「追悼 山下道隆」
堀田 泉

 

§1 その昔

 ご存じのように山下は高2になったときに転校してきた。前の学校で「きびきびやってきた」ところと対照的な千葉高の自由さが新鮮だったと後に述懐するのだが、こちらはこれが普通だと思っていたからそんな実感もないし、毎年クラス替えがあるのだから転校生だろうとあまり違和感はなかった。広島訛りだけは目立ったが、それはむしろかれの誇りでもあったようだ。

 青葉の美しい時節に友達になって、それから2Fでのかれの活躍は改めて記すまでもないだろう。卒業してからもしばらく、いろいろな企画を立てては実行する中心にいた。文集のガリを切り、麻雀もよくやった。今に至るまでの2Fの結束はほとんど山下に負っているといってもいいだろう。

 性格は真っすぐ。曲がったことは嫌いだった。何につけても自分なりの方針や流儀をしっかり持っていた。そしてその背景には雰囲気や感情でなく、しっかりと理論づけがあった。こだわりもあった。それは見方をかえれば融通のなさにもつながる。だが、それを他人に押しつけるようなことはなく、私のような対照的に意志薄弱な人間もよく理解し、尊重してくれた。茶目っ気もあるし何よりも友達思いだったのはみんなも知っているとおり。

ひとつだけ忘れられないエピソードがある。夏の佐貫の合宿だったか、いっしょにかき氷を食べに行ったときのことだ。椅子に座って注文を出すなり、かれは立ち上がり、財布を出して奥に行って支払いを始めた。戻ってきて怪訝そうな顔をする私に向かって「いつもこうしているんだ。後ではだめなんだ」といって、今はもう忘れたがその理由を丁寧に説明してくれた。

 医学部生のとき、かれは母親を癌で喪っている。家が近く、よく行き来していたので、私にとってもいろいろな印象が残っている。このことが後の臨床医として生きる方向に多大な影響を与えたのだが、それはここでは書かない。
かれ自身が直接書き遺しているし、話を聞いた友人も多いと思う。私の守備範囲はもうちょっと後のこと。この時期は実はあまり交流がないのだ。再開されたのは、同級生たちがそろそろ大学を卒え、仕事に就くようになって遊び相手に事欠くようになった頃だ。かれは国家試験の前後で私は修論を控え、お互いそうそう暇というわけでもなかったがともかく学生だった。夏休みになって帰省すると毎年のように連絡が入った。たいがいは海に泳ぎにでかけた。とりわけ1974年の夏は忘れられない。かれは緑のサニーを乗り回していた。

 「2、3日どこか行かないか」という電話の小一時間後にかれはやってきて、支度もろくにできていない私を乗せると、そのまま国道14号を東京に向かって走らせた。困ったのは行き先を決めていなかったことだ。私が、多少土地カンのあった「とりあえず伊豆でもどうだろう」と提案すると即決。首都高の手前あたりだった。
西伊豆のコースで南下し、適当な海岸を見つけては泳ぎ、夕方には適当な宿を見つけて3日ほどで伊豆半島を一周した。山あり海あり、その海も芋洗い状の海水浴場から名も知らぬ人気のないところまで、旅を満喫した。「とりあえず」と「適当な」というのはもっぱら私の流儀で(だから腰は軽い)、何事もきちんとやろうとするかれとは結構意見が食い違う場面もあったのだが、ともかく行きあたりばったりの愉快な旅だった。

忘れられないひとこまは、最終日の夕方、熱海の手前まで来たときだった。かれは突然車を道路の左に寄せてエンジンを切った。「どうした」、「ちょっと眠い、休む」といってシートを倒した。遊び疲れと睡眠不足が効いたのだろう。山下らしいと思う。危険だと思えば、その場で考えうる最善の手を打つ。

 これがなかなか凡人にはできない。というのもつい半年前、私は高速道路でこの状態に陥った。眠いな、という自覚はあった。急ぐわけでもないのに頬を叩いたり首を振ったりして、いわば惰性で運転し続けていたのだが、一瞬意識が遠のいた。ハッとしたとたんに走行車線と左に向かう出口との別れ目の縁石と植え込みが目の前にある。慌てて右に寄せて事なきをえたが、2、3秒遅れたら山下よりも先にあの世に行っていただろう。その時記憶の底に埋もれていたこのことを思い出した。

 

§2 医者から役人へ、そして患者に

 お互いが結婚、就職、子供の誕生などで忙しくなると、こういった消息は簡単な書面で交換してはいたが、つきあいはまたしばらく途絶えた。これらが一段落した30代も終わりに近くなるころ(実は私は一段落しなかったのだが)、10何年ぶりかで再会し、それからは時々会って話をするようになった。

 医者の道をまっしぐらかと思っていたのだが、第一声は「一番の下の子供が生まれてすぐに自分の専門である循環器−心臓−の手術をしてね。随分と考え方がかわった」ということで、病院には出ていたが行政職への転身のいきさつをかれは語った。医者と患者の双方の立場を知り尽くし、救急医療、地域医療を行政の場から充実させようとする山下の思い、弱い者(患者)への思いは、情熱的かつ相変わらず理路整然とした意味づけのうえに展開されており、「とりあえず」と「適当な」で世渡りをしている私にはいささか暑苦しくもあったが、そういう自分を省みる良いきっかけにはなる。それにしても、「もののはずみで」とか「思いもかけなく」とか「軽率にも」といった私の人生につきものの言辞には無縁なのだろうか、この人には。

 数年たって1年とすこし、音信が途絶えた。われわれのインターバルからしてそれほど不自然な時間ではなかったのだが、突然、分厚い封筒が送られてきた。
それが第一回目の「悪性リンパ腫」の自己移植による闘病記であり、最近快癒して退院した、という完全な事後報告だった。ワープロと高校以来のあの悪筆でもって、病気の性質から発病の模様、現在に至るまでの経過が、データを付されほとんどが医者の目で克明に記されていた。患者の立場としては、抗ガン剤の副作用の想像を絶する苦しさ(これは今回数段改善された、だが、結果的にはこれでかれは命を落とした)と、1カ月以上の無菌室でのつらさが綴られていた。

 私は驚愕した。とりあえず連絡をとって会った。ぼつぼつ役所に出て、社会復帰しているという時期だった。まだ髪の毛が戻っていないので、その姿は柔和な仏僧さながら。多分、この時は2Fの仲間もお見舞いに行ったはずだ。「どうして知らせなかったんだ」と私はなじった。答えはなかったが、知らせてもどうなるものでもない、ということかもしれない。あるいは私の住まいが遠いので、心配をかけたくない、ということかもしれない。治る、という自信もあったのかもしれない。この自信だけは、あったとしたらちょっと気になる。二回目にその影響があったかどうか。

 それからしばらくは再発の恐怖と隣り合わせだった。また、出張などを利用して度々会って話をするようになったし、電話でも時々連絡をとった。1年が経ち、数年が経ち、普通の山下に戻っていった。そして再発ということ自体、意識から遠のくようになった今年(2000年)のはじめ、突然Eメールが入った。

 後の古山の話によると、この頃の山下の働きぶりは、家に帰らないこともよくあるほど猛烈だったらしい。そして死にかけたのだと。メールの内容は、暮れに高熱を出して入院した、再発の疑いがあるが、これだけ期間が空いていれば考えにくいことでもある、今は元気だ、とのことだった。しかし、ほどなくして期待空しくリンパ腫の型が前回と一致した。それからは定期的にメールの病状報告が届くようになった。私は次の出張を待ち兼ねるようにして3月26日、病院に行った。

 

§3 病室で

 言葉どおり元気だった。かれは医者が患者にいい含めるように、状態を語った。今回は癌が転移していて骨髄幹細胞の自己移植はできない、今は抗ガン剤と放射線の複合治療をおこなう、これは前回よりも改善されていて体への負担は相当軽減されている、一時的に白血球数が低下するので回復をまって断続的におこなう、それでガンを叩き、進行を止めて5月頃一旦退院する、それから1年半後ぐらいをめどに本格治療としての他人からの骨髄移植をおこなう。高齢、再発と条件が悪いので、時間をかけて適合ポイントの高いドナーを探さなければならない、そしてそれは命をかけた移植になるだろう、と(拒絶反応とか、免疫低下による感染症など致命的なことをいくつも乗り越えなければならない)。

 病気の説明のあとは際限もないほどのおしゃべりだった。病院での生活、奥さんや子供たちのこと、高校の友人たちの様子、医学教育・地域医療・介護保険のこと(病床でもよく勉強していた)、パソコンのこと、とりわけEメールは今回は無類の威力を発揮した。私は都合3回しか見舞いはできなかったのだが、古山もまじえてかれは無菌室からも、意識がなくなるまで発信を続けた。途中で体への負担を理由に一時禁止されたが、私たちも定期便を出し続けた。極言すれば、毎日がお見舞いだった。

 2時の面会時間から病室に入ったのだが、話続けて時計はもう6時に近かった。10階の窓からは千葉の町の東側がよく見えた。真下の道の両側には蕾がほんのり赤らんだ桜並木が見えた。あとしばらくすると満開になるのだろう。「千葉高も見えるぞ」とかれは指をさした。そこには私たちが学んだ校舎はなかったが、走り回った校庭はあった。千葉にはよく来るが、街を横切ることはめったにない。30年以上も前のことを思い出しながら、私は回り道をし、千葉高を通って帰った。

 回復は順調そうだったが、5月の退院直前の検査で別の転移の所見があった。退院延期でがっかりしたメールが届いた。再び断続的な複合治療が続けられる。次の私の出張は7月だった。

 このときも2時を待って病室に入った。父親が着替えを持って来ていた。前回と同じく元気だったが、予定通り事が進まないあせりもあった。
「再発だったんだね」
「うん、ちょっと油断した、前の移植のときから7年経っている、だから下の子供が成人するまでのあと7年は生きたい、子供の体が悪いのでそれだけが気掛かりだ」

 枕元には、新聞、書籍、ノートと筆記用具、そして片隅に聖書があった。
「夜、寝付きが悪いとつまらんことを考えるからな」
しかしこの経緯を通じて常に感じていたことだが、かれは決して身の不幸を嘆くこともなければ、辛さを訴えることさえひとつとしてなかった。少なくとも私には。昔から意志の強い男だったからか。あるいは臨床医として数々の修羅場を踏んできたからだろうか。だからまた、相手が病人であることも忘れて、ふだん外で会っているときのように長時間楽しく話し込んでしまうのだ。2Fの友人たちのことに話が及び、いろいろ出てくるので私は切り出してみた。
「みんなに知らせようか」。しばらく考えて「いや、いいだろう」と答えた。
「自分の弱った姿は見せたくないのか、そう弱っているふうでもないけど」
「いや、そういうわけでもない」

 この時の気持ちは後で忖度してみたい。唯一見せた弱気だったように思う。あと、書いておきたいことがある。山下はかねてから千葉高の女生徒をいたく尊敬していた。在学中も卒業後も何の艶話もない無粋な男だったが、「だれも例外なく、賢くて一般の女性とは数段レベルが違う」と、そんな話をしていた。そしてぼそりと付け加えた「女として見たことはなかったが」。この逆接のセンテンスは、たんに前の文章にかかっているのか、それともこの先に新たな文章が続くのか。今となっては聞くすべもない。心当たりのある人は、今度私とじっくり飲む必要があるかもしれない。もちろん冗談だけど。そんなこんなで「また、くるよ」といって病室を後にしたのはやはり6時近かった。でも3月のときにはなかった心の重さが残った。

§4 移植を急ぐ

 その後のメールは、事態の展開を告げている。再度の複合治療で前回のところにガン細胞が認められないにもかかわらず、また別の転移があった、モグラ叩きで結局はジリ貧になってしまうので移植を急ぎたい、8月半ばから1カ月ほど一旦退院してから移植にかかる、ドナーは長女の朋子さん。

 「起死回生」という言葉を山下は何度か使った。このまま叩くだけでいけば1、2年はもつだろうが、病院からは出られず、体はだんだん駄目になっていくはずだ、それならば危険を冒しても7年の可能性のある荒療治に賭けたい、そういう意味がこの言葉に込められていた。先ほど示唆した前回の自信もあったのか。医者と患者の同時存在を私はずっと感じていたが、この時ばかりは危険を最善に避けようとするいつもの山下ではなく、患者としての息づかいがまさったように思った。がんばれ、というしかない。

 「鳥肌の立つような緊張感」で9月12日再入院した。家族と過ごしていた間は中断していたメールが再開された。
古山と私は、気を紛らそうと日常の些細なこと、感じたことをこまめに書き送った。議論もふっかけた。
臍帯血をとったり骨髄移植をする目的で子供を生んだり、人工授精することをどう思うか、とか。
私の話。荒れた教授会の後で、気を鎮めるために一杯やって、駅から原ちゃりのエンジンを入れたはいいが、U字ロックを解除するのを忘れてつんのめりそうになり、ロックは車輪に挟み込まれて動かず、泣く泣く置いて帰って翌日修理屋を呼んだこと。2輪では、打ち所悪くて死んだ高校生の親の嘆きを救急で知っている、ただちにやめろ、飲酒運転などさらにもってのほか、とおしかりの返事が来た。
古山の話。家の木にキジバトの夫婦が巣を作って卵を温めてヒナをかえした、手の届きそうなところ、そのうち取りにいってやろう。

 山下からは検査データや処方の無味乾燥でしかも詳細なレポートがよく送られてきた。これは古山によると調子の悪いときなのだそうだ。「時間」についての議論をしたときには、山下はめずらしく思い出を語った。それが「自由な」千葉高のこと。娘が生まれてとても嬉しかったこと‥‥。
このネットのなかで「山下君を議員にする会」が会員3名をもって結成された。趣意書にこうある。「この会はゆくゆくは山下君を議員選挙に送り出すことも見越してつけたという、発展性に富んだものであります。まな板に乗った鯉に水を掛けたり、くすぐったりしてやりましょう」。私はただちに広報委員長になった。だからこうして書いている(今、12月31日、葬儀を終えて東京から奈良に戻る電車のなかでノートワープロを打っている)。本来ならご家族とも親交のあった古山が適任だろうけど。山下の思いがどれだけ伝えられるだろうか。自信はない。

 きつい放射線照射や抗ガン剤の投与ののちに、骨髄幹細胞が移植された。朋子さんからの採取は、同じ病院でおこなわれた。愛娘と過ごした数日間!それはかれが若き医学生の日々を過ごした場所でもあった。

 前回よりも多少は手間取ったが、細胞は無菌室のなかでともかく生着した。前回は孤独の無菌室だったが、今回はパソコンが外の世界への窓を開いた。だがそれとともに苛酷なまでの癌叩きが、癌細胞だけでなく多くの臓器を襲い始めた。

§5 最後の面会

 10月29日、また出張のおりに病院を訪ねた。この日には何か運命的なものを感じる。なぜならば私の出張の予定は1週間前で、先方の都合によってたまたま延期されたのだ。予定通りなら無菌室だから話はできない。またこの2日後に意識を失ったのだから1週間遅れても駄目だっただろう。かれは無菌室から個室に移ったばかりだった。それも無菌室を無事卒業して、ということではなく多臓器不全に対処するための繰り上げの個室入りだった。

 2時きっかりにナースステーションで記名をするなり「会えますか」と看護婦さんに尋ねた。一瞬顔を曇らせて「今日は調子が悪いんですけど」といいながらも医師の許可を取ってくれた。細菌感染を防ぐために紙製のマスクとキャップをつけて全身に消毒液をふりまいて部屋に入った。奥のベッドで頭上部にビニールの覆いをかけて山下は横たわっていた。こちらからは話しかけられない。

 「移植はうまくいったけど、いろいろ別の障害が出てしまってね」。はっきりした声だった。そして足元の電話を指して、電話で話をしようという素振りを見せた。しかし受話器をとるのはいかにも大儀そうだったし、ここはひとつ体力を蓄えてしのぎきってもらうしかない。私は山下に背中を向けて空中に指で文字を書いた。「ま・た・く・る、が・ん・ば・れ」。かれはかすかに頷いた(ように見えた)。そして部屋を出るとき「遠くからありがとう」といった。これが私の聞く山下の最後の声だった。その時はもちろんそうは思わない。今回は5分ちょっとの面会。走り書きの手紙を看護婦さんに託した。
今年は暑い、長い夏だったがこの日は晩秋を思わせる冷たい雨が降っていた。「絶対に乗り切る。気合を送り込んでやる」。そういう気持ちで病院を後にした。しかし駅に向かう千葉の街はこの世のものとは思えぬほど、暗くくすんでいた。

 翌日は晴天。私は時間を作ってこのHPの主宰者の伊藤三平君をオフィスに訪ねた。いつもお世話になってます、とひとこといいたいために。
歓迎してもらえて、いろいろな話をした。楽しかった。そのなかで、ふと思った。伊藤君は私と同じく、くたびれた中年男でもあるが、ともかく一国一城の主として頑張っている。充実感もあればそれなりの挫折もあることだろう。もしこの私が今、先の見えない苦しい病を負っているとしたら、生き生きとしたかれの姿を平静に受け止められただろうか。羨ましく妬ましく、悲しいほど眩しく思うことはなかっただろうか。なぜ自分だけがこういう目に遭わなければならないか、行き場のないやりきれない気持ちになることはなかっただろうか。
「いや、いいだろう」という山下の言葉をこう解釈するのは、もしかしたらかれの人間性を私のレベルに引き下げる侮辱的なことであるかもしれないし、すべて完全に理解しているとはいえない伊藤君にだって失礼に当たるかもしれない。でも、もしも、そうだとしたら山下も頭の中の理想でだけで生きていたわけではないし、そして、もしも、もしもそうだとしたら、これほど残酷なこともなかろう。私たちは日々生かされている幸運をかみしめるべきだ。

 その翌日、奈良に帰る新幹線のなかで、毎度のことながらお気楽なメールを打った。しかし、これは山下に読まれることはなかった。家に帰ってパソコンを立ち上げた瞬間、奥さんからの連絡を受けて古山から、山下が集中治療室に入ったというメールが来た。

 

§6 20世紀のおわりに

 山下は、もし連絡がとれなくなったら病院のA先生に状態を聞くようにあらかじめ古山に指示していた。古山がメールを出す度に、山下の同級生でもあるA先生は詳細に病状を報告してくれた。呼吸が自力では困難になるために人工呼吸器を付けざるをえない。そうするとどうしても意識の抑制(一種の麻酔状態にする)をしなければならない、その状態で人工透析をしたり、肺や肝臓に対する処置をとって回復を期する。それが最後に残された道だった。しかし、A先生の報告も回を重ねる毎に苦渋の色を増していった。

 それでも山下は意識のないまま、2カ月近く頑張った。家族への思いがそのエネルギーの源となったのだろうか。「癌と戦うな」という趣旨の本があったが、51歳ではそうはいかない。ましてや事情を抱えた身だ。残されたわずかな可能性を求めてA先生のいう「全身スパゲッティ状態」が続き、懸命の治療が重ねられた。壮絶な戦いだった。ご家族の苦労はどんなものだったろう。息をひそめて古山と連絡をとった。病状をA先生に聞こうとするタイミングがふたりとも全く同じで苦笑しあった。古山は書いている。「山下に対して、出来ることがあるわけでもない。言いたいことがあるわけでもない。聞きたいことがあるわけでもない。でも、用件をすべて越えたなんらかのコミュニケーションってものがあるし、それが大事なんだなって気がします」。そしてついに12月28日朝、A先生から「悲しいお知らせ」のメールが入った。

 このHDに、人の目にはもうふれないだろうメールの束がある。読み返してみて目の先がかすむ2つの箇所がある。ひとつは無菌室で、見舞いにきた老いた父親の背中を、無言で廊下越しに見送る山下のつぶやき。「オヤジ、すまん」。
もうひとつは、これから意識に抑制をかけるというときのA先生の文章。「家族全員が来院され、しばしの別れを惜しまれていました。私も近くにいる同級生に声をかけて来てもらいましたが、ご家族のお話を邪魔しないように、遠くで見守っていました」。

 いるとしたら神様とはとてつもなく妬み深いのか、あるいは医者や患者や役人の立場まで知り抜いているような有能な人物を好んで呼び寄せるのか。私はこれから、今にも増して、小狡く、薄汚く生きよう。とりあえず適当に生きよう。神様に相手にもしてもらえないように。

 通夜告別式には多くの同級生が集まった。あの山下君が亡くなったということで、暮れの忙しいときにもかかわらず駆けつけてくれた友人がこんなにもいる。30年ぶりの再会もあった。山下が引き会わせてくれたのだ。そういえばほんとに身近に感じていた古山だって久しぶりだ。7年前は山下といっしょだったよな。私はこれらの素晴らしい同級生たちを持ったことを誇りに思う。

 20世紀を3日残して山下は去った。病気だからしなければならないこと、病気であろうとなかろうとしなければならないこと−−それらをひとつひとつ選びだし、精一杯立ち向かっていった。棺に近寄り、なきがらを前に最後の別れをした。

 最愛の人とこんなに早く別れねばならずに、どんなにせつなかっただろう。
これから立派になっていく子供たちの姿を見られずに、どんなに悔しかっただろう。
父親を悲しませて、どんなに辛かっただろう。
友達はみな元気なのに、ひとりだけ苦しかっただろう。
何度もいうが愚痴ひとついわずに‥‥。こうして「またきた」けれど‥‥。でも、いろいろ楽しかったよな。今度はみんなで旅にでも出ようや。また、車運転して来い‥‥何となく山下口調になっている。そして山下から学んだことが確実に私の胸の中で反芻されていく。適当にやっても行き詰まったときに、必ず思い出すだろう。

 こうして私の20世紀もあと数分で終わる。

(2000.12.31記)

後記 ご家族や関係者に礼を失したところがあったかもしれません。また、医学上のことは私の無知ゆえに間違っているところがあるかもしれません。その点おわび申し上げます。


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