5.デパート哀歓

60年代後半に千葉市で過ごし、その後よそで暮らす私には、高校への通学路の途中に出現した「千葉そごう」は、一種のカルチャーショックであったという懐かしさがある。移転間もない国鉄千葉駅前のそれは、A君が描く如くに、規模だけは大都市へと発展するこの街の将来の象徴的な出発点のようなものだった。同級生がアルバイトしていたこと、屋上のビアガーデンなど、次々に思い浮かんでくる。

さて、30年近くの時を隔てて奈良のこの地。上の娘が小学校高学年だった頃、近所にN子ちゃんという不登校の同級生がいた。家が近いこともあって、娘が学校との連絡役のようなことをしていたのだが、そのN子ちゃんの父親は、開店間もない「奈良そごう」のばりばりの課長だった。私とは面識は今もってないが、母親同士は井戸端会議のメンバーで、娘のそんな役回りもあってか、よく「社員優待特別割引券」を横流ししてくれた。これだけでも「そごう」に足は向けられない。

子供たちが高校に入る頃、この一家は府県境を越えたわずか300メートルほど北に家を買って引っ越していった。ここに根付こうという思いだったのだろう。N子ちゃんは相変わらず学校へはあまり行っていなかった。不登校というのは、いじめと関連させて論じられることも多いが、実際にはさまざまなケースと要因があると考えられる。この場合は(どの場合でもそうだろうが)ひとことでは説明しにくい。短大は適当に通って卒業したN子ちゃんは、街で時々バイトに励んでいる姿を見かけるが、元気で楽しそうだ。奈良を離れた娘が、時々帰ってきては連絡をとり、連れだって夜遊びに出かける。30年も前、同じように帰省しては、友達と千葉の夜をうろうろしていた自分の姿が重なる。かのデパートの周辺を。

お父さんは、伝え聞くところによれば、沈み行く船の中で残務整理を粛々とこなし、閉店とともにローンを抱えて退職した。同じ世代として、似たような境遇は珍しくなくなってきたが、やはり言葉も出ない。数日前、民事再生法の適用が終わったとテレビが報じていた。「千葉そごう」は残っても、多くの企業戦士が散っている。(つづく)

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