22 郡山物語(6)ぼうせき工場の灯が見える
  これだけ猫の額のようなところに無数の町内がひしめいている旧市街において、町はずれとはいえども中規模の団地が存在するのだから、日本住宅公団(当時)がどうしてこれだけの土地をまとまって取得できたのだろうか、という疑問が住んでしばらくたって湧いてきた。

 謎は、天気の良い日に団地の望める郡山城址の東側に向かって立ったときに解けた。著名な詩人の小さな詩碑がひっそりとあり、その一節に「ぼうせき工場の灯が見える」と刻まれていたからだ。そういえば、紡績工場はもうないが、よく見るとこの街には繊維関係の町工場や仕事場が結構多い。今はどぶ川になっているが、それに臨んで江戸時代から建物ごと続く染物屋があるし、「○○莫大小」などという看板が古びた電柱に掲げてあったりする。

 そのまま市の図書室(当時は図書館はまだなかった)に行き、あまり立派でない「市史」を参照してこの事実は確認できた。しかし、その会社名や建設年代は確認できなかった。でもまあ、かつては日本資本主義の黎明期をささえた紡績業が大和のこの地にもあり、そのまま存続できる時代でなくなるとともに、公団に買収されて団地に変わったという筋道の推測はついた。

 話は変わるが(実は変わらない)、この街の中心の柳町通りを少し南に入ったところに洞泉寺(とうせんじ)という寺がある。この界隈50mほどの路地にはかつて遊郭があり、格子の窓や櫓が当時そのままに残る木造3階建ての建物が並んで残っている一角がある。駅前商店街と同じく保存のための保存ではないから、今は普通の民家となって人が住んでいるのだが、ここを通ればタイムスリップということになる。上がり口に無造作に子供の三輪車などが放置されていたりするのは、なんとも不思議な光景だ。

 知る人も多いだろうが大阪には飛田、松島、今里などといった昔ながらの遊郭がある。とりわけ飛田新地は大正末期風の建造物が残るだけでなく、現在も営業が続けられている。営業内容は、どこの歓楽街でも本質的に同一だが、形式がそのまま存続しているのには驚嘆するほかない。掲示板の品位を落とすわけにはいかないので、詳細なガイドは省くが、検索エンジンでもかけていただければたちどころに情報がわーっと出てくるはず。ここもワンダーランド、不思議の空間。怖い兄ちゃんたちの家出少女たちへの脅し文句、「飛田に売り飛ばしたろか」は、現在でもそのまま有効です。

 洞泉寺については、古い街の人に聞いたことがある。大阪の商人が繊維関係の買い付けに来て、首尾良く商談がまとまると繰り出したところ、と。「ぼうせき工場」はその敵娼の有力なリクルート先だったかもしれない。午後ののどかな陽差しに照らされて、人気のない通りを歩くと、女工哀史のなれの果ての夜のざわめきと喜び悲しみの世界がここに繰り広げられていたことがまるで嘘のようだ。
 
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