13.リヒャルト・ゾルゲと奈良公園()

(大和路から信濃路へ) 個人史にかかわるところに進みたい。

社会的行為の意味を理解するにはその動機の解明が不可欠である。尾崎の少年時代・台湾時代・大学時代・異様な結婚などの経過を追うなかで、かれの人間性の形成過程を追跡することによってこれを明らかにしようとしたもの(この視点がこの映画には希薄なのだ)で最も説得的なのは、一高・東大を通して同級生であった風間道太郎の『尾崎秀実伝』(法大出版)である。これに出会ったのが30年近く前。

風間道太郎と聞いて思い出す人はいないだろうか。高校2年のときの「倫理社会」の担当は矢部基晴先生であった。文系に進もうとする生徒にとっても「受験に関係のない」この科目は、意欲の対象でもなければ嫌悪の対象でもない、いわば「軽視」の扱いを受けていた。ぼくも当時は、今となっては気恥ずかしいとしかいいようのない「文学少年」を自認しており、大筋ではそんな対応であった。しかし、そのような状況を認識しつつ淡々と、しかも今から思えば熱い内容(たとえばギリシャや古代中国哲学の解説をする傍らで「岩宿の発見」や、当時新進気鋭の社会学者見田宗介への注視など)を語る先生の姿は、どこかぼくに後の「社会科学青年」へと転身する種のようなものを植え付けたのだ、と今にして思う。しかしその頃は改めて質問に行くということもなかったし、卒業アルバムを見ると先生は「社研」の顧問をされているようなのだが、そのサークルに加わることもなかった。

秋頃、先生は「こんな本を出しました」といって三一書房刊『君たちはどう生きるか』を授業中に紹介された。すぐ読んだのだが執筆サークル「方向感覚の会」の主宰者風間道太郎の名が記憶に留められたのはその時だった。

それから約10年後、大学院をおえるぐらいの頃、一夏の4分の1ほどを当時の指導教官の信濃追分の別荘で過ごす機会があった。弟子が多かったので短期間で済んだが、昔はこうやって師匠と寝食を共にして鍛えられるというような指導も珍しくなかった。散歩だけが息抜きだった。

この別荘地は昭和50年頃の開発で、堀辰雄邸やその文学サークルの舞台として有名な旅館「あぶらや」などのある旧本陣とは国道18号線を挟んで反対側にあった。中山道と北国街道が分岐する「分去れ(わかされ)」の南側である。来てまもなく散歩のさいに国道からの入り口のすぐ近くに「風間山荘」を見つけた。それとともに、指導教官の別荘を間に挟んで雑誌『思想の科学』の山荘というか合宿所も見つけた。風間道太郎が(そして矢部先生も)『思想の科学』の関係者であるということは、仕事柄その時はもちろん知っていた。とともに先の本に、この仕事は浅間を見上げる山小屋で完成された、とあったことを思い出した。ははあ、ここらへんが「方向感覚」の拠点だったのだなあと思った。紙芝居の加太こうじや指導教官の後輩に当たる千葉大(当時)の伊東光晴先生の別荘もすぐ近くにあった。

ある晩、お客があって書生さんは近所づきあいのよしみで『思想の科学』へ退避することになった。寝袋をかついで夕方に移動した。真夏だというのにがらんとした建物の管理人として出迎えてくれたのはなんと矢部先生だった。(この項つづく)

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