24.郡山物語(8)事務所は文化
  先日、東大阪市内を歩いていると電柱の幹にA4の紙で「きれいな文化あります」という手書きの張り紙広告が貼ってあった。何のことかお分かりだろうか。関西でしか通じない、しかもだいぶ死語に近づきつつある「文化住宅」の不動産広告なのであり、「文化」だけでじゅうぶんに通用する。

 あえて定義づければ、戦後20年ほどのあいだに爆発的なスピードで新興住宅地を中心に相次いで建設された木造(モルタル)の長屋的な小家族向けの民間アパートのことである。関西以外ではおもに「○○荘」と称される類のものといえばいいのだが、決定的に異なるところがあって。それは連結された各戸とも、居住面積からみてかなり大きめで立派な玄関があり、そこが独立した住居の体裁を主張しているのである。京都や奈良の町屋に原型があるのだろうか。いずれにしても高度成長期以降は「コーポ○○」とか「テラス○○」といった集合住宅に取って代わられ、新たに建築されることはなくなった。それとともに玄関も単なるドアになっていった。

 名簿の住所録などを見ると「△町×丁目□番地○○文化」などという記載があって、最初は一瞬何のことかと思ったものだ。新聞の3行広告でも見出しに「文化」が何十件にもわたってずらりと並び、奇異な感じにうたれたものだ。
「文化、照良、4・6築8賃3」などと。

 しかしなぜ「文化」なのか。cultureは「耕す」という意味があり、自然のままの粗野・野蛮な状態でない、いろいろ配慮され手が加えられたということだろう。「文化包丁」などというのもあったな。即、犯罪に転用可能な出刃包丁は野蛮なのだろう。「文化的な生活を営める住宅」。「戦後」にふさわしいネーミングか。実態はウサギ小屋でも、ものはいいよう、という面も濃厚である。

 ちなみに私は現在「文芸学部」の「文化学科」というところに所属している。他に「文学科」と「芸術学科」がある。「文学」も「芸術」も上の意味に照らす限り「文化」ではないかと思うのだが、この関連をきちんと説明できる教員は学部内に誰ひとりとして存在しない。

 郡山に棲んで2年目に第2子が生まれた。狭い公団住宅で、資料を積み上げて原稿を書くのがだんだん困難になってきた。大学に研究室はあるのだが、集中する仕事には使いづらい状態だった。そして生来のずぼらさから、環境を本格的に再構築せねばと思いつつも結果的には一時しのぎの安易な解決をとった。300mほど離れた旧市街の茶町に「N文化」が空いていたのを見つけて仕事部屋兼書庫として使うことにしたのだ。「書斎」と呼ぶにはかなり無理がある。家賃は学生下宿をちょっと高めにした程度。家主は同じ敷地の瀟洒な一戸建てに住む保守系の市議会議員で、後に選挙違反(買収)で逮捕され、失意のうちに落選・病死することになる。家賃通帳を持って毎月支払いに行き、この顔役にいろいろ旧市街について参考になることを聞いた。本宅とは道路を隔てて旧市街だ。だが祭りの積み立てや労役から町内会から公団住宅とはすべて流儀が違った。煩わしいともいえるが異邦人には興味深いことも多かった。ひとことでいえば「歴史」のなかに暮らしている、ということだろうか。

 隠し立てするわけではなかったが、説明が面倒なので知り合いにはこの住居は基本的には知らせなかった。今なら携帯で解決するが(とはいえ私は未だに携帯を持っていません)、あいつに電話するといつも不在で15分後に向こうからかけ直して来る、ということになった。かみさんが電話をいったん切って呼びにくるだけのこと。子供たちには「お父さんの事務所」と説明して寄せ付けなかった。講義のある日は午後に自宅に戻ってから事務所に出勤する。夕食にいったんまた戻り、再び出勤する、夜明け近くまで事務所で仕事をして自宅に眠りに帰る、という日々が2年近く続いた。休みの日はやはり食事と睡眠で自宅と事務所を行ったり来たり。

 そのうち、隣の一人暮らしの若い兄ちゃんに彼女ができた。「文化」の構造を意識してか突然テレビの音が大きくなるのである。だがテレビはラジオと違って間断なく音が響くわけではないところが問題だ。私はニュースと音楽用にラジカセを持ち込んでいたのだが、たまたま壁に向かって録音ボタンを押せば「犯罪」になるのだろうか・・・などと最初は「ムフフ」状態だったがやはりあれこれ心が乱れてくる。とんだ「文化」となった。そろそろここの暮らしも終わりかな・・・と漠然と思った。

 5年ほど暮らした独特の街・・・。確かに青春時代は過ぎ去っていたが一人前ともいえない時期・・・。この眠たい街は思い起こすたびごとに奇妙な感覚にとらわれる(この項おわり)。
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