4.並び立つ平城と平成の大廃墟 |
その事件とは80年代なかばの平城宮跡の東側をかすめる「奈良そごう」の建設計画だった。高さの建築制限の厳しい奈良では(平城京から見て、大仏殿をさえぎる高さであってはならない)、デパートを作るとしたら広大な面積をとらざるをえず(そんなことは旧市街では無理な話だ)、しかもならまちと平城京の中間という交通の不便なところでは広い駐車場が不可欠だった。遺跡だから建設前に発掘調査がおこなわれ、出土した木簡からここはなんと長屋王の住居跡であることが判明した(長屋王って誰だった?)。 遺跡は一度コンクリートで固めたら二度と復元はできない。出店反対運動も起きた。開店は予定より1年以上も遅れた。しかし、私が20余年前はじめてこの地に流れ着いたとき、国鉄奈良駅前で人のよさそうなおばあちゃんに、「この近くにデパートはありますか」と尋ねると、「はいはいあっこ」といって指差す先が「スーパーダイエー」であるような街だ。大阪に出なくてもいいというフレーズと物珍しさから開店につめかけた市民は、ロビーに法隆寺夢殿の金ぴかの模型が鎮座したり、会長来店のとき以外店員でさえ入ったことのない開かずの黄金会議室を兼ね備えた、どうみても経営者の道楽としか思えない建造物に目を見張った。あとから見れば自滅的な拡張路線を突っ走っているさなかの会社であったことは知る由もなかった。その後の運命は周知のとおり。 数あるそごうの店舗の中でも、ここは最大級に採算の取れなかったところであり、閉店後二年近くたつが、いまだに買い手がつかない。奈良市長は公費を使って新たなテナント探しに躍起である。西武や百円ショップ、ダイソーなど次々に話はあったが立ち消えていった(昨日の報道ではイトーヨーカ堂)。切り売りにしても買い手は怖気づく。この立地と景気を考慮すれば当然のことだ。 こうしてチェルノブイリの「石棺」を連想するような壁に蔽われ、テニスコートが軽く100面は作れそうな、車一台ない巨大なコンクリートの駐車場をもつ平成の廃墟が全くの無人のままに平城京の一角に聳えている(2003年1月現在)。 一私企業の利己的で無謀な行為が人類の貴重な遺産を潰した、と非難するのはたやすいし当たってはいる。しかし私にはそのように悪しざまにいうだけではすまないかかわりもある。次回はその話。(つづく) |
||
前へ | 目次へ |
次へ |