東京裁判は無効だと言う説と、そして、だからA級戦犯はいないという説は別だと思う。
私は日本人として、当時の戦争指導者を責任は追及したい。
税金を払っていた人間を赤紙一枚で、国家非常時だからと言って招集して戦場に連れて行く。ここまでは国民国家として仕方がないし、一国民としても「お国の為に」立たなくてはいけないという気になるのも当然である。
しかし、連れて行った戦場で、餓死させるような状況に追い込むのは指導者の責任ではないだろうか。
先年、台湾に行った時、高雄からフィリピンとの間にあるバシー海峡を見た。アメリカ人が驚いたほどワンパターンで日本兵が渡ってきて、沈められた海峡だ。何事も失敗はある。しかし、失敗から何も学ばず、ワンパターンでムザムザ沈められるような戦術を取った戦争指導者を許せるか。
私は、日本人として、当時の指導者には国民を犬死させた責任はあると思う。
東京裁判は、「戦勝国が敗戦国を裁いた裁判で茶番劇で無効だ」という論旨は一理あり、それはそれで認めてもいい。私も「平和に対する罪」「殺人と通例の戦争犯罪」「人道に対する罪」で裁くこと自体が次のように矛盾していると考える。
- 「平和に対する罪」→平和は1国だけで達成できるのか。戦争を起こしたことが罪ならば交戦国も同様の罪ではないか。よしんば認めても、以降の戦争(
朝鮮戦争、ベトナム戦争等)で、これは適用されないのか。
「殺人と通例の戦争犯罪」→これは戦争になってしまえば必ず生ずることである。自分の前に敵が来て、銃を構えられたら私でも殺してしまうのだ。戦争そのものの罪である。
「人道に対する罪」→ナチスのユダヤ人を抹殺しようとする行為は、まさにこれだと思う。非戦闘員を殺したというなら、米国の原爆投下、包囲するように焼夷弾を落とした東京大空襲などはどう裁くのだ。正規兵が軍服を脱いで一般市民に紛れたゲリラになった場合に、一般市民も巻き添えに殺すことを、ベトナムでやったし、今でもイラクでやっているではないか。ソ連のシベリア抑留は非人道的だ。
また「天皇が免責された以上共犯たる被告を裁くこができるのか」というフランスの判事の意見も当然である。
では、東京裁判が無効だからと言って、当時の日本の指導者に国民に対する責任がなかったと言えるだろうか。
私は、上述したようなことをした当時の指導者に責任はあると思う。
私の母は大正8年生まれだ。母が生前「自分と同じくらいの年代の男はみんな戦争で死んだ」と述懐していた。澤地久枝の「滄海よ眠れ」にはミッドウェイ海戦に参加した日本、アメリカ双方の軍人のことを取材した良いドキュメンタリーだが、ここに登場する兵隊は大正8年前後が多く、母のことも思い出して涙が出る。
バブルが崩壊し、銀行が苦境にたった時、ある銀行の元行員が「伊藤さん、自分は東京裁判なんて茶番と思っていた。しかし、今思うと、ああいうことでもないと、結局、この国は上の責任を追求しないんだよ」と述べられてたことを思い出す。
では、今となって、日本人が当時の日本人を苦衷に沈めた戦争の戦争指導者を裁けるかとなると、非常に難しい。では、どう判断すべきか。
私は、A級戦犯の人たちが、東京裁判は茶番であっても、罪を着て責任を取ってくれているのだと思うし、思いたい。(城山三郎著『落日燃ゆ』は広田弘毅の物語ですが、感動した小説の一つである。)
戦犯の孫娘にあたる人物が、今になって「常に国のため、天皇のため、国民のために尽くし犠牲になった」と主張しているようだが、勘弁してもらいたい。その立場になればそう思って行動してもらうのは当然だし、思いはあっても思慮が足りなく、結果として非常に大きな過ちを犯したのが問題なのだ。祖父も草場の陰から、はらはらしているのではなかろうか。
靖国神社に祭られている赤紙1枚で召集されて、餓死やワンパターンの無策で戦死した兵士としても一緒に祭られるのは勘弁して欲しいと思うのではなかろうか。私がそうならば、このように思う。
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