杉浦八十二君追悼

ーヤソジ、激走ー

高橋純一

「おい、<八十二>って何て読むんだよ?」

それが彼と交わした最初の会話だった。中学2年の時である。

小・中・高と12年同じ学校に通ったが一度も同じクラスになったことはなく、小学校の頃などその存在すら知らなかった。

その彼と冗談を言えるような仲になったのは、互いに駅伝の選手に選ばれてからのことである。

彼はこの年創部された水泳部でメキメキ頭角を現し、平泳で並みのクロール泳者を負かしたりしていたが<走>の方でも力をつけてきていた。

<千葉市中学駅伝大会>―確か市内の公・私立会わせて14〜15校出場していたと思う。

彼も私も2年、3年と2年続けて選手だった。

区間は2年の時が中央公園(千葉パルコ付近)からJR誉田駅までの片道4区間、往復8区間で、3年の時は県営陸上競技場からのスタートに変わった。

2大会ともヤソジからタスキをうけるめぐり合わせとなった。

2年、3年と選手は若干入れ替わったが殆どそのままだった。

初めて出場した2年生の時は4位、そして2度目の3年生の時は準優勝。

この3年生時は選手8人がよくまとまり、何にもまして燃えていた。

時まさに私立高校入試の真っ最中。遠慮ぎみに参加を打診する担当先生の前で俺たちは「出ます」ときっぱり返事をした。もちろん親に相談などすることもなく。

ヤソジと俺は「誰が何と言おうが絶対出ような」と誓った。

思えば受験、受験と騒ぎまくる世間に対しての反発心の現われだったのかもしれない。

いや、きっとそうだったと思う全員が。

この俺たちの態度に体育主任加藤先生は卒業直前の<緑中広報>にこう書いている。

「・・・1月の末で私立高校入試がはなやかな時、3年生の担任や私共の心配を一吹きにした態度。ほんとうに私共が恥じねばなるまい。世の中が猫も杓子も進学と言って、それが家庭でも学校でもすべてになってくることは恐ろしい。その時この子たちの参加態度は一服の清涼剤を味わった気がした。・・・」

受験真っ只中の俺たちが参加することに多分学校内部でいろいろとあったのだろう。

わが緑町中には陸上部が無く、駅伝の選手は校内マラソン大会の上位入賞者の中から選ばれた。駅伝の作戦もマラソン大会1位が1区、2位が2区と単純だった。

練習も先生無しで俺たちだけでやった。その練習も大会前の1週間だけ。

ユニフォームなんて当然ありゃしないのでバスケットクラブからの借り物ですませた。

優勝候補は花園中と加曾利中。この2校は千葉県中学陸上界のエース2人をそれぞれ擁していた。花園中の藤代、加曾利中の石原両君である。2人は目黒高校に進み、高校陸上界でも活躍することになる。

しかも1年前から準備は万全である。俺たち寄せ集めチームとは格段の差があった。

だから燃えた。みんな燃えた。特にヤソジは前年の千葉市中学陸上競技会での3000メートル走で藤代、石原についで3位となったことで一番燃えていたかもしれない。

そして2月6日がやってきた。本来は1月30日だったが雪で1週間延期となったのだ。しかしこの日も曇天から夕刻には雪に変わった寒い一日だった。

午後1時スタート。1区はわがエース加藤隆史。おそらく藤代、石原についで3番目でタスキを渡すのはまちがいない。問題はタイム差。そのあとの2区、3 区は予想がつかない。ヤソジは4区で俺は誉田駅から折り返しの5区。待つ時間が長かった。

細川先生の「そろそろだぞ。用意せい。」の声に軽く再アップしていると・・・

見えた。驚いた。なんと花中とヤソジが並んで走ってくる。遠かった二つの塊りはみるみる間に近づいて来た。ヤソジの顔は鬼になっていた。

「純平、頼む」そう言ってタスキを渡された。

あの時のヤソジの必死の形相と息遣いを今も忘れない。

この走りでヤソジは2区の施門と共に堂々の区間賞をとった。やったなヤソジ!

タスキを受けた俺はヤソジの<根性>を生かせず花園中にトップを奪われてしまった。

結局最終区までそのまま順位は変わらず、準優勝で終わった。

ヤソジよォ、優勝したかったなぁ。上原施門、川名和夫君きみらもそう思うよな。

この時のメンバー8人でいつか一杯飲ろうと何時だったかヤソジと約束したことがある。それはもう不可能となってしまったが、残った7人のメンバーに何時の日か集まってもらい、ヤソジを肴に一杯飲ろうと思っている。

昭和40年2月6日(土)千葉市中学駅伝大会

準優勝 千葉市立緑町中学校

   1区  加藤 隆史

   2区  上原 施門(区間賞)

   3区  山崎 修

   4区  杉浦 八十二(区間賞)

   5区  高橋 純一

   6区  矢野 登 

   7区  堀 三喜男

   8区  川名 和夫

20代の頃はすっかりご無沙汰していたが30過ぎてからヤソジと酒を飲む機会が増えた。相変わらずの反骨オヤジでいつも楽しい酒だった。

「純平よォ、人間には2通りあって舞台で演じるヤツと客席で観るヤツがいるんだ。純平は演じる方で俺は観る方だ。」

もう20年以上も前の話だがずっと気になっていたので、見舞いの折にこの事を尋ねてみた。すると例によってヤソジスマイルで「俺そんなこと言ったかぁ?忘れちゃったよ。」とニコニコしていた。

この日から10日ほど経ってヤソジは、はるか向こうの世界へと旅立った。

彼が20代で癌をわずらったことを後に聞き及び、舞台云々の話はこのことが起因していたのかもしれないと今にして思う。

ヤソジよォおまえさんは客席側でなく、おまえさんこそまさに舞台の上の人だよ。

俺はそう確信する。

合掌


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