。(事務局)

○奥山悦男君からの弔文

とのことです。奥山君から次のようなメールをもらってます。

「驚きました。林君からは毎年年賀状を頂いており、昨年、私は喪中でしたので、来年は年賀状を頂けると思っていたので、残念です。最後にお会いしたのは、2003年6月28日(土)の高校同期会でした。高校音楽クラブ(チェロを弾いていた)の同期として、謹んで哀悼の意を表します。」

○川名和夫君からの弔文

「3年のときは同じクラスでした。卒業後、68年だったか69年だったか忘れましたが、高校時代に特別親しかったわけでもありませんでしたが、私の家に遊びに来てくれました。

日記にも記していなかったので、記憶は曖昧で、細かい経緯はすべて忘れましたが、私が日大闘争に関わっていることを知って、彼も中大理工だったと思いますが、黒ヘルを持って来ました。

当時は、彼の顔の大きさに比べヘルメットが小さく感じました。黒ヘルはアナキストのイメージがありましたが、彼は別にそんな風ではなく、闘争を楽しんでいる風でもありました。

その一度だけでしたが、私には高校時代の友人らしい友人が少なかったので、とても嬉しく、また勇気付けられました。

私がはじめて出席した前々回の同窓会で見かけたときに、高校時代より一回り小さくなってしまったように見えましたが、まだまだ元気そうでした。
ヤァ、と言いながら、ひとことふたこと言葉を交わしましたが、結局それが最後となってしまいました。

もっと話しておけばよかったなぁ、あのときのお礼を言っておけばよかったなぁ、と悔やむばかりです。
謹んでお悔やみ申し上げます。」

堤保仁君(2007年3月逝去)

勝田君から、堤君の奥様から、彼が去年の3月に逝去とのハガキをいただいたと連絡してくれました。奈良に在住しておられたのですが、残念でした。ご冥福をお祈り申し上げます。(事務局)

○溝口正人君からの弔文

「堤君は同じクラスでいろいろと話をしました。サックスだったかトランペットだったかラッパを吹いていた。だから体の割りに肺活量は大きいと言っていたのを覚えています。
でも、一番よく覚えているのは、英語の授業で宇津木先生が彼を指したとき、よく堤君つつみかくさず言ってください、と駄洒落を言っていたのを思い出します。

私も四谷大塚や予備校で真似さて頂いたくらいです。でも、そのお二人とももういらっしゃらないのかと思うと寂しい限りです。(それもこのHPで知りました。)ご冥福をお祈りいたします。」

中山(巻口)直美さん(不明)

千葉高全体の同窓会での参加者募集に41年卒の先輩が動く中で、巻口さんのお姉さんの件から、中山(巻口)さんが、随分前にお亡くなりになっていることを佐久間(憲)さんが伝えてくれました。ご冥福をお祈りいたします。(事務局)

尾崎雅信君(2004年7月2日逝去:ガン)

○清水教博君の弔文

尾崎へー尾崎雅信君 追悼ー

○渡辺(神保)公子、菅井(會澤)明子さんからの弔文

「ひと月経ちました」

尾崎君、そちらの暮らしはいかがですか?
卒業以来一度もお会いする機会がありませんでしたが、私は高校2,3年時代を同じ教室で過ごしたひとりです。
はにかんだようなあなたの笑顔は、30数年経った今も印象深く心に残っています。
 あなたが旅立たれる少し前、2年の時のクラスメートが集う機会がありました。 あの夜、まず最初に「今日のこの場に来たくても来られなかった二人の友のために」と黙祷してから会が始まったのでしたが、次回は、お会いできないままもう一人あなたを加えなければならないかと思うと寂しさが募ります。

その後当日の出欠にかかわらず、何人かの方と卒業以来途切れていた糸がつながりました。そんななかで訃報に接し、会沢明子さんがあなたの思い出を語ってくれました。 以下にご紹介して、改めてご冥福をお祈り申し上げます。
尾崎君って、2E一緒でしたよね。
ショックです。
尾崎君に関して、一つ記憶に残っていることがあるのです。
確か、定期テスト中だったと思いますが、出席番号順の座席で、斜め後ろ。
あの頃から、胃腸が弱かった私は、昼食後に、胃腸薬を飲む為、ビンを開けようとしてもなかなか開けられませんでした。
それを尾崎君が見ていたのか、黙って、ビンを取って、開けてくれて、黙ってビンを返してくれました。あまりのとっさなことだったので、 私も黙ったまま受け取ってしまいました。
お礼を言った記憶がないのです。
尾崎君とは、話した記憶はないのに、あのときの位置関係とか表情など一瞬の情景を、はっきり記憶しているのです。不思議ですね。 今思い出すと、優しい人だったんだなあと思います。

杉浦八十二君(2002年5月31日逝去)

○嶋田正文君の弔文2019/2/4

彼とは3学年I組(稲葉担任)で、久しぶりに一緒しました。忘れ難い、鋭い錨鼻と、活発な気質を持つ彼が、小4の時に転校で登戸小(京成新千葉駅の傍)に現れた時は、都会っ子の匂いとスマートさに溢れて居ました。ですが今度、3Iで再会したら、すっかり(思春期のはにかみを隠す)おどけ役に徹し、「千葉に引っ越して来た所為で、ガニ股に成ったんだ」とか言って、確かに身体つきの繊細さが失せて居ました。しかし一方、制服の下に俊敏そうなバネを持つ逞しさを備え、複雑な自嘲と諧謔とで、あの年頃のアンバランスを愉快に保つ個性的な少年の姿で、授業中にもクラスの笑いを誘う八十二君を、脇から眺めていました。「八十二」という名は、僕には強烈に印象的で、なぜご両親がそう名付けてくれたのか、ずっと不思議で、羨ましく思っていたのです。

○高橋純一君の弔文

杉浦八十二君追悼ーヤソジ、激走ー

○おわかれ会での弔辞

6月4日に杉浦八十二君のおわかれ会がありました。なお、この日は彼の53回目の誕生日でした。会場にはご家族の歴史となる写真や、これからの栄村の紹介などご子息が作られたものが展示されていたそうです。

司会を田島君が行い、国松さんが受付をされ、同期では織本さん、林(文)君、佐久間さんが弔辞を読み、その他多数の同期の方の弔問がありました。これも彼の人徳だと思います。

織本さんは「ヤソジ君は外見はあんなふうだけど本当に優しい人で、いつも励まされていたので、寂しい」、林君は「越境してくる人の多い中学で、土地の言葉で話す彼と出会い、急速に親しくなった」、佐久間さん「談話サロンを立ち上げるとき、会のコンセプトや、この先の流れ、何回も先のテーマまで見通して企画されていた。その緻密さに感心させられた」という印象に残る暖かい弔辞だったと参列者から聞いております。

海宝さんなどの女性陣は「これからたくさん遊んでもらおうと思っていたのに」と非常に残念がっていたそうです。

高橋(純)君は彼らしく「八十二は栄町から栄村か」と物思いにふけっていたそうです。

最後に岩瀬先生もご一緒に、千葉高の校歌を歌ってお別れしたとのことです。(事務局)

【弔辞】 奥山悦男

杉浦君は高校3年の時、同じクラスでした。 性格は違っていたけれど、よく付き合っていました。 昨年3月、北海道出張の帰りに、千葉へ立ち寄り、 映画「ガイアシンフォニー」を見たとき 33年振りに再会しました。 昨年7月、埼玉へ出張した時に、千葉へ立ち寄り 「四季の会」に参加しました。 その時が、2回目の再会で、 結果的に最後の出会いとなってしまいました。 先月29日に東京へ出張した時、I君に出会い、 初めて彼の病気のことを聞きました。 その2日後になくなられたのですね。 昨年お会いしたときは元気だったのに信じられません。 ご冥福をお祈りします。 恵子夫人へお悔やみ申し上げます。

【弔辞】佐藤仁子

杉浦八十二君の訃報に驚かれている方が多いと思います。

彼が病床にあると私が知ったのは、5月11日、馬場教子さんのお話を聞いた談話サロン「四季」の場でした。その時点で、お見舞いもなかなか難しい状況と聞き、心配していました。

アーリーリタイアした彼は、新潟県南蒲原郡栄村で旧農家を改造して住み、農業をやるんだと語っていた。
その夢がまさに今年実現しようという、その矢先のこと。どんなにか悔しかったことだろう。
春先には、病気と仲よくつき合っていくと明るく言っていたそうなのに。

実は去年9月、杉浦夫妻の案内で、何人かの同期の人とともにその栄村を訪ねました。
温泉のはしご、村の体育館でののどかなコンサート、村民健康大会に便乗参加しての昼食。
彼が買うという農家も見せてもらった。家の前に田んぼがひろがり、庭先にせせらぎが流れ、目を上げると青い山並み。
澄んだ抜けるような青空の下での、忘れがたい2日間だった。

そのとき初めて、高校卒業後の彼の放浪?と、行きついたこの地での牧場開墾労働のことなど、興味尽きない話を聞いた。
改めて、枠にはまらない彼の魅力を知らされた。
そして、彼とは会ったのはそれが最後になってしまった。

「仁子さんさあー」と言いながら隣に座ってくると、ア、またからかわれるといつも少し緊張した。
からかわれて困惑する、けれど憎めない。談話サロンでの今後の展開を楽しみにしていたのに。
高校の時から恵子さんの心に住み着き、そのまま最後の最後まで彼女の最高のケアを受けて、ヤソジ君は逝ってしまった。

明日お別れ会に行くけれど、あの人なつこい笑顔のままで、彼は今も生きてる。
恵子さんの中で、そして私たちの記憶の中で。
それを告げに明日は行くつもりです。

【弔辞】渡辺 章

栄村はJR飯山線沿いの,新潟県との境にある長野県の村です。 私の友人であるラーメン屋のオヤジの生まれ故郷です。

7、8年前の閉店後,彼の息子の運転で突然連れて行かれたことがあります。夜中に走ったので栄村のどのあたりだかわかりません。夏だったと思います。

信濃川を越え,支流を左手の崖下に見て,ややさかのぼったところでした。支流が信濃川に注ぐところに温泉旅館がぽつんとあります。

当日は彼の同窓会の日で,朝から同窓生と一緒になって竹の子の皮むきを手伝 いました。

翌日は,川を上流にさかのぼって無料の温泉やわき水を楽しみました。
あのときが夏だったとすると,栄村は,もうそろそろ竹の子の季節です。篠竹のような細い竹の子です。

★2004年5月22日に栄村で有志が集まって三回忌を行い、

その折りに配られた杉浦八十二君の追悼集に関して、奥山君と川村さんから「落書き帳」を経由して寄せられた感想=思い出を掲載します。(事務局)

○奥山悦男君(杉浦八十二君追悼集によせて)

杉浦八十二君命日
5/29(土)昼、奈良市内のお寿司屋で、朱雀さんと柿の葉寿司を食べながら、私は言いました。
「5/29は私の人生で忘れられない日となるだろう。2年前の今日、東京出張の時、Iさんと食事をし、
杉浦八十二君が入院していることを始めて知った。その2日後に彼は亡くなったのだ。」

今日、5/31は彼の命日なのだなと思いながら、帰宅したら、杉浦恵子さんから、彼の追悼集「仲間と、ともに歩んで」が
届いていました。
パラパラとめくりながら、拾い読みしました。
目頭が熱くなり、字がかすんで読めなくなりました。ありがとうございました。 合掌
○川村仁子さん(杉浦八十二君追悼集によせて)

追悼集

奥山さん こんばんわ。

同期会HPをのぞいて、書き込みを拝見しました。

その節は追悼集への御参加をありがとうございました。
催促だけして、何も音沙汰なしでスミマセンでしたが、きょうの書き込みを読んで、恵子さんの苦労も報われたと、うれしく思いました。
短期間での刊行は、いろいろと苦労があり、三回忌の準備とあわせて彼女は本当に大変だったのです。

追悼集は、一人一人の思いが凝縮され、八十二さんの足跡をたどる重みのあるものになっていると思います。
八十二さんという人の、私はただその一面しか知らなかったのだなあと感じさせられもします。

私は原稿の呼びかけ・催促のほかは何もしなかったのですが、御協力頂いた同期の方々にこの場をかりてお礼を申し上げます。

ありがとうございました。
(追悼集を読んで見たい方がいらしたら、恵子さんに御連絡なさってみてください。巻頭の彼女の文章、とても素敵です。)

一色修一君(2002年7月逝去)

砂村君から、一色修一君が2002年7月に逝去されたことを、一色君の奥様から御連絡を受けている由、知らせていただきました。掲示板に訃報が多くなるのは寂しいです。謹んで、ご冥福をお祈り申し上げます。(事務局)

古宅立さん(2001年8月12日逝去)

神保さんから、大学の同窓会誌で古宅さんが去年(2001年)の8月12日にお亡くなりになっていることを知ったとの御連絡を受けました。ご冥福をお祈り申し上げます。

○渡辺(神保)公子さんからの弔文

大学の同窓会に電話してみました。連絡はお姉さまからの葉書だったが、差出人の住所がなかったので、それまで会報を送っていたご本人の住所宛に手紙を出したところ戻ってきてしまった、病気で入院中だったらしい、ということでした。

古宅さんとは高校時代同じクラスだったし、大学では学部が一緒だったので、在学中に誘われてマーク・レスター主演のミュージカル「オリバー!」に2人で行ったこともありました。(彼女の趣味がミュージカルだったわけではなく、英文科の彼女が英語のリスニングのために行く必要があったらしい。) 

私にとっては後にも先にもたった1回の経験だったので妙に印象に残っています。卒業後どうされたかは知りませんでしたが、突然細かい字がびっしり書かれた年賀状が届いて驚いたこともありました。

高校時代の彼女は飄々として不思議な存在感がありましたから、直接言葉をかわしたことがなくとも記憶に残っている方が多いのではないでしょうか。大学時代の彼女も高校の頃とあまり変わらなかったように思います。ぼそぼそっとした話し方で取っつきにくかったけれど、恥ずかしそうに笑った笑顔が可愛くて、他人に左右されることのない自分自身の世界を持っていた方だったと覚えております。

立さんはおそらく戸籍上のお名前で、高校の頃は自ら立子さんとおっしゃっていらしたように思います。
最近のご様子は何も存じませんし、亡くなられてから一年以上経ちますが、ご冥福をお祈り申し上げます。

山下道隆君(2000年12月28日逝去)

○堀田泉君の弔文

追悼 山下道隆

○古山明男君の弔文

山下道隆君を追悼する

井口優君(1998年10月26日逝去)

平成10年10月26日に心筋梗塞でお亡くなりになりました。ご近所の佐久間憲子さんが弔問に行かれ、その連絡を受けて、同じ野球部の村田秀志君、小出敏明君が弔問に行かれた時に同期会からも弔意を示しました。(事務局)