17.郡山物語(1)昼寝に似合いの街
 郡山といえば、福島県の郡山を思い浮かべるだろうが、関西では違う。正式 の市名は「大和郡山市」だが、だれも「大和」は省略して呼ぶ。国鉄も近鉄も 駅名は「郡山」である。柳沢10万石の郡山藩の典型的な城下町であり、石垣と 近年再建された城門の下に「大工町」、「雑穀町」、「豆腐町」、「紺屋町」 などといった細い路地に仕切られた昔ながらの町屋や長屋がところ狭しと並 ぶ。築城は天正年間、洞ヶ峠の筒井順慶と伝えられる。続いて秀吉の弟秀長の 居城となり、江戸初期は徳川の重臣が次々に入れ替わり、ようやく柳沢吉保の 子の吉里に落ち着く。城の真下に近鉄郡山駅があって市の中心をなし、そこか ら東に向かって商店街が延びる(柳町通り、車が通れない狭さ)。といっても 僅か2キロ足らずで国鉄郡山駅に行き着き、町はずれとなる(これが旧市街で その外延部の田畑のなかに国道や工業団地、新興住宅が無秩序に並ぶ典型的な 日本的都市形成)。このメインストリートは途中で南北の道路と交差し、こち らも商店街だが北は数100メートル行ったところが市役所で、どんづまりとな る。この商店街も時代物だ。呉服屋、染物屋、お城に献上の和菓子屋はもとよ り昆布屋などというものもある。旅籠風の割烹や旅館。奈良時代は街の外側の 社寺に行かなければ感じないが、江戸時代と昭和初期は日常的に臭ってくる街 だ。

  もちろん近代化の波は押し寄せてスーパーやマンションはある。しかし、そ れらの建設は1980年代、つまり私がこの街に流れ着いた頃にようやく本格化し た。昭和30年代がそのまま当時は残っていた。乗り遅れた街。しかし、緩慢な 開発でもこの20年で、古いものはかなり消えていった。有名な橿原の今井町 も、近年のように努力して町並みを残したのではなく、発展する要素が何もな かっただけのことで、この点は長谷寺の商店街も同じ。そして外面的な街の姿 態だけでなく、ぶらぶら歩けばえびす講や地蔵盆などの年中行事が観光客目当 てでなく、日常の当たり前のものとしてある。要するに住んでいるだけでも眠 たくなる街である。

  この街に流れ着いたのは全く偶然だった。関西に急遽仕事が決まって3日の うちに住居を決めねばならず、通勤に適当なところで即時入居できる公団住宅 が、町はずれの国鉄郡山駅前にあったからだ。一番北側の棟の4階に割り当て られ、数ヶ月の仮住まいのつもりですぐ出て行くはずだったから、中もろくに 見ずに住むことを決めた。だが結果として、ここで31歳から36歳までの五年間 を過ごした。人生の巡り合わせでたぶん最もアグレッシブな時期に、この眠た い街に居たということは、ここで仕上げたいくつかの仕事を顧みると、良くも 悪くも影響は相当大きかったと最近になって感じるようになっている。  何からいこうか。武家の商法の金魚はよく知られている。その前に郷土の 「有名人」のことからにしようか。(この項つづく)

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