30.登山はつらいよ伏見稲荷(1)
  のっけから私事になるが(というより、このシリーズ全体が私事の繰り返しだけど)、私が生まれたのは京都の丹波橋である。正確にいうと京都市伏見区肥後町であり、そこの西養寺という真宗の寺に新婚まもない両親が間借りをしており、近くの京都府立医科大学伏見分院でこの世に出た。江戸っ子新橋育ちの親父と信州小諸出身のおふくろが、どうして京都くんだり上賀茂神社で結婚したかは、明らかに戦争の影響がある。が、それは別の機会にして、1歳になる前の私を連れて両親は、本来の生活圏である東京の中野に移り住んだ。だから私には丹波橋の記憶は一切ない。30年以上の時を経て、電車で30分のところにブーメランの如くに戻ってきたわけだが、これは偶然以外のなにものでもないし、とくに感慨もなかった。

 今年は大晦日はほとんど気乗りがしなかった。前日になってもどこへ行くか、なかなか考える気になれなかった。去年の部分を読み返して見れば慄然とする。「暴風」「暴走」「若者受難」−羽越線で仕上げられたまさにその1年ではなかったか。私個人の不幸はたいしたものではなかったものの(バイクの事故です、それから、くだんの息子は腸炎で入院騒ぎを起こしました)、多くの知り合いや友人達がひどい目にあった。春が終わる頃からほとんどふさぎ込んで暮らす厳しい1年だった。またへんな予感にとらわれては、たまらない。

 いままで黙ってきたことをあえて言うが、私にはとんでもない予知能力がある。テレビに出てきてライブドア株は5倍に値上がり、日本は難民化(これは長期でみれば当たるはず)などとぬかす脅迫婆なんかより遙か上をいっているとひそかに自負している。
 「当てもの」、とくに籤運については無類の強さを発揮してきた。ここ数年のことだが、地元の商店街の福引きで5万円相当の温泉旅行(特等)を引いた。滅多に乗らない全日空の機内でアンケートに答えたら、後日、任天堂のゲームボーイアドヴァンスが当たって送られてきた。新規にインターネットのプロバイダ契約をしたらキャンペーンで1万円の商品券が当たった。下2けたや3けたの懸賞の勝率はかなり高い。究極はお年玉年賀はがきで、5ケタの特賞を貰ったことがある。もう40年以上も前の話だが(当時の賞品は最新の電気こたつでした)。10万分の1の確率というのは、仮に年賀状を毎年平均100枚貰うとして1000年分。人生75年として約13回人生を繰り返せば1回だけ当たるということになる。これをたった1回の人生でやってしまったのだ。たいへんな自慢話になっている。ひんしゅく覚悟で続けよう。

 こうなると懸賞マニア、宝くじマニアの世界に入り込みそうだが、そこは私なりのポリシーがあって、これは絶対当たりそうにないとか、これなら当たるかもしれないということが漠然と、何となく事前にわかるのだ。それゆえ無闇に手は出さず、むしろ慎重であったと思う(公営ギャンブルは、繰り返しのゆえに期待値ゼロで親の総取り、株は大なり小なりのインサイダー取引が存在する限り不利、為替は勝ちは小さいが長期的にはファンダメンタルズ=国力で勝負になると理論的?にやってきたこともある)。勝率がいいのはそのせいだと思う。だから運というよりも「予知」能力といいたいのだが、こういうことは公言してしまえばもう一切終わりのような気がする。私は良い籤運に恵まれてきた(籤がいいのは繰り返しになるがテラ銭がないからです)。しかし、当たりがいいということは悪い方の当たりもいいということだと思う。何となくそんな雰囲気が出てきた1年だった。運は巡るものである、だが半分は操作可能とマキァヴェリも言っている。そこで、はなはだ利己的ながら、人生も先が見えてきたし、もうトータル勝ち逃げでいきたい。運気はここらへんでご破算で願いましては、にしておきたい。いいことはなくてもいいですから悪いこともないように・・という思いを込めて原点に戻ろう、予知と予感(こっちもすごい、たぶんこの女にはふられるな・・とか)の世界とはこれからは無縁でいきたい、と思って生誕の地である伏見稲荷にした。えらく長い前置きだ。(つづく)
 
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