29.入江泰吉と土門拳
 先月の22日、千葉の街を歩きながら本屋で「別冊太陽 生誕100年記念 入江泰吉のすべて」(平凡社)を見つけた。どこでも手に入るのだが、見かけた時にでないと忘れてしまう。翌日は旅空だし。

 奈良公園の飛火野から北に向って旧志賀直哉邸を過ぎ、緑濃く、家がまばらになってきた界隈、新薬師寺と背中合わせに奈良市写真美術館がある。この施設は大和路の風景と仏像、万葉の植物を撮り続けた入江泰吉の膨大な量の遺作を収納するために平成4年に開館された。その準備中に入江は86歳で亡くなった。

写真美術館

http://www1.sphere.ne.jp/naracity/j/kan_spot_data/w_si41.html

http://www.city.nara.nara.jp/shstsu/bunka/bunka05.htm

(事務局注)奈良市のHPそのものもおもしろいです。このページから入江泰吉の写真を含む「なら写真ガイド」のCD−ROMの案内にもアクセスできます。
http://www1.sphere.ne.jp/naracity/j/n_hp.html

 以来、入江の作品を中心にテーマを定めて展覧会が年に4,5回開催されている。今回は12月25日まで「入江泰吉、土門拳二人展」である。中学か高校の頃、図書室で見た「筑豊の子どもたち」の土門拳もまた、大和の仏閣や仏像の作品を多く遺している。

 両者の作品は混在して展示されていて(枠の色を変えてある)、しかも同じ対象が何度も繰り返し撮影されている。絵画と違い写真とは対象を瞬間において忠実に記録するところに特質があるように思われるが、作風というか美学の違いは明らかであって、やはり芸術作品なのだということを改めて思い知らされる。このように並べられれば。

 入江の場合は仏像や風景に彼なりのメッセージがつねに込められており、背景も含めてそれが正確に表現される瞬間を執拗に待ちつつ試行錯誤が繰り返される。僕の好きなのは法起寺の月明かりなのだが、全体が入江の「語り」になってささやきかけてくる。

 これに対して土門は、自分を殺して素材そのものに語らせるというやりかただと思う。仏像の顔の細かなひび割れや箔の剥げ落ち、南大門の壁のざらつきなどが、直接に見る者に訴え、圧倒する。同じ薬師寺の東搭でも、入江が水に反射して静止する姿を捕らえるのに対して真正面から挑んでいく。「筑豊」にも共通する方法態度だ。

 興味深いのは昭和10年代のモノクロ時代に両者とも、文楽の首(かしら)で腕を磨いていた点だ。これらも並列されて展示されている。文楽人形は、ほんのわずかな角度の違いだけで、驚くほど陰影や憂愁に富んだり、躍動感にあふれたりと表情が変化する。それ自体としてもものすごいものだと思う。そして人形遣いはこの点をじゅうぶん過ぎるほど意識して舞台に立つ。写真家にとってはほんとうに格闘に値する対象なのだろう。

 展示の最後の部屋は「余技」と称して、土門の油絵や水彩画、入江の木彫の仏像などが並べられてある。彼らは写真の専門家ではなく、全人格の表現として写真があったのだとつくづく思わされる。
 

付記1「入江泰吉、土門拳二人展」の招待券2枚あります。メールにて連絡いただけましたら先着順で進呈いたします。
付記2「老館長の一念」は一時(長期?)中断していますが、そのうち再開します。 
 

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