尾崎へ
ー尾崎雅信君 追悼ー
清水教博
今モーツアルトを聴いています「ピアノ協奏曲第26番 二長調 K.537」
「おまえどうしちゃったの」って何ともいえない笑顔で語りかけてきそうだね。
「そうだよ」今日ララポートで適当に買ってきたのだから。家でモーツアルトを聴くのなんか初めてだし。
だけど、尾崎にラブレター書くので、慣れないことをしているのさ。高校の時から尾崎の弔辞読むのは俺だって決めていたし。
何の縁か千葉高に入学して、テニス部に入ったら尾崎とペアを組んだ。最初から最後までずーっと同じペアだった。
3年になる春合宿のまえ、俺の親父から、このままクラブつづけて浪人したら学費は出さない、つまりヤメロって言われた時、尾崎も家に来て一緒に親父の説教聞いてもらったよナ。尾崎は「清水がヤメルなら俺もヤメル、どちらでもいいよ」ってニコニコしていたような気がする・・・結局最後までつづけて浪人したけど。
お互い様で強いペアではなかった、だけど最高のペアだった。
相棒がミスをしたほうがホッとしているようじゃ勝てるわけないか。それでも県大会の3回戦か4回戦までいって、あと2回勝ったら関東大会だった、最後の公式戦はいい試合だったナ。
川瀬から今年6月の初旬に、尾崎が危ないと連絡を受けた・・もう抗がん剤もやめているらしい、お見舞いも受けたくないと言っていると。
(正確には知っていないし、記憶も定かじゃないから結構いいかげんに書くけど、宇宙の時間からしたら大した問題じゃないから許してくれ)
10年位前に大腸がんの手術をした後、船橋のちょっとした小料理屋で飲んだよな。落ち込んでいる様子もなく、もちろん自慢する訳でもなく尾崎は平然としていた。何か心に決めて悟っている様子ではなく、ごく普通にごく自然に尾崎だった。それから何回目かの手術のときだったと思うけど、幕張の病院にお見舞い行った時もそうだった。
高校3年の文化祭のとき、東高でテニスの試合があって後輩たちも応援に来てくれていたのだけど、後夜祭に間に合うべく誰よりも早く2人でタクシーに飛び乗って、後から西田に叱られたよね。その夜尾崎が中央公園の噴水のところでスパークとメガネの交換をしていて、尾崎たちはメガネをかけたお陰でやっとこっちに気が付いて大笑いしたっけ。
近くにいると相棒の良い面はわかるし、逆にいやな面も気になるものだけど、尾崎に関して言えばいやだと思ったことはただの一回もなかった。当時はそんなこと考えもしなかったけど、尾崎を思い出そうとしてもその類いは全く思い出せない。
いつだったか、学生時代か、勤め始めて間もない頃だったと思う。2人で千葉駅の近くで呑んだ。
俺が車で行ってたものだから、帰りにどちらが運転するかということになって、結局その辺の道に詳しいという理由で尾崎の運転で尾崎の家にいった。
母上が出てこられて今日はどちらの運転でここまで来たのかと問い詰められた。
結論から言うと当時尾崎は免許をもっておらず、清水が飲酒運転でつかまれば免許取り消しになりかねないが、無免許の自分は取り消されようがないという配慮だった。
尾崎が家族で家に遊びに来てくれたのも、最初の頃の手術の後だったと思う。
はじめて奥様にもお会いした。しっかりとされた印象で尾崎にはもったいないというか、ピッタリというか、仙台で出会ったとのこと。上の男の子も下の女の子も尾崎家の子供達そのものだった。尾崎にとって家族は宝物だった。
その後も何回か飲んだけど、いつも元気だった。肺に転移したとか言いながらも、酒もタバコも美味そうにやっていた。
一昨年の正月も川瀬、篠原、福井、佐藤好男、二宮達と船橋で飲んだ。
結果的にはそれが最後の飲み会になってしまったのだけれど・・・全く変わらない尾崎だった。
二宮が「今日は呼んでもらってよかったよ、楽しかった」って言ってたのが印象的だった。そのとき肺の手術のことなんかも少し話していたので、みんな もしかしたらってことがあるのかと思っていたのかもしれない。
だけど大半は尾崎の放浪生活?時代の楽しい話で大騒ぎしていた。
チックコリアの「return to forever」に替えた。
新宿に「びざーる」というジャズ喫茶があって(もうとっくになくなっていて今はショットバーになってる)仕事の外出のときにフラッと入ったら、全く偶然に尾崎が一人でジャズを聴いていた。
その夏(26歳の)だったと思う、尾崎と俺の大学時代の友達と4人で新島に行った。
荒木一郎の「ジャニスを聴きながら」と「君に捧げるほろ苦いブルース」がテーマソングだった。我々は民宿の長老として夜の宴会を仕切っていて、尾崎は当時流行っていた?「チキン」を踊って人気を集めていた。
一昨年の正月以降、尾崎と飲むことはなかった。
八十二のお通夜のとき、尾崎は夫婦でお参りに来ていた。会ったのだけれどそのまま帰ってしまった。尾崎夫妻は杉浦さん(加藤さん)には特別にお世話になっていて、そんな気分じゃなかったのだと思う。
昨年の春、人事異動の案内を出したら、その返事のなかで、尾崎は「今はサッカーで言うロスタイムなのだ」と書いてあって、「だけどこの大切な時間と空間の過ごし方があって、それを楽しんでいる」と。
6月の初めの川瀬から電話で、尾崎はもう長くないという。
会いたいと思った。奥様を通して聞いてもらったら、尾崎も会いたいと言ってくれているという。
お見舞いの日まで少し時間があったので、手紙を書いた。涙が止まらなかった。
書いていて思った、これはラブレターだって。
今読み返してみたけど(6月14日付)これがなんてつまらない中味、ゴメン。
状況ばかり気にして、周りばかり書いていて「好きだ」と書いてない。尾崎のどこが好きだと書いてない。
6月20日に健生会病院にお見舞いに行ったら、奥様と母上と弟君とがいらした。
尾崎は意識もハッキリしていてとても元気だった。だけど尾崎らしい笑顔はなかったね。穏やかではあったけど、どこか研ぎ澄まされた目をした尾崎がいた。
そのときも言っていたね「ここまで来ても今を生きる生き方ってあるんだよ」って。だけど奥様が「あなたはいつでもクヨクヨしないで、前を向いた考え方をしてきていたものね」って言ったとき「そんな事はないよ」ってポツリと言ったのが印象的だった。
2人だけで20分くらいは話したかな、とりとめのない話を。病気の話とか、頑張れとかはしなかったな。男同士ってそんなものかな。
帰るときに、「また来るよ」って握手をしたら、しっかりと「うん、じゃあな」って。
それが尾崎とのさよならだった。
7月12日に海外出張から戻って、会社のメールを見たら千葉高同期会連絡で「訃報:尾崎雅信君。7月2日に亡くなられました」とあった。葬儀は奥様の意向で家族だけで執り行ないますと。
夜電話で奥様とお話をしたけど泣けて俺のほうが言葉にならなかった。
7月19日に尾崎の家にお参りにいった。奥様と高2のお嬢様と奥様の母上がいらした。
奥様はしっかりされていたけど、さすがに10年間にわたる闘病生活の後で「力が入らないから、母親に最後の子供孝行をしてもらっているの」
「7,8回の手術をしたけど闘病生活って感じではなく、普通の充実した10年間だった」とおっしゃっていた。尾崎はいい奥様を持って幸せだよ。
奥様の母上は、津軽のその中でも雪深い西津軽で生きてこられたそのままが素敵な女性だった。尾崎が最後の手術に踏み切ったのは「もう一度家族で津軽に行こう」という意思からだったと、そして去年の夏に車で尾崎がほとんど運転して実行したという。景色が目に浮かぶよ尾崎。
お嬢様も尾崎に似て笑顔が素敵な高校生だった(本来の笑顔はもっともっと素敵なんだと思う)、我々が出会った高校時代の尾崎と同じように。
ご子息は大学のテニスサークルの合宿準備があって会えなかったけど、まぎれもなくそこは尾崎家だった。
尾崎は常々(子育てにおいても)人の良いところを見てあげなさいと、それが基本だと言っていたと、奥様がおっしゃっていた。
尾崎のあの笑顔や、10年間に亘る闘病生活においても自然体でその時々を楽しむことが出来たのは、尾崎が軸のぶれない『やさしさ』、自己満足のためではない相手に対する本物の『やさしさ』、人生の価値に対する普遍性をもっていて、いつでもそこに帰って、すぐに戻って来れたからなんだと思う。本当の意味で『タフな奴』だった。
それに比べれば、そして宇宙の瞬きからすれば、人生が少し長いか短いかなんて一緒だよ。
俺はそんなすごい奴と高校時代にテニスのペアを組んでいた。
「尾崎ファーストサーブたのむぞ」「清水スマッシュだ」
『ドンマイ』・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ありがとう。
尾崎雅信 様
2004年8月15日
清水教博