9.幻の仮面朗読会・後篇
D「朗読の美学」

受験勉強を経験せぬままC高に入ってしまった私は高校卒業後は当然の報いの浪人生活に入ったのだが、教科書類は受験科目を除いてすべて整理した。現代国語の教科書は綴じ代をバラシた後、幾つかの忘れ難い単元だけを冊子に綴じた。

キクチ先生の授業で扱った作品もあった筈だが、色んな物と一緒に箱へ閉まった後はその存在すら忘れた。
封印したつもりは全くないのだけれど、三島のある短編によれば                 <*>
「箱は物をしまうもののように思われているが、蓋にとっては、開ける時にこそ本来の役割を果たす」のだそうだ。

なるほど、何度目かの引越しの最中に開けた箱から幾つかの遺物が立ち現れた。

高校の図書新聞か何かが出てきたので、ダンボールの間に座り込んで眼を通すと、「朗読の美学」と題する文章が眼を引いた。色褪せた頁の、その筆者はキクチQ治先生。読み始めて、既に内容が頭に入っているのがわかった。この記事のために保存していた新聞だったのだ。

先生がどれだけの意図を以ってあの朗読会を提供しておられたかが淡々とした文章の中に滲んでいた。
中でも、将来に夢想する理想的な朗読会の記述は、既に実際に、そこに参加したことがあるような印象を私に与えた。無論、学校で配布時に一度読んでいたのだから、印象が蘇るのは当たり前のことなのだが…。

曰く、(記述はイメージであり、実際の文章とは異なります)

会場は聴衆の静かな緊張が伝わるのに程よい広さである。壇上に登場する朗読者はギリシャ悲劇に見るような半仮面を付け、黒いマントを羽織っている。朗読される作品のテーマを象徴するような物、例えば能面、百合、小箱・・・そういったものにスポットライトが当てられる。その他は壇上にも会場にも明かりはない。
音響効果は作品中のある重要な場面に於いてのみ効果的に流れる。たとえクライマックスに至っても、朗読の声を遮ることがあってはならない。観客の感動が自ずと舞台に伝わってくる時、朗読者こそが最大の至福を味わうことになる。…云々。

この指南書に基づいて、「仮面朗読会」をいずれ再現してみたいものだ。幾人かの同窓生の前座の後、いよいよ最後に先生の登場を待つ…。

E都川の橋の上で

さて、授業以外で先生のお姿を拝見したのは、私の場合、あの石の演壇に立たれた時だけなのだが、A君は、まるで小説のようにキクチ先生の後姿に遭遇する好機を得ている。

生徒会を動かすほどのキクチ忌避の動きが表面化した後、A君のクラスでは「最後の朗読会」が演じられたという。(以下は彼の記述の雑駁な要約にすぎない)

作品は『盲目のジェロニモとその兄』作者は、フロイトに影響を与えたと言われる19世紀末ウィーンのアルトゥール・シュニッツラー。

この最後の朗読が終わった時、女子生徒らが涙を拭う中、次の言葉に男子生徒らはゲラゲラと笑ったのだそうだ。
「私は、君たちに……愛を教えたのです」

その日の夕刻、強い雨が降る中、駅まで歩くA君は偶然、前を行くキクチ先生を見つける。斜めに差した傘と片手に抱える風呂敷包み。

先生の朗読会のおかげで本を読むようになったことについて一言お礼を言おうと近づいたその時、都川の橋の中程に立ち止まった先生の傘の下から風呂敷の紫の裾がひらめいた。

赤い蓋のポータブル・プレイヤーが濁流の中に放り込まれた。バシャーンと水面を打つ音にA君は橋の欄干から下を覗きこむ。箱状のプレイヤーはプカプカと流れて行く。キクチ先生は斜めにかしいだまま、駅の方に向かって歩いて行った。

A君は、東京湾に向かって流れていくプレイヤーと、去っていく先生の後姿との間でただ立ち尽くしていた。あの石の演壇に立たれての退任式は、その後のことだという。

≪続く≫

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 『苧菟と瑪耶(オットォとマヤ)』
正確に引用すれば、以下の通り。

「蓋をあけることは何らかの意味でひとつの解放だ。蓋のなかみをとりだすことよりも なかみを蔵(しま)っておく
ことの方が本来だと人はおもっているのだが、蓋にしてみればあけられた時の方がありのままの姿でなくてはならない。蓋の希(のぞ)みがそれをあけたとき迸(ほとば)しるだろう。」
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