12.リヒャルト・ゾルゲと奈良公園(1)

(映画)篠田正浩監督の「スパイ・ゾルゲ」を観てきた。「よかった」とはいえず、これを最終作として監督は引退宣言を出しているが、再度挑戦してもらいたいものだという思いを持って帰ってきた。3時間の長篇だが、3時間でもほんの一部しか描ききれないほどこの事件は、当事者たちの思惑を越えて現在に至るまで、様々な政治的・社会的波紋を広げているし、真相自体も明らかになっていない部分が多い。また人間ドラマとしても、登場人物は政治的立場を越えて限りなく多く、しかもそれぞれが人生や社会とのかかわりの襞を濃密に含み込んだ、感動的ではあるが気の重くなる内容にならざるをえない。ぼくの個人史にもほんのわずかだが、後に書くように触れるところもある。

30年ほど前に、この出来事に興味を持った。爾来、単なる趣味から文献中心に資料を集めてきた。関係者からの発言や文章はいまだに後を絶たない。正反対の主張もいくらでもある。そしてずいぶんと政治的に利用されてきたのだし、歴史的評価も決して定まっていない。過去なのではなく、いまだに現在の出来事なのだ。

だから篠田監督が、現在としてこれに正面から取り組み、いかなる部分を切り取って再構成しようとしたか、そしてそれを通じていかなるメッセージを私たちに送るかについては興味があった。取り組むに値する出来事であることに疑問の余地はない。

他の作品から感じていたことだが、この監督は非常に真面目だという印象を受ける。史実は正確に踏まえ、しかも「社会派」としての発言は欠かさず、さらに映像芸術的にも娯楽としても鑑賞に堪えうるものを目指すというポリシーは正道をいっているとは思う。しかし今回は対象が大きすぎるせいか、ポイントが絞られていないし、それぞれのモメントが相互に殺し合っている。この事件を正確に知ってもらいたいという啓蒙的な意図があるにしては、後述するように致命的な欠落とミスリーディングがある。人間ドラマとして描くのならば、「この人たちは戦争という時代でなければ普通の学者にふさわしかったのだ。本質は日本社会の正確極まりない分析である」という解釈にはほんとうに同意できるのだが、リヒャルト・ゾルゲや尾崎秀実を諜報活動に駆り立てたもの、そしてそこに至るまでのかれらの苦悩と不安を描き切れているかというとおおいに不満が残る。

それらについては次回以降に改めて記すとして、これでは「点描」にならないので、上海から朝日新聞大阪本社に戻った尾崎が、コミンテルン(この時点では赤軍第4部ではないはず)の新たな任務を帯びて来日したゾルゲと奈良公園で宮城與徳を介して再会するシーンについてひとこと。

上海は植民地といえども外国。ここでゾルゲ・リングに加わりアグネス・スメドレーらといわくのある行動を共にしたことと、今後、名だたる官憲国家としての内地で、しかも家族や知人が傍らにいる日本社会のただなかで活動を開始することとの違いについての認識は尾崎にとって相当重いものであったはずであろう。しかし、目の前のかけがえのない友人への信頼と自らの使命感が決断を促した。

奈良に住むようになってこの舞台がどこであるかをつきとめたいという思いが長らくあった。どの資料にも「奈良公園」という記述しかないのである。奈良公園は広い。映画では人気のない東大寺大仏殿の回廊になっていたが、やばい待ち合わせにしては現実味を欠く場所となった。国立博物館の裏手とか、春日大社参道からちょっと横に入ったところなどをイメージしていたのだったが。(この項つづく)

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