千葉高時代の思い出 |
高校時代の思い出を同期の人に自由に書いてもらいます。各人の恥になることは良くないでしょうが、時効になっているものもあるでしょう。
投稿をお待ちしております。投稿先
「先生編」は別途取りまとめています。
坂を登る。重厚な校舎は正門の正面ではなく、右側に 向いて建っている。 中庭の仕掛けである「演台が皇居に向かう」為に、校舎 の向きも皇居方面になり、坂→正門の線とズレたので あろう。 このズレによって、校舎の中庭側の塔も坂から見えて、 より重厚感が増している。 |
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千葉高の坂から上がってきた正面(この自動車を吉川(佳)君が 消して今でも同窓会総会で飾られる写真幕を作製) |
この杉田(三)君が思いきって横に廻って撮った写真を 見て、重厚さを醸し出してきた正面が、薄い板状のもの であることに気が付いた。 彼は重厚な教養主義の元ではあるが、実は薄っぺらな 私のような千葉高生を浮かび上がらせたのであろうか。 そんな印象を持ち、ハッとした。いい写真である。 |
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校舎正面(43年卒業アルバムより) | 同右側面(杉田(三)君写真) |
以下の中庭の写真は菅井(會澤)さんがお持ちの中庭の写真。會澤さんから、これをつないでパノラマにできないかとの申し出があり、阿部加菜子さん(阿部静夫君のお嬢様)が見事に加工したものです。
その裏の中庭(菅井(會澤)さんの写真から) | 中庭の右側(菅井(會澤)さんの写真から) |
阿部加菜子さん加工による中庭のパノラマ写真化。 |
この旧校舎、いいですよね。こういう建物でこそ、千葉高の教育方針である「重厚な教養主義」が育つのだ。(もっとも私自身は軽薄な雑学に終わっている不肖の生徒だが、重厚な教養主義への憧れは持っているのだ)
阿部君のお嬢さんの写真修復・加工、大したものでしょう。撮った位置もちょっと異なり、角度も違う写真がこうも見事にくっつくものだ。写真部だった父を別の意味で越えているのだ。
中庭渡り廊下(菅井(會澤)さんの写真から) | 同じく渡り廊下(菅井(會澤)さんの写真から) |
音楽室(菅井(會澤)さんの写真から) | 体育教官室と保健室(菅井(會澤)さんの写真から) |
この2枚も懐かしいです。音楽室の2階が美術の部屋だったと思います。會澤さんのメールによると、この写真を見た神保さんが、「音楽室の前で写した写真はあるけれど、建物の屋根が、三角形だったとは、知らなかった」と言っていたそうですが、確かに改めてこの建物を観てますと、生徒への愛情が感じられる建物ですね。
なお隣の写真は体育教官室と保健室とのこと。會澤さんは「保健室には、軍隊帰りのかなり年配の保健婦さんがいらっしゃって、軍隊仕込で、傷には、全部ヨードチンキを塗ってしまうので、『ヨーチンババア』(今は差別用語かもしれませんが、悪意はない)と呼ばれていたのを覚えています。
もちろん、ご本人の前では、誰も言わなかったと思いますが、しかし、私は、なんというお名前の方だったか覚えておりません」と書かれています。どなたか、詳しいことを覚えておられますか。
講堂正面(杉田(三)君写真) | 講堂遠景(杉田(三)君写真) | 講堂渡り廊下(杉田(三)君写真) |
講堂は改修されて、今も残っています。下に川名君が撮ってくれた写真の通りです。私は講堂の正面の入口から入った記憶がない。校舎とつながっている渡り廊下から講堂に入った。
杉田(三)君の講堂正面の写真は、そこから入らなかったことを暗示するように、木々の茂みを前面に写している。なるほどと思った。
真ん中の講堂遠景の写真、渡り廊下に立っているのは誰だろう。それはともかく、前景に写した自転車置き場の屋根の遠近感が何とも言えずに良い。
右側の渡り廊下の写真も、左手前の校舎の前景、真ん中の渡り廊下の遠景、右側の講堂の壁の中景のバランスもよく、また校舎の壁板の線、下の歩道の石の織りなす線、校舎、講堂の窓枠の線、渡り廊下の屋根瓦の線など実に美しい。講堂の屋根の屈折した線も奥行きを出して、いいなあと思う。また講堂の壁の汚れだろうか、上から下に流れている太い線もいい。いつもは邪魔な電線の線までよく見える。好きな写真です。
正面にあった部屋(吉川(佳)君写真) | 教室の中(吉川(佳)君写真) | 廊下(吉川(佳)君写真) |
左の写真にある室内はどこだろうか。天井を見ると教室ではない。ただ教室の机のようなものが置かれている。
吉川君の教室の写真は、千葉高でなくても、中学でも「こんな風だった」ような印象で、建物の印象としては薄い。しかし、写真から当時の情景を喚起させてくれる。
教室の黒板の写真から、ここに山沢先生は模造紙に墨で書いた植物の図を貼られたとか、Q治先生は教壇にレコードプレーヤーを置かれたのだとかを思い出す。
廊下の写真では、ここを走り、稲葉先生に注意されたとかの情景を思い出す。ただ廊下はこの程度の広さだったのだろうか。
●当時の千葉高の平面図(2019/3/25)
神保さんが古いものを整理していたら、当時の千葉高平面図である「千葉県立千葉高等学校校舎平面図」(PDF文書)が出てきたと、送ってくれました。
PDF文書にすると、見る方(あなたのパソコンのPDFブラウザー・ソフト)で拡大することも、回転することも出来ますから、拡大して眺めてください。
伊藤も、これを眺めながら次のような思い出と感想を持つ。
●故山本昭一君撮影の「雪の日の千葉高−還りきて雪降りしきる学び舎の鐘に貴君は何を聴きしや−」(2015/10/19)
雪降りしきる校門より | 雪が撞いても鳴らないが。 |
この写真は、山本昭一君と親交があった板見君が昔に観た時に感じ入り、覚えていて、山本君の御母堂、奥様に御願いして遺品の中から送ってきてもらったものです。
板見君は、自分のブログ上(2015年10月8日「雪の校門、積雪の鐘」と題して、この写真について語ってますので、それをご覧下さい。
板見君も、この写真を撮った当時の山本君の心象風景に思いを馳せていますが、恐らくは浪人時の受験書類の申込時か受取時ではと想像しています。
こんな鐘がありましたか?まったく記憶が無いです。山本君はこの鐘を晴れた日にも撮っており、思い入れがあったようです。
●千葉高創立百周年記念写真集から校宝「堀江正章「富士山」」油彩画(2014/11/10)
熊野君が終活作業の一環として、資料廃棄に努めている。その過程で「千葉高創立百周年記念写真集」を見つけ、それを事務局で預かってきた。
内容は、千葉中時代から、時代を追っての校舎の写真等で、それらの中では、校舎敷地全体の航空写真が面白いが2ページにまたがっており、スキャナーしにくい。
もう一つ、この写真集冒頭に特別にカラーで掲載の校宝がある。堀江正章の油彩「富士山」である。これをHP上で紹介しておきたい。
この絵は、今も千葉高、あるいは千葉高美術館(記念館を使用)にあるのではないでしょうか。
千葉高創立百周年記念写真集より、校宝「堀江正章「富士山」」油彩画
●千葉高80周年記念の図書館竣工記念絵葉書(2014/9/8)
山田(恭)君が資料を整理している中で、千葉高写真部時代の箱があり、その中にあった絵はがきをスキャナーで読み取って送ってくれました。千葉高の主な校舎の外観スケッチもあり、現代美術みたいな感じがして面白いです。
●千葉高の旧プール(2010/4/13)
熊野君が千葉高の先輩の小池淳達氏(昭和18年卒)が記された「思い出の花街・吾妻町界隈」の資料から、千葉高の旧プールに関する箇所のコピーを送ってくれました。要約すると次の通りです。
我々の高校時代には廃墟として残っており、深さが3b以上あったので、弓道同好会を作った時に、柔道部の古畳をもらって、プールの壁に立て、その前に巻き藁をおいて練習したという思い出を持っている。矢が外れても安全を確保するために。
●今の千葉高講堂(2010/3/23)
川名君夫妻が、このお彼岸にご母堂もご一緒に墓参した帰りに、洋風古建築にご興味がある奥様が、それら
を紹介した本に掲載されていた千葉高講堂の見学を希望され、千葉高の先生のご案内で内部を見学された。
改装されているようだが、講堂内部の明るいのに驚いた。
●この写真の事情がわかる人はいますか? 2009/11/18→11/24
渡辺(章)君から、昭和41年5月(2年生)に、「確か鵜原での写真だと思うが事情を知っている人がいますか?」と呼びかけがありましたが、下記の同期諸氏のコメントにあるように桜井先生の時でした。
八木(杉井)さんによると、桜井先生は、生徒が「何処かに遊びに連れてって」と言うと、先生自ら計画を立てて、バスの手配までして、生徒を養老渓谷や九十九里に連れていってくれ、そして必ず写真を撮って後でくれたということです。 成田(高橋)さんから「見覚えがあったので、古いアルバムを繰ったところ、崖を背にした集合写真は、私も持っていました。 メンバーから2−Dに間違いないです」 西田(小出)さんは「鵜原の写真を見て、思い出しました。秋の一日(たぶん、11月23日ごろ)、桜井先生の引率で2−Dの有志で出かけました。細かいことは忘れましたが海岸を歩き、トンネルをくぐった記憶があります} |
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男は渡辺君、鴨山君 | 崖が何とも印象的 |
●「同窓の日々」板見潤一2008/2/25掲載
緑中出身の三大記憶力(他はA君、高橋(純)君)の一人である板見君が、当時の思い出を独特の文体で書いています。
●当時の千葉高新聞、図書館報など2005/5/16掲載
越前武生の奥山家には蔵がある。連休の間、彼がその蔵を整理していたら高校時代のものが出てきました。いくつかのコピーを彼が送ってくれましたので抜粋して紹介します。
1.千葉日報S40/3/7
公立高校の合格者氏名の新聞です。一番はじめから高橋(博)君、田島君、鈴木(逸)君、姉帯君、須田君と続きます。最後は日下君、神力君、岩藤さんで終わっています。
もちろん、受験番号順か中学順か何かの順番で、入試の成績順ではありません。
2.千葉高新聞S40/6/5
我々の入学式の記事が掲載されています。藤原さんが「新入生に聞く 千葉高で勉強し始めて」というタイトルで語っております。別の新聞に今年も総代は女子だったなんて記事が出てましたから、藤原さんが入学式の成績が一番だったということでしょう。
また、この新聞の2面で「新任紹介」というコーナーがあり、青木先生、菊地先生、和田先生、久保先生の新任の辞が述べられております。青木先生は「”鉄”を立派な”鋼”に」です。鋼になりましたか、皆様。
菊地先生は「ベスト十二」として、推薦図書を紹介されております。伊藤は恥ずかしいことにあれから40年経ってもこの中で読んだ本は3冊だけです。
久保先生の「昔は立派な軍曹」の記事はなかなか示唆に富んでます。もちろん当時は何もわからなかった。
国語の和田先生の「諸君は上等紳士」は、少し買いかぶりだと思います。
3.1年C組の名簿
当時の名簿は保護者の氏名、その職業まで書いてあります。今なら許されないでしょうし、今、見ても不快に感ずる人もいるでしょう。
4.千葉高新聞S40/7/20
各種運動クラブの試合結果やワンダーフォーゲル同好会、ギター同好会の設立記事が掲載されています。
編集委員に1年生として木口君、梅澤君、沖津君、林田君、伊藤(道)さん、槇君、伊原君、中田君、山崎君の名前が見えます。
5.きねんさいプログラム(S40/9/22〜25)
クラス対抗合唱コンクールは予選、決勝と2日間で実施されたのですね。
音楽クラブの室内楽「アイネクライネナハトムジーク」の曲目や、「蔵王賛歌」、「五月の歌」、「ラブミーテンダー」などの合唱曲、「デキシーランドジャズ」やオーケストラ演奏曲の「グリーンスリーブズ」、「軽騎兵序曲」などは懐かしく思う人がいるのではないでしょうか。演劇部門ではプロの劇団仮面座の「ジュリアスシーザー」と、演劇クラブの「白い墓」が紹介されています。
6.千葉高新聞S41/2/23
校内マラソン大会の結果が掲載されています。
1年生では団体1位で1年C組、2位で1年D組です。2年も含めてですから立派です。
個人では男子が10qで、準優勝に林(文)君、5位に八十二君、8位に東海林君、9位に小出(敏)君の名前が掲載されています。
また女子では優勝が上田礼子さん、準優勝が渡辺(芳)さん、4位に苫箕さん、5位に志村さんとのことです。
上田礼子さん、覚えております。眼が大きな人で村田(秀)君と同じ中学ではなかったでしょうか?途中で転校されたのでしょうね。
また予餞会の記事もあり、そこに岩岡先生の「ドレミの歌」の熱唱、美術の伊藤先生の「入江のさざ波」のギター演奏が紹介されています。記憶が蘇ってきます。
7.千葉高校図書館報S41/3/5
菊池久治先生の「フロイドと文学」という文章が掲載されています。
また和田正武先生の落語テープ等の趣味の話が掲載されています。山沢先生や稲葉先生の絵画にも驚きましたが、当時の先生の趣味は豊かです。
8.千葉高新聞S41/11/28
「後期新役員決まる」古屋生徒会長以下の役員が発足するという記事がトップです。
記事の内容は、古屋執行部は信任はされたが、不信任票との差はわずかということで、その原因を分析し、結構厳しい論評です。
なお古屋君の他の執行部は、関山君、島田(一)君、地引君、長谷川さん、藤原さん、山本(渡)君、加藤君という陣容でした。
論説として、当時の報道委員会の時田(秀)君の「寒いこころ」というのが掲載されています。ここで時田君は千葉高を冷たい、冷酷と書いて、心を持った人間になろうと呼びかけています。
古屋執行部に対する厳しい論評は、時田(秀)君の執筆なのでしょうか。
また、記念祭座談会の記事は途中まででコピーが切れていますが、同期では島田(一)君、石川さん、小倉君、山本(渡)君、苫箕さん、河角さん、古屋君、平野君、畑地さんが出席して意見を述べています。
9.千葉高校図書館報S42/3/14
菊地先生の「朗読の美学」が掲載されています。断片的に紹介するとQ治先生から「伊藤、君はわかっていないのです」と言われそうですから、どなたか全文をワープロ入力してください。
●昭和43年度卒業生のクラス担任表2003/6/9掲載
2002年の東京葛城会の時、皆様からの教えていただいたクラス担任です。
昭和 | 43 年度 卒業生 のクラス 担任 一覧表|||||||||
A 組 | B 組 | C 組 | D 組 | E 組 | F 組 | G 組 | H 組 | I 組 | |
1 年 | 桜井先生 | 山沢 | 先生菊池(久)先生 | 岩岡先生 | 立野先生 | 岩瀬先生 | 目良先生(途中から青木先生) | 金子先生 | 菊池(剛)先生 |
2 年 | 松原先生 | 菊池 | (久)先生宮島先生 | 桜井先生 | 青木先生 | 本野先生 | 依田先生 | 岩岡先生 | 立野先生 |
3 年 | 宇津木 | 先生青木 | 先生依田 | 先生立野 先生 | 桜井 | 先生本野先生 | 宮島 | 先生旭 | 爪先生稲葉先生 |
●千葉高の歴史2003/3/17掲載
東京葛城会の時に会場で上映しようと集めた資料をとりまとめました。
● 合唱コンクールの思い出 99/4/23掲載
千葉高では秋に合唱コンクールがありました。今もやっているのかしら。私たちの3Aでは、自由曲は混成四部の「赤とんぼ」で臨みました。指揮は堀田泉君でしたか、間違っていたらごめんなさい。猛練習の甲斐あって、当日は最高の出来でしたよね。
予選は軽く通過し、決選ではちょっと力んでしまったため、結果は惜しくも2位でしたが、クラスが一つになって響かせたメロディーは今も記憶の片隅に残っています。ところで、あの時の課題曲は何でしたっけ。どなたか覚えていたら教えて下さい。あの時優勝をさらったクラスはB組で、その自由曲は「沼」。素晴らしいコーラスでした。(佐藤仁子)
佐藤仁子さんおひさしぶりです。
さて、断言していただきたかったけれど3Aのコンクールの指揮者は私でした。まぎれもなく。練習もかなりやりましたけれど、本番のできばえが格段に良かったのはほんとうにその通りでした。
芸術で音楽を選択しなかった人たちが頑張ってくれたのも嬉しいことでした。講評のときにも指摘されましたが、B組に優勝をさらわれたのは、完成度はこちらのほうが高かったにもかかわらず難曲に挑んで仕上げたということで、今から思えば妥当な結果だったと思います。
偵察に行ったときはまだ全然駄目で、これはよしとほくそえむ半面、うまくやられたらたぶんこっちの旗色が悪い、丁寧に表情をつけるよりないな、と思っていましたが、そのとおりでした。春の仮装行列でも優勝したし、欲張ってもしょうがないとあきらめたことです。
体操でもフィギュア・スケートでも難しい技にチャレンジしだほうが、リスクは大きくてもうまくいったときは印象は強い。でも理系のクラスでは、男女のバランスも悪く、かなりのハンディキャップがありました。課題曲はやはり不思議と思い出せません。候補はあるが3年分が混乱しています。
練習は放課後で、暮れかかる夕焼け空の色が思い出されます。受験近しといえども皆よくつきあってくれたと思います。
当時普及し始めた芯の見える透明なボールペンを指揮棒がわりにつかっていて、ふと気がつくとちょうど水銀の体温計を逆に振ったような状態になってインクが後部に飛び出してしまったことなど、妙に覚えています。握った手のひらも熱かったのでしょう。(堀田泉)
● 生徒手帳と身分証明書 99/3/11掲載
当時の身分証明書と生徒手帳も探し出してきてくれた方がおられました。
生徒手帳より「本校教育の目標」を転載します。
- 民主的国家社会の有為な形成者として必要な資質を得るため、社会に対する広く深い理解と健全な批判力および一般教養を養成する。
- 自主的精神に富み、かつ自他の敬愛と協力によって文化の創造と発展に貢献する円満にして豊かな個性を確立する。
- 平和と人類の福祉に寄与し、真理と正義を愛して勤労と責任を重んずる実践力、ならびに健全な身体を育成する。
この中に「校歌」の他に「学生歌」「千葉一高頌歌」「千葉高行進歌」「創立八十周年賛歌」「千葉高バラッド」(在学時から変な歌と思っていたことを思い出しました「えいやらやっこら 石運び ー以下略ー」なんていう歌詞です)などが掲載されてました。
身分証明書の裏には「新たな交付を受けたとき又は卒業した時は発行者に返さなければいけない」と明記してあります。うん?
● 2年E組座席表 99/1/27掲載
昔のアルバムをひっぱり出してみましたところ、アルバムの間から思いがけないものを見つけました。何だと思いますか?出欠をとるための名簿に貼り付けるための座席表(2年E組)だと思います。クラスに書記といって、黒い大きな名簿を教室移動の際に持ち歩く係があったこと、覚えていらっしゃいますか。座席が替わるたびに座席表を作るのもその係の仕事で、たぶん何週間分かまとめて作成したのが残っていて何気なくアルバムにはさんでいたものと思います。こんなものどなたも残しておられないでしょうから貴重といえば貴重だろうけど、どうでもいいモノでもありますね。(神保公子)
● 映画「黒い雪」(伊藤三平) 98/11/13掲載
高校1年の頃、18歳未満お断りの”黒い雪”という映画が上映された。それを溝口正人君と内田勝秀君が学校の帰りに見に行った。うらやましいと思いながらも、そこまでは踏ん切れない伊藤はいたずらを思い付く。映画館に行き、溝口君と内田君を呼び出すことを決行した。しかも呼び出し人の名前は山沢とした。(もちろん担任の生物の山沢先生の名字である)
「山沢と言いますが、急用ができましたので、溝口さんを呼び出して下さい。」昔の映画館は呼び出しをやってくれました。
「いらっしゃらないみたいですよ」
「それでは内田さんをお願いします」
「お見えになってないようです」
「ちゃんと山沢が呼んでいると言ってくれましたか」
「はい」
「どうもお手数をおかけしました」
翌日、クラスに入るなり溝口君と内田君が襲ってきた。溝口君は中学時代から一緒で住所を調べたいと思い、エンジェルラインも駆使して探したがわからない。
(先年、溝口君から連絡がある。「オレとの思い出は黒い雪だけかよ」と。懐かしかったです)