千葉高時代の思い出(先生編)

高校時代の先生の思い出を別途取りまとめました。他にあればお願いします。投稿先

昭和43年度卒業生のクラス担任表2003/6/9掲載

2002年の東京葛城会の時、皆様からの教えていただいたクラス担任です。

昭和 43 年度 卒業生 のクラス 担任 一覧表
 
桜井先生 山沢 先生 菊池(久)先生 岩岡先生 立野先生 岩瀬先生 目良先生(途中から青木先生) 金子先生 菊池(剛)先生
松原先生 菊池 (久)先生 宮島先生 桜井先生 青木先生 本野先生 依田先生 岩岡先生 立野先生
宇津木 先生 青木 先生 依田 先生 立野 先生 桜井 先生 本野先生 宮島 先生 爪先生 稲葉先生

 


種谷扇舟先生(書道)の思い出2023/7/13掲載

 選択科目では『書道』を、自分の能無しから一番無難かと思い消極的に採った。後々役立つ点もあったが、それは別の話なので略す。最初に指定された最低限の道具一式は、校内の購買部で入手した。それから書道教場(ぶち抜いた広い教室)の裏手に扇舟先生の寛ぐ巣があるらしいと知ったのは暫く後だった。

 同先生には(間違っているかもしれないが)慢性鼻炎の傾向があった。詰まる鼻水が年中ゆるく且つ垂れがちの息苦しさ(逆に我慢強くなる)は、中学時代の若い学級担任で見知っていた。で、最初から気難しい方だと思ったが扇舟先生には、関西で言う「いじり(からかい)」たくなるような一面もあった。先生に申し訳ないが、怠け癖少年にとって書道課目は学校で唯一予習・復習無用の解放ゾーンだった。上達する気など毛頭無かった。竹輪の耳で先生のお手本による講義を受けた。

 臨書・近代詩文・楷書草書など何れも恐いものは無かった、筆跡は各人で違うのだからと自分の都合良く考えて。但し、半紙に書いた作品(?)を必ず添削に供するという約束事があった。これは僕も素直に従った。出来たものを持ち、扇舟先生の前に並び、一人ずつ各文字に丁寧なる朱筆の洗礼を受ける。クルっと囲いは先生のメガネに叶うもので、真面目な生徒はスッキリとの目立つ添削物を大事に抱えて戻る。片や、上から一々筆遣いの不備を矯正されて赤チン満杯状態の濡れ半紙を、僕は自席に持ち帰る。他の科目なら間違いなく落第である。でも一向気にならなかった。扇舟先生は朱筆の運筆を一所懸命に見せてくれた。しばしば最後は片方が詰まり気味の鼻を鳴らしてニタリと笑み、ボンクラ生徒の「ありがとうございました」と言う謝辞を真顔で受けた。その唇が黒いのは習性で、お手本制作の際に自筆の墨をちょっと舐めるからだ。多分、発墨の濃さ加減を味覚(舐める)で知るのだろう。

 臨書で『顔真卿』の雄渾な太い筆跡を習った際、「墨を充分に磨り込み・油の如く照る墨痕淋漓たるべし」と扇舟先生が最初に注意を促した。確かに、天下無双の志士が目前に迫るような字体だった。生徒は皆、硯の発墨作業に集中した。やがて虹彩を発する墨溜まりが粘り気と香りを含んでトロリとして来る。でも、ま、そこまでは要らないと僕は勝手に思い、先日習った自由な近代詩文的に用いる濃淡や暈しを付ける事にした。水気多い薄墨は自然に輪郭線とボカシを混在させる、あれが良い感じだったし、そのアイデアに夢中して半紙に書いていたら、扇舟先生が隣に来て立ち止まっていた。暫し見下ろしていた。そして、僕の新顔真卿をヒョイと取り上げると、ぐるり周りの皆に掲げてヒラヒラ見せながら高らかにこう言われた。軽い乗りの声音に、幾らかご機嫌さが窺われた。

「皆さん見てください、この人のは顔真卿じゃなく、無神経です」と鼻声で。

 その時、当たりと思わず笑ったのは僕だ。もちろん扇舟先生は怒って居なかった。(嶋田正文)


伊藤敏隆先生(美術)の思い出2021/1/3掲載

伊藤敏隆先生は2020年4月に逝去されました。先生は美術の先生であると同時にギターの名手であり、その思い出も寄せられています。


畑山先生の思い出2019/4/27→掲示板より移行、2023/7/13追記

 1学年の時、体育授業の一つに校庭での前作業が幾つか伴うサッカー(フットボール)があった。先ず、生徒はブリキのバケツ(学校備品)を提げてグラウンドに集合し、畑山先生の号令一下、風雨の所為で地面に露出した大小の石コロや貝殻やガラス片を地雷探しのように見つけては拾い歩いた。サッカーコート面(2つ分くらい)を想定したエリア内だ。肘・膝プロテクターなんて発想の亡き頃ゆえ、授業中の怪我(転倒による切り傷)から我が身を少しでも守る為の必須作業だった。しかし我々は二の腕に新たなミミズ腫れや擦り傷を抱える経験が楽しくもあった育ち盛り、遊び半分に拾う量は、それでも毎回よくもこんなに沢山と思う程に各バケツに溜まった。それを校庭の片隅にほかし(捨て)た。

 片や先生は先生で事前に石灰袋とライン引き(ラインカー)を用意し、且つコート区画の四隅等に線引きの目印をした。手抜きせず、黙々と長尺の巻取り式メジャーを使われたと思う。あまり無駄には喋らぬ方だった。でも口振りに素朴なユーモラス味があり、端的な物言いで人をクスっと笑わせ生徒の気儘な作業をリードした。

 見ているだけでなく引いてみろとやり方のコツを先生に教わったのだろうか、多分そうだ。今でもその手応えを如実に思い出せる。つまり何度か失敗しながら、粉石灰を補充し一定量の歩行速度で、なるべくムラ少なく、校庭横断の長い清らかな一直線が引けた時の非常な満足が得られたのも、この授業の副産物である。後ろを振り返ると生まれたての瑞々しい軌跡だった。そして、輪郭が出来たら後はもう我武者羅にグラウンドを走り回り、敵味方でサッカーボールをゴールへ蹴り込み合う練習試合だ。意図せぬスライディング(つんのめりとも言う)の連続で、次回の授業時も膝と肘の擦り剥き傷が柔らかな瘡蓋のままというのも辛くはなかった。対抗試合に勝っても負けてもその直後の休憩で心地よく地面に坐っている我々を暫し解放して畑山先生は、黙々とコーナーキックの練習をされた。

コーナーフラッグ位置にボールをセットし、暫し身構えて狙い目を測り、ゴール方向へやや平行にキックする。それが当時、非常に不合理で且つ不思議な感じがした。「入る筈も無いのに?」と単純に思い眺めた。見て居た限り一度もゴールできなかった。でも、蹴りのアジャストポイントを変えてボール回転をコントロールし、短い距離の空中で軌跡を任意に曲げようとする其の意気(あえて挑戦)は何となく分かった。時には、もう一人の体育担当(青木先生)と二人でコーナーキック曲げを試されてもいた。その辺の訳は、当時サッカー部に所属した生徒が詳しく知っているのではなかろうか? 近頃はワールドカップで世間が盛り上がり、コーナーキックからの連係プレイで仲間が予定落下点へ瞬時に飛び込んでヘディングのゴールを決める必殺テクニックもライブ・スローモーション再生で拝見できる。畑山先生は50年以上前に、そういう頭脳的戦術を試みていたのかも。

後年、即ち2002年製作のポランスキー監督映画『戦場のピアニスト』で主役を演じた或る俳優がエイドリアン・ブロディ、その彼をdvdメイキング映像で見ると、監督の持つ演技イメージを具体的に引き出す為に一見愚直にも問うて、役作りに生かそうする様が窺える。ふと、この人と畑山先生の残像が重なって見えた。似た顔立ちがそっくりというのでなく、巧まず醸し出す雰囲気が、嘗て見受けた畑山先生そのものだった。(嶋田正文) 

★畑山先生への弔文
サッカー部の畑山先生が2018年2月に逝去されました。以下の山越君の弔文は「掲示板」にアップしていたのですが、「先生の思い出」に移行いたしました。

山本(秀)によると、当時はサッカー不毛の千葉県に、サッカーを植え付ける為に東京教育大からの使命を受けて赴任されたようです。木之本さんを育てたし、千葉県にはJリーグのチームが2つあるし、高校サッカーでも強豪校がいるし、ご立派です。

「2018年2月23日、畑山 明先生逝去 享年84歳
元千葉高等学校体育課教師、元千葉県サッカー協会副会長の畑山明先生が2月23日逝去されました。畑山先生は、1月17日に開催された昭和42年卒千葉高サッカー部OBでJリーグ創設に尽力した故木之本興三氏の一 周忌にあたる「木之本興三さんを賑やかに語る集い」に出席の後体調を崩し国立病院機構千葉医療センターに入院、肺炎を併発して 逝去されました。

畑山先生は東京教育大学を卒業後、昭和31年に県立千葉高校に体育教師として着任、昭和55年までの二十数年の長きにわたり千葉高校サッカー部監督(顧問)として多くの人材の育成に努められました。また高校サッカーのみならず千葉県サッカー界の強化・育成強化に尽力、千葉県サッカー協会の副会長などの要職を長く務められました。 」(山越裕)


宮島康雄先生の思い出2019/4/22掲載

宮島康雄先生は平成25年に逝去されました。当同期会は2019年4月に知りました。永井遵君からの先生の思い出です。


●依田寛市先生の思い出2019/4/9→19/5/16追記

依田先生は平成29年10月に94歳の長寿を全うされました。2019年4月2日に当同期会が知りました。早速、時田秀久君と長井文明君から先生の思い出が寄せられました。稲葉・桜井先生のガリ版刷り教科書探索の件で同期諸氏に御願いしましたが、その時に長井君から「依田先生の化学のファイルもある」との連絡をもらいました。また衣笠君からも依田先生の思い出が寄せられました。



青木先生の思い出2018/7/16掲載



武田先生の思い出2017/7/10掲載

武田先生は世界史の授業を習いました。今年(2017年)、千葉市の加曽利貝塚が特別史跡に指定されましたが、その保護に当初、積極的に関与されたのが武田先生で、朝日新聞の「加曽利貝塚特別史跡へ指定」の17.6.29の記事に詳しく掲載されています。−川名君から送られた記事(PDFファイル)−

なお、当時、授業で習っていたのではなかったと思うが、武田先生が加曾利貝塚の発掘調査中に櫓が崩れて、腰を打って何週間か休まれたという記憶がある。(川名和夫)



大塚先生の思い出2017/7/10掲載

普通の授業でも習っていたかもしれませんが、印象にあるのは、夏休みの補講です。やたら難しい授業でほとんど理解していませんでしたが、その難しいところに興味を持って大塚先生の補講を選んだようです。今考えると愚かなことですが。
体が大きく、肥って赤ら顔の先生で、まじめな顔でさらっと冗談を言うような先生だった。(川名和夫)



矢部基晴先生の思い出2015/9/1更新

◆矢部先生と「哲学のプリズム」…板見潤一

高校二年生になって新しい科目に出会った。「倫理社会」の「倫」という字が真新しい。「りんり、人の踏み行うべき道」とのこと。何だ、昔の「修身」とかいう授業なのかな、などという先入観を越えて、パラパラ開く教科書は、古代ギリシャ、古代中国、西洋哲学の中世から現代に至る思想百科事典の趣きを呈し、何だかワクワクさせるものがあった。担当の先生は、矢部基晴と仰るが科目の持つ重厚な印象に相応しい年配の方。

その穏やかながらも説得力あるお話に私は引き込まれた。毎時間の授業が実に楽しく、他の科目が不勉強であるだけに、これこそ学ぶべき授業なのだとまで思い込むに至り、眠気催す五時間目であっても、矢部先生の授業には腕をつねりながら聞き入っていた。
旧約聖書の預言者の話など、多少夢心地で聴きながらも、そうか、だから矢部先生は「ヤーヴェ」なんだな、と夢想していた。

中学の図書館では、小説を借りている文学少女らを横目で見ては、読むべき本は理科の本であって人間の問題など読むに値せぬなどと頓珍漢であった自分が、高校一年のある時期、図書館からカントの『純粋理性批判』を借り出していた。徹夜して辞書を引きつつ読んではみても珍文漢文だったが、何かのスイッチは既に入っていたのだろう、矢部先生の授業が染み込むように胸に入り、そうだ自分は哲学を勉強しよう、と思った。

矢部先生の板書されたプリズムの絵解きが頭にあったのだ。大きい三角形を描いた後、そこに斜め上から射し込む光線と反対側に出る七色の筋を描いて曰く「この別れた筋、これが様々な学問です。そして、こちらの大元の光、これが哲学なのです。云々」
昼休みに弁当を食べるのもそこそこにして、図書館の書棚の間を歩き回っていた。古い書籍の匂いが書庫に立ち込め、手にとって開くと死者の息吹が湧き起こってくる様に感じた。薄暗い書庫を出て、開架の書棚を振り仰ぐと、河出書房の世界の大思想全集がズラリと並んでおり、深い青地に黒と金との横線のその背表紙を眺め回していたが、あれは一種の恍惚感だったのかもしれない。

そんな二年生の時期の三者面談で、将来は何をしたいのだと訊かれ、「哲学です」と呟くと、担任の英語の先生、一言のもとに曰く「それじゃあ君、食っていけないぞ」
そうか、食っていけないのか、と何となく思っただけの、あまり深刻さがない脳天気。受験勉強に邁進するどころか、書店に行き、岩波の哲学講座を片端から開いては分野と執筆者氏名と所属大学とを書き写していた。

中学時代から実は地球物理学を勉強したく、二年末の文系理系クラス分けの希望届けに一旦は理系と記したものの、提出後に変更申し入れ、学年主任の先生の所にまで行き、ようやく文系に変更。「食えない道」決定。
三年生になって、社会科研究室の戸を叩き矢部先生に質問に行った。実は哲学を勉強したいと思うのですが、この一年間どんな本を読んでいけばよいのかお教えください。
先生は、あの穏やかな表情でこちらの覚悟の程を窺うような一瞬の後、おっしゃった。「ではリストを作ってあげるから、自宅へ来週おいでなさい」
電話番号と地図を記した紙を頂いて帰る際、先生の背後の書棚にギッシリと、魅力的な書物群があるのが眼に焼き付いた。胸には、何だ、あんな本を読める環境で食べていく道があるじゃないか、との思い。然しこのとき教員を目指そうなどとは思わなかった。
さて矢部先生宅訪問の日、先生に家庭訪問される経験はあっても先生宅を尋ねるのは生まれて初めてのこと。途中から赤電話でこれから伺いますと電話しようと十円玉を何度入れてもチャリンと戻ってくる。まず受話器を取ってから、お金を入れるのよと、お店のおばさんが教えてくれた。外で電話をするという経験も初めてのことだった。
さて学校の裏手を廻った葛城のお宅に到着。以後、学生時代も恩師宅を尋ねる際に思うのだったが、まことに笑止、先生留守だといいのにな・・・。
しかし電話しての訪問、玄関で挨拶ののち応接間に正座で畏まり、しばしお話の後で一片のメモを頂いた。後にして振り返るとそれら十冊余りの書名は、全て岩波新書の本だった。高校生に求め易いものを選んで下さったのだ。まともに岩波新書を読んだ最初の体験でもあったことを有難く思う。
玄関まで見送って下さって、先生は仰った。「読んだ後で感想など聞かせてください」
私は紙片を学生服の内ポケットにしまうと、一礼して辞去した。

帰路早速、赤電話を借りた書店でリストの中から何冊かを入手。必ずしも「哲学」の入門書というわけでもなく、あのプリズムによって分れた光のような諸科学諸部門に渡る十冊であった。取り敢えず高島善哉の『社会科学入門』を読み始めたのだったが、頓珍漢とは言え、一応の受験生。リストの二三冊しか読めなかった自分を恥じるまま、「感想」を申し上げに先生を再訪することもなく、まして自分の進路がその後どうであったかというご報告もせぬままに数十年。
まことに不義理のままではあるが、やはり先生が玄関で見送って下さったときに胸のポケットにしまったのは、読むべき書物のリスト片だけだったのではなかったのだと、今、思える。

「君たちは、幾らでも本が読めて幸せです。私が若い時は工場へ岩波文庫を持って行くのですが、頁を破り取ってポケットに入れ、トイレに立った時や休憩時とかに少しずつ読んだものです。」と先生は言われた。
「一日一冊岩波新書」といった読書意欲も先生から受けた刺激に違いないし、その後美学か心理学か印度学か雪のキャンパスを迷いつつ進路決心をしたのも、又結果的に、読みたい本を背にしてともかくも「食って来られた」人生経路の発端は、矢部先生の授業であったのだろうと思われる。
今、矢部先生の御本を遅れ馳せながら手にすることが出来て、あの葛城のお宅を再訪したかのような心持ちがするのだ。
街で本を探した後のいつもの蕎麦屋に入り、先生と共に盃を交わしてみたい気になった。

◆放課後の社研…板見潤一
矢部先生の指示で我々社研の一同は読解力と表現力を高めるべく読書会、芥川なんぞを熱心に研究することに。
「でもさ、俺たち社研だぜ。文化祭、まさか読書会の発表なんて出来る?」
ごもっとも、であった。
読解・表現力の未熟は勘弁して頂き、取り敢えず発表テーマの検討を開始。

「戦争」「沖縄」「原爆」「自衛隊」、紅一点の部員Kさんは「銃後の女性」。図書館閲覧室には朝日ジャーナルが燦然と輝いていた時代なのであった。

早速、沖縄担当班は、現地の高校の生徒会に宛てて質問の手紙を書いた。「あのさ、やっぱり宛先はUSAから書くんだよね。後の沖縄とかの字はアルファベットにするんだろうか?」
「配達するのは、日本人なんだから、後は漢字で書いていいんじゃない?」

届いた返事の封書に全員が集まった。「日本国千葉県・・・千葉高等学校 社会科学研究部御中」 見たこともない USAの切手だった。

通常の日の社研の活動に先生が顔を見せられることはほとんどなかった。徹底した自主性尊重の校風であった。
文化祭の発表も、それなりに活況を呈し、誤字脱字・表現未熟不適切を指摘されることもなかった。

ある日の放課後、活動教室に先生がめずらしく顔をお見せになって曰く、「君たち、もしも手が空いていたら、これから、市の公会堂でね講演会があるんだけど、参加してみませんか」
先生のご提案とお誘いを断る理由も勇気も持ち合わせる者とて無かった。それぞれ鞄を抱えてブラブラと坂を降り、公会堂に向かった。
到着すると開始時刻には相当時間があるようで、先生、またのたまわく「君たち、看板作りを手伝ってくれないかな。こういうことも、大事なことなんだよ」
先生にそう言われると、本当に大事なことをやっている気になってくる。指示された文字は「鶴見俊輔いいだもも講演会」とあった。
つるみしゅんすけ、飯田桃、二人の名はこの看板書きで頭に記憶された。

ようやく、みんなして座席に就くと、どこかのオッチャンのような男性がマイクをいじり始めて、喋り出した。今年7月に亡くなった鶴見氏だった。矢部先生が後に会長を務めることになる「思想の科学研究会」を、丸山眞男やキ留重人らと立ち上げた人物、矢部先生の御本に跋を寄せてもいる仲であったようだ。
講演会終了後は、デモという流れで、制服制帽、学生鞄を手にしたままでそのまま隊列に入ってしまった。
「ベトナムに平和を!市民連合」という旗が見える。「べ平連」のデモであった。声高くシュプレヒコールが轟く中で声を挙げられない自分の孤絶感覚は、例えが変ではあるけれども、現在の勤務校での「主の祈り」の場面での感覚と似たものがあるように思う。

著者 矢部基晴(『甦る旧約聖書 イスラエル預言者の宗教を探る』の著者紹介より)
1914年千葉に生まれる。
1931年安田工業学校電気科卒。
1937年文部省中等教員検定試験修身科に合格。
1945年の敗戦を中島飛行機製作所三島工場主任として迎える。
1955年千葉県立千葉高等学校に勤務、
1971年学園闘争を契機に自主的に退職。
思想の科学研究会会員
思想の科学研究会会長
雑誌『思想の科学』編集長を歴任
方向感覚同人

追記
卒業アルバムを開き、教員集合写真や社研顧問としてのお顔を拝見する。思い返せば、一年時に音楽部(合唱)、二年時にワンダーフォーゲル部、そして三年時に矢部先生顧問の社研に入ったのだった。
社研の合宿で行った海は、何処だったのだろう。合宿での日々も判然としないが、先生の指示は覚えている。「何を研究してもいいんだけどね、君らは文章力が未熟だ。読書会でもして、読解力と自分の考えを伝える技術を磨きなさい」
風の通る部屋で先生は、終日何か書きものをなさっていた。いつの間にか皆がいないのに気づいて、先生に訊いた。「先生、みんな何処へ行ったんでしょう?」「おや、気付かなかった。海かねえ、行ってみようか」
先生と二人して海岸に出た。皆の泳ぎ遊ぶのを、並んで黙って見つめていた。

立野先生の思い出2020/3/30更新


桜井先生の思い出 09/11/4→11/13、24→19/5/16更新


旭爪先生の思い出 18/6/18更新

平野(昇)君が、ある会合で旭爪先生のお孫さんで、今は作家の旭爪あかねさんと知り合いの神奈川県の教師から千葉高の旭爪先生について知らないかと尋ねられたそうです。
旭爪あかねさんの小説『稲の旋律』、それを映画化しているのが『アンダンテ〜稲の旋律』とのことで、その映画に関して新聞に旭爪あかねさんのお写真が掲載されていました。旭爪先生の面影があります。

千葉高出身で学習院の数学の教授の飯高茂氏が先年『いいたかないが数学者なのだ』を上梓され、その中に旭爪先生の思い出が豊富に書かれていました。
以下は09年6月20日「四季の会」で、取り急ぎ、堀松さんが出席していた方から集めていただいた思い出です。
飯高教授の話ではないですが、数学が出来る、あるいは興味が豊富な生徒が旭爪先生の門を叩けば、凄い知識量だったのでしょうね。

同期の清水君から出てきましたよ。旭爪先生らしい思い出が。今の常識ではメチャクチャ。

久野君(3年H組で旭爪先生が担任)からの思い出が寄せられました。(2018年6月18日)

記憶の糸をたどるといろいろ出てきます。歳を取って昔のことが強く思い出されるということでしょうか。


本野先生の思い出 99/5 追記23/7/13


稲葉先生の思い出19/5/16、23/7/13追記

見掛けが自己に厳しい直情径行の方というのが進級時にクラスで受けた第一印象だった。第三学年I組の担任で、特に僕のようなナマケモノには敬遠対象と感じた記憶があり、それは通年抱いていた。その一方で、先生の娘さんがやはりこの学校の二年上級に在籍した(すでに無事卒業)という学校アルアル情報をクラスの誰かが教えてくれた。あの方も人の親なんだと当たり前の感想を持った。つまり稲葉先生は当時の、我々の親世代とほぼ同年齢であるはずと知った。もちろん職業柄で、生徒の目には老成して映った。

 生徒が互いをより知り合うようにと、ホームルームの時間に各自が進み出て黒板前からクラスの皆に自己紹介する機会を与えてくれた事を覚えている。色んな生徒がいた。学期の途中頃であっただろう、何故なら初のクラスメイトX君とその時すでに、早川ミステリー文庫「ミッキースピレーンの類」の愛好者同士と分かっていたから。X君は、自己紹介の順番が回ってきた時、ついに一言も発しなかった。黒板の前には出たが、顔を赤らめ、向こう気だけは強く、皆の目にさらされて居る自身の身のやり場が無い憤懣顔を、恥じらいと捨て鉢さと俺の所為じゃないからなと言いたげな口を尖らせた。猪首タイプで、詰襟の前が閉まらず頚ホックが開いたまま昂然と拒否の姿勢を保った。

坐った稲葉先生は、黙す彼を急かさず、同時に生徒皆の方を見回して微笑み、「どうだい? こういう生徒もいるクラスなんだよ、逡巡ぶりも良いだろう?」という表情で、X君の必死に身構える、沈黙の持ち時間(5分位で長かった)と付き合っていた。下手に助言などせず、X君の徹したい我慢ぶりとニコニコ付き合ったのである。当のX君は、皆に紹介する自己なんか無えよ、と嘯かず我ありという純真タイプの少年だった。また稲葉先生は毎度、どの生徒の自己紹介ぶりを、どう風にも下には見ず脇から見守っていた。実際に僕もしどろもどろの自己紹介吐露を経験したから、それが分かった。いい思い出だ。

 時間は飛ぶが、後に卒業式当日、舞台上に居並ぶ担任(恩師たち)に向かい下から我々が『仰げば尊し』を歌っている最中だった。僕は信じられないものを現に目の前に見詰めた。光る涙の粒が、稲葉先生の両岸からハラハラと零れ落ちていたからだ、その大粒が見えた。せき上がる感情をこらえているのが分かる表情だった。泣き慣れぬ方の無声慟哭の感じがした。稲葉先生が毎年の卒業式でどうだったのか、またあの壇上で何を思われたのか、他人の関知するゾーンでなし、無論知らない。あのシーンが目に残るのみだ。

 X君には後年、一度電話したことがある。彼は、元の3Iクラスでもそうであったように、やや人見知り癖の強いくぐもり声で応じてくれた。(嶋田正文)


稲葉先生と桜井先生がガリ版刷りの教科書を、島田一平君が大学の教材やカリキュラム作製のアドバイザーをしているので、その参考にする為に「どなたか御持ちの方がいれば借用したい」との呼びかけをしたところ、事務局が把握している範囲ですが、衣笠君と長井君が所持されているとの連絡がありました。千葉高生は凄いと感心しました。

●稲葉正先生「川鉄公害訴訟の思い出2007/12/13掲載

●稲葉正先生「地学実習の見直しを(桜井先生のコメント付き)2007/12/13掲載

●稲葉正先生米寿記念『自然の理法 究めんと−稲葉正 不屈の人生』における同期の寄稿2010/9/13掲載


目良先生の思い出2003/6/9→2009/11/4追記

1年G組の担任の先生は数学の目良弘先生でした。
しかし秋になって、たぶん文化祭が終わった頃だと思いますが交通事故で入院されました。入院が長引き、しばらく担任不在の時期があったと記憶しています。

やがて体育の青木克己先生が代役として学年末まで担当されました。なぜ文化祭かというと、例の合唱コンクールで1Gは1年として決勝進出した2クラスのうちのひとつとなり、およそ音楽とは縁遠い風貌と担当科目の先生からまとめ役の私に「よく頑張ったね」といった種類のねぎらいの言葉をいただいたことを今、突然思い出したからです。

勉強は淡々とやるがほかのことは生徒に何事もまかせるといった感じで、課外活動などには一歩引いたかたちで関わっていられたような印象がありましたので、予期せぬ出来事として心に刻まれていることがらです。

目良先生は確か夷隅郡の大原町から当時ではまだめずらしかった自家用車で通勤されていました。
通勤中の事故でした。どの先生からかは忘れましたが、そのような情報がクラス全体に伝えられ、衝撃をもって受け止められたのです。かなり重傷のようでした。

冬になって世田谷の病院にクラスメートの平野昇君と杉田三郎君と3人でお見舞いにいったことを覚えています。その次か次の年に先生は復帰されましたが、私たちの学年に担任としてかかわる機会はありませんでした。

そして私たちの卒業後、かなり早い時期から名簿では故人のマークが付されていました。私にとっては高校に入って最初の担任でしたし、苦手な数学を一時的にでも好きにさせていただき、しかも先生ご退場後はあっさり嫌いになった経緯もあり思い出深い先生です。

担当期間の長さや事情からして1年G組のクラス担任は、目良弘先生(青木克己先生)が正しい表記かな、と思います。(堀田泉)

小中高を通じて理数系の先生が学級担任になったというのは、私の場合、目良先生が最初で最後でした。担任の先生の科目の出来がよければ覚えもよかろうという功名心もあったと思いますが、なかなか数学は私には難物でした。
 
数学では理詰めで鮮やかな解法、こちらが考えもつかないような公式の応用などといった、絶対に否定のできないような、疑問をさしはさむこともはばかるようなところがありました。
たとえば二年のときに教わった大塚先生には、黒板の図形の書き方や数式の並べ方が芸術的にというほど丁寧で綺麗で、「こうやって解くのだぞ」といった無言の威圧感のようなものを感じていました。実際は心優しい先生ではありましたが。
数学の先生にはそんなイメージを中学生のときから抱いていました。地道な努力が嫌いで、結局自分の未熟さに直面せざるをえない状況しかなかったのでしょう。それは若者にとっては面白くないことでもありました。

文系の科目は、こちらで屁理屈や直感的な言辞を並べれば、何とか先生のいうことに反駁できる、相対化できるといった思いがありました。生意気盛りだったのでしょう。後になってこの認識は決定的な心得違いであって、文系であってもまずは厳密でなければ話にならない、ということをとことん思い知らされることになります。ちなみにこの点では国語の酒井森之介先生を思い出します。生徒には反感を買っていましたが、後に考えるとそのような意図をもって授業を進めていて、きちんとした説明が出来ないときつく怒られました。数学ではなかったので、私はこの授業が緊張感もあって楽しみでした。

目良先生に話を戻します。先生は実に淡々と、表現を換えればズルズルと、黒板に数式を書き並べて、説明を加えながら問題を解いていきました。長くなるとあまり整っていない文字が右下がりに落ちていく、ということもありました。そして生徒に顔を向けるよりも、黙々と黒板に向かっていた時間のほうが長かったような気がします。

宗教的預言者には民衆に向かって訴え、民衆の行動を鼓舞するタイプと、民衆に背を向けて自らの行いで、後ろ姿で模範を示して民衆に行動を促すタイプがある、と後に本で読んだことがあります。目良先生は確かに後者だったと思います。教師稼業を続けてきた私は明らかに前者で、複雑な思いがしています。ただ、目良先生に教わっている期間だけ、私の数学の成績は優秀でした。あとは惨憺たるもの。(堀田泉)


菊地久治先生の思い出 2009/10/19改定

A君の原稿、佐久間さんの原稿をきっかけに「落書き帳」でも思い出話で盛り上がりました。同期諸氏から寄せられた先生の思い出は別途ページを作ってまとめています。
菊地先生からのお手紙や、先生が「千葉高の図書館新聞」に寄稿された文章や、菊地先生がお亡くなりになった時の追悼文、東京葛城会50周年記念誌への投稿文などをまとめています。


岩岡先生の思い出 2000/2/23掲載

 A君の書いた菊地先生の思い出を、うちのカミさんも読んで、感心していました。

彼女は、私が時々話す、クラスみんなの前で、風呂敷をマントのように肩に掛け、棒切れを振り回し、「剣の舞(ハチャトリアン)」に合わせて、踊ってくれた、担任であった、英語の岩岡先生のこととおもったそうです。

 岩岡先生は、自ら、僕と古川君が作ったフォークソング同好会の顧問になってくれた先生でした。
 その理由が、怪しげな同好会を(ギターを弾いて歌う事が不良視されていたというのは、まさに時代と千葉高の雰囲気を反映していますが)、少しは応援してやろうと思ってくださったのか、また先生自身がおっしゃったように、「君たちの歌の英語の発音がひどすぎるので、直してあげたい」と思ったのか、また両方なのか、今も分かりませんが。(小出恒介)


宇津木先生の思い出 98/12/22掲載

宇津木先生がお亡くなりになったが、先生は我々が2年(?)の頃に船橋高校から転任されてこられた。私が先生の英語の授業で印象に残っているのは私のことを「Another Itoh」と指されたことである。クラスに伊藤が何人かいた為であるが、なるほどこのように使うのかと感心すると同時に、寂しく感じたものである。(伊藤三平)

山沢先生の思い出 98/12/3→09/11/13掲載

映画「黒い雪」の思い出を読んで山沢先生の「発生の授業」と「タイの骨のお話」も、一度に思い出しました。タイの骨が喉にひっかかって苦しまれたときのことと、卵が分割を繰り返して行く様を面白い顔をされ、体をくねらせて、実演されたことを、おぼろに覚えています。
確か、先輩から、山沢先生の授業ではこのふたつが面白いと聞いていたので印象に残っていたのだと思います。クラブの先輩から、担任の名をきかれ、山沢先生だと答えたから教えてもらったのではなかったでしょうか。もしそうなら、教えてくれたのは音楽クラブの上級生かもしれません。(神保公子)

山沢先生の模造紙に墨で書いた花の構造図を覚えております。10年くらい使っているように黄ばんでいました。農夫のような風貌の温和ないい先生でした。(伊藤三平)