1.「石を薄片にして調べる」(理科教室2007年10月号から)
授業中に生徒が退屈することは教師にとって耐え難い屈辱である。それを避けるためには教師による講釈をなるべく少なくして、生徒を行動させる形を授業にとり入れたい。地史の学習で、石を透明な薄片にまで研いで調べることは、生徒には大変好評なので紹介したい。すべての石は研ぎへらすと透明になって構成がわかるというのが驚きの第一らしい。それが嘘か本当か試そうとして全員が一心に石研ぎに熱中する。薄く切った材料を提供しておけば、事の真否一時間もかからずに判明する。あらゆる石は自然物の化石だといわれると興味が倍加して、岩石図鑑を何冊かおけば自分で調べる気が起きる。
こんな授業をするには準備に少々手数がかかる。まず石屋で削り屑を多種多量にもらってくる。砥石にする鉄板片と厚ガラス片は教材屋に頼むのもよい。研磨剤は粗いのと細かいのを多量に缶単位で仕入れておく。資料をはりつけて扱うプレパラートを接着剤(バルサム)、資料を刻むためのダイヤモンドカッター、結晶を見るための偏光板小片の2枚組、10倍くらいのルーペなどが要る。
こういう準備は生物化石やロームを洗い尽くした後に残るもの(いわば火山活動の化石)にも使える。
生徒の反応のしかたが判れば、他の科目の実習法にも広めていく着眼が得られると思う。こうした試みを続けていかれるような人事の配置が望まれる。(600字制限)
桜井謙聿先生からの感想文地学の授業計画の小論、目を通させていただきました。その一字一字に当時の情景が蘇ってきます。岩石の薄片の自作作業は生徒にとっても新鮮で野心的であると同時にそれを指導する教師にとっても同じことであったと思います。
準備には多少時間を要しましたが、あの硬い岩石を薄片に裁断するという作業は楽しいものでした。準備万端を整えていざ作業にかかると室内は声なく、岩石をすり減らす音のみとなり、10分の1ミリ単位をあらそう張りつめた空気に覆われたものです。この緊張感から解放されるのはすり減らしている岩石片が肉眼的にも透明になってきたときです。作業の仕方によっては薄片が同じ厚みに成らず楔形になったりします。生徒それぞれがお互いに比較し合いその成果を競い合うときです。
研磨剤の粒度を次第に細かくしていき、研磨剤をアランダムに変え、いよいよ仕上げという時が最も緊張する時です。気を許せばアットいう間に薄片は消え去り、接着剤のみがそれらしく残ることになるからです。この緊張感は何者にも代え難い貴重なものです。
こうして得られた薄片は偏光板2枚とルーペによって色鮮やかな彩色模様を見ることになります。この彩色は生徒によっては驚きの一語に尽きます。教師が一言も語らず緊張裡に授業が進められるのは最高と思います。
こうした経験は後に物理で偏光や回折、干渉を扱う段にいたって有効なものとなります。生徒の大多数は自分の制作した薄片を持参してきます。これらの授業風景は600字という制限内で十分描き出されているものと思います。
2.「地学学習できなければ生徒哀れ」(毎日新聞2007年4月23日(月) みんなの広場から(投書欄))
天文科学や恐竜・化石などを学ぶ地学。かなり前から高校の地学離れが進んでいる。東京都では地学教諭の採用が0人になりそうだと心配している方が多い。本当なら重大事で、自然科学の最も重要な部門の一つが教育から消滅する恐れがあることになる。私の経験では、地学学習は、生徒が夢中になるほど好まれた。入試の迫った3年の2学期でも、野外巡検に日曜日でも参加者が多くて驚かされた。実習に意欲がわき上がれば、大学入試の準備も自然とエネルギーがわいてくるらしい。一方、動機づけがしっかりし、楽しみながら学習をできるのに、やり手がない、先生を採用できないのでは、あまりにも哀れではないか。原因が、学習・学力を点数のみで考えているのなら本末転倒で、早急に改善してほしい。
感銘を与える授業をするためには、教師は教える熱情を自得しなければできない。それには自由と時間が当然必要である。東京都教育委員会が管理主義と教育の実態を取り違えないように切望する。