山下道隆君を追悼する

古山明男

  山下道隆君の追悼文を書きたいと思った。思っても、とりかからないと容赦なく時間が過ぎる。いつのまにやら5年たった。まあ、いいか。たかが5年。

  千葉高2年のときに、F組で同級生になった。クラスで自己紹介するときに、山下はなにやら生硬なことをしゃべっていた。私にとって、思想で頭をいっぱいにした人間に出会った初めての体験だった。

  後で聞けば、広島のクリスチャン系の6年一貫校で、疑問を教師たちにぶつけて対立し、放校に近い形で出て来たと言う。千葉高に転入する際も、広島での件が問題になって、すんなりとはいかなかったらしい。それを引き取ったのは本野先生で、自分が責任を取るからと、自分のクラスに入れていたそうである。

  山下は、修道士の教師たちと議論で渡り合い、理論武装してきていたのだ。千葉高の生徒たちは、洗練されたシティボーイというわけでもないが、熱く自説を語るなどダサいという感覚が主流だったと思う。その中で、山下は四面四角に組み立てた論理を持ち出す異質な人間だった。

 顔立ちも四角だった。よく、その四角い顔をちょいと横に傾げていた。そうすると、子どもが大人を見ているときのような可愛らしさがあった。それは、何歳になっても、同じだった。

 私は、彼とクラス運営でいっしょに仕事をすることが多かった。彼は、事務局的な仕事を引き受けるのを生き甲斐としているような人間だった。この2年生のときのクラスは、その後も、ずっと同窓会のようなものが続いている。その理由の一つは、かなりの期間、山下が事務局を引き受けて、活動を恒常化させてくれたためである。山下は、父親が転勤族だったので、千葉高でほんとうに自分の仲間と言えるようなものができて、嬉しくて嬉しくてやっていたそうだ。

 高校を卒業してから、彼の家でよく麻雀をやった。彼は、現役で千葉大の医学部に入っていた。そこに私を含めた浪人組がよく押し掛けた。麻雀をやっていると夜が明ける。そうすると、彼のお母さんが、おにぎりとみそ汁の朝飯を出してくれた。これが、とびきりうまいのだった。恐縮しながらも、この朝食は、山下のところで麻雀をやる魅力だった。

 山下の麻雀は下手だった。方針を決めるとあとは一本槍なので、何をやっているかが外から見え見えだった。彼は、テンパイするまでは自分の手しか見ていなくて、テンパイすると急にまわりを見回す。その様子だけ見ていれば、危なくなかった。およそハッタリや小細工を弄することのできない奴だった。

 彼が最後に入院しているとき、自分の仕事のことについて話してくれた。彼は、市の行政と医師会のパイプ役もしていたのだと言う。ちょっと驚いた。およそ、政治的なタイプの人間ではないと思っていたからだ。しかし、それもそうかと納得した。何をやっているかが外から見え見えで、ハッタリや小細工のできない人間は、誰からも危険視されないではないか。利害が錯綜するような世界でこそ、こういう人間が必要とされるのだった。

 山下は、冗談もうまくないし、そう機転がきくわけでもないし、話をしだすとデータ的な論証をえんえんとやる。つまらない。しかし空疎ではない。奥に情熱があることはわかる。政治でも通用するのである。

 彼は医師だったが、ながらく行政に身を置いて、医療政策に関わっていた。「コウモリみたいなものでな。行政の世界じゃ医者だと思われ、医者の世界じゃ行政の人間だと思われる」と苦笑していた。しかし、それは彼が選んだ世界だった。彼は、医学生のときから、医学がただの技術ではいけないと直感し、人間のための医療を作り出そうとしていた。それは、生涯一貫していた。口を開けば硬いことばかり言っている人間だが、彼は実は情熱で動いている人間だった。

 彼は、およそ、感情がストレートに出てくる人間ではなかった。感情が高ぶると、データ的なことばかり話すクセがあった。彼の母親が、ガンで亡くなったすぐ後、彼も含めた友人たちと合宿に行ったことがある。山下は酒の勢いで、私を捕まえて、えんえんと解剖の実習のことを話していた。頭蓋骨から内耳を取り出すのは、たいへん難しいものなのだと、その技術やら、位置づけやら、道具やらを話す。えんえんと話す。何を言いたいのかなかなかわからないのだが、ようするに、その翌朝、母親が死んだということなのだった。母親が死んだというメインの部分はひどくあっさりしていた。解剖学の実習のデータが、ひどく充実していた。

女性を口説けるようなタイプには見えなかったから、こいつは見合い結婚だろうと思っていたら、結婚式の招待状が届いた。行ってみたら、看護婦さんとの恋愛結婚だった。その後、二男一女をもうけた。

30歳くらいのとき、松戸の病院に勤務している彼を訪ねた。そのときは、私も生硬な論理を振り回す人間になっていたから、彼に異質さを感じなくなっていた。いっしょにいると、お互い、自分の関心事ばかり生硬に語っている。けっこうそれで話が通じているのだった。

彼の3番目の子どもが、先天的な心臓の奇形を持っていた。かなり重症のものだった。彼は、そのデータをたくさん送ってよこした。その子は、そうとうにリスクの大きい、まだ開発段階の手術を受けた。山下から、またデータがたくさん届いた。幸い、手術は成功した。

病弱な子どもを持ったためだろうか、山下は親切な医者だった。私の母が脳梗塞で倒れたとき、山下に相談したら、さっそく来てくれて、見通しを教えてくれた。脳梗塞が山下の専門外だということは承知している。それでも、肉親の重病のときは、しっかりした人間のセカンドオピニオンがほしいものである。なにか、ワラでも掴みたいものである。そういうことに的確に応えてくれるやつだった。昨年、高校のときの仲間と山下の墓参りをして、生前の山下の話になったら、みんな、自分の親の病気のときなどに、山下の世話になっていた。そういうことを頼める奴だったし、応えてくれる奴だった。

いつのまにか、私は私塾をしていた。「俺は、子どもに教え込むのが嫌いなんで、子どもと遊んでるよ」と山下に言ったら、ちょうどいいと、その3番目の子どもが私の塾に来るようになった。体力に制約のある子なので、ふつうに勉強させるのとは違う道を行かせたいということだった。大事にされて育った子で、人への信頼をしっかり持っているいい子だった。そのうちに、お姉ちゃんの英語と数学も、お兄ちゃんの受験勉強もちょっと付き合うことになった。子どもたちは、父親ほど堅物ではなかった。でも、何か父親と共通したしっかりしたものを持っていた。その何かを、私はうまく言葉にすることができない。

 そのうちに、山下が、「首にグリグリができた。悪性リンパ腫だ」と言ってきた。データをたくさん送ってきた。荒療治をやれば、長期間生き延びられるかも知れない、ということだった。下の子が大人になるのを見届けなければならんからなあ、とちょっとテレた口調で彼は言った。

 それは、たいへんな荒療治で、いったん生存のぎりぎりまで身体を追い込むものだった。彼の髪の毛はすべて抜け、坊さんのような姿になった。私は、昼間が暇な職業だから、よく彼の病室を見舞った。坊主頭で作務衣のような服を着た彼は、まるで御修行中の僧侶だった。相変わらず彼はデータの話しばかりし、私は社会談義ばかりしていた。彼は、新しいタイプの病院を作る構想があり、その話をよくしていた。

それから5年もたって、もうすっかりいいじゃないか、完治を祝ってやろうなどと考えていたら、彼から「再発した」と言ってきた。

生き方のペースを落とすことができなかったのだろう。本来の仕事のほかに、病院での診療もしていた。自分も死にはぐっているから、患者への応対が親切である。ずるずると時間をかけるのである。

再発となると、見通しはあまり良くない。薬でだましだまし数年生き延びる道と、一か八かの荒療治をまたやる道で迷っているということだった。けっきょく、荒療治の道を彼は選んだ。やはり、息子のために賭けにでたのだった。

医者を相手に気休めを言っていてもしょうがない。「過去のデータでは、生存曲線はどうなってるんだい」と私は尋ねた。

「こんなトシになるとやらないのが普通なんで、データがないよ」と彼が言った。

「ああそうかい」

で話はだいたい通じた。ひどく分の悪いバクチをやっているということだった。私が彼の病室を訪ねる回数が増えたし、彼が来し方を語ることが多くなった。千葉高に転校してきた顛末を聞いたのも、このときだった。

彼は、進行中の病院のことをたくさん話した。技術に走るのではなく、人間のためになる病院を作るのだと言って、彼は行政に働きかけ、新しい構想の病院建設が進行していた。しかし、大事なタイミングで前回の入院となった。彼がいないと、構想は違うほうに行ってしまう。仕事に戻ってから、彼はなんとか方向を引き戻し、彼が副院長に納まって実質的な指揮を執ることに決まった。しかし、そこでまた、彼が倒れてしまったのだった。大きなため息とともに「やあれやれ」と彼が言った。彼は、若いときからよく「やあれやれ」と言う。

 荒療治が始まる前に、家族と過ごせる時期がしばらくあった。千葉高の二年のときの仲間が、最後の機会になりそうだからと同窓会を設けた。山下をなんとか連れてきてくれと、私が頼まれた。いっぽう奥さんが、こんどこそ、この不養生な医者に身の健康というものを考えさせようとしていた。声が掛かれば、すぐにひょこひょこと出かけていく男なのである。山下は、奥さんの言うことにしおらしくしていた。長いあいだ家族を二の次にしてきたことへの、負い目があったのだろう。誰の立場も当然だから、私は、誰の話も右から左に伝えて山下まかせにすることしかできなかった。同窓会を企画した連中は、当てがはずれたまま、同窓会を開いた。なにかしら、散文的で、騒ぐ同窓会になった。

そのあと、彼がひょっこりうちにやってきた。高校の時のクラス文集を持ってきて、預かってくれという。「うちにおいておくと、きっと捨てられちゃうからな」と彼が言った。別れを言いにきたよ、という意味である。山下は、感情を出す人間ではないが、落ち着いた情感をたたえているところがある。その情感をいっぱいにされれば、どうしようもない。ああそうかい、わかったと受け取った。

 彼は、病室にパソコンを持ち込んで、メールで仲間に発信していた。相変わらずデータが届き続けた。そのうち、彼ではなく主治医の先生からデータが届くようになり、やがてその主治医から、万策尽きた、というメールが入った。

 高校のときは、彼のことをデータを相手にする理系人間なのだろうと思っていた。でも、彼は徹底的な社会派の人間だった。そこにもってきて、運命としか言いようがない家族や自分の病気で、たいへんな目にあっている。けっきょく、彼はいい医者になった。とてもいい医者になった。

 高校の時の仲間と話をすると、みんな、これから山下を頼りにしながら、老年へと入っていくつもりだった。私もあてが外れた一人である。

 30年くらい早く死のうが遅く死のうが、人生としては等価値だろうと思うが、社会派の人間はやはり長生きして人の役に立つのがよろしいと思うのである。


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