8.幻の仮面朗読会・中篇
「B書写の時間

キクチ先生の朗読劇場は、『トニオ・クレーゲル』や『高瀬舟』は教科書の題材だったとしても、三島の『憂国』や、谷崎の『春琴抄』が教科書にあったとは思えない。

同期生のサイトによれば、クラスによって取り上げた作品が異なるように思えるが、一貫して三島・谷崎路線が中心だったことは、証言リストでも作成すれば一目瞭然のことだろう。

ともかく、現代国語の授業(国語は当時、現代国語・古文・漢文と三科目)でありながら、殆ど朗読を聴くだけでその感想を書かされた記憶がない。朗読の印象が強くて、感想文提出のことを覚えていないのだろうか?
舞台の俳優は自らの芸を表現することに最大の力を傾倒するのみで観客の感想を一々聞くことはないはずだが、丁度キクチ先生の朗読もそのようなものだったのかもしれない。先生は授業者であるよりは、一層表現者であったのだろうか。

中学3年の冬に水泳部へ入った経緯は前に述べた通りだが、いわゆる高校受験期に受験勉強の風潮を一切拒否していた私は(帰宅してみると机上にデンと受験参考書が置いてあったのは明らかに三者面談で実態を知った親のしわざだった)、高校には入学したものの、いわゆる自力でやる予習復習の習慣がないものだから、むしろ授業時間内の頭脳処理だけで完結するキクチ先生の時間は楽しみでありこそすれ、殊更不満はなかった。

だが、私の記憶では二年生になってだったろうか、例のポータブルプレイヤーのBGM付朗読よりも、小説の筆写の時間が多くなったように思う。
生来怠惰な私は、当時名文を筆写する文章鍛錬の意味など判らず、只々無意味な苦痛としか感じられなかった。

後で知ることになるのだが、キクチ先生ご自身の文藝鍛錬に最大限意を用いておられた頃であってみれば、授業に懸けるエネルギーは最小限に留めたいと思われていたとしても不思議はない。

高校一、二年生の拙い感想文を一々添削するような熱意は、表現者としての先生はお持ちでなかったかもしれないし、定期考査毎の評価を出すために書写ノート点検は、生徒への意義多く教師の手間が少ない格好の課題だったのかもしれない。

これも不思議なことに、キクチ先生の現代国語の試験問題が全く記憶にないのだ。三年の時のF崎先生の問題は覚えているのに・・・。試験と課題こそが、その教師の授業目標を窺う最大の窓だとすれば、キクチ先生の試験問題(の記憶)が残ってないことが悔やまれる。(どなたか同窓の諸氏お持ちならばお知らせ願いたい)

リベラルな校風であったC高ではあっても、キクチ先生のこの授業は、少なくとも大学入試に直結する授業ではなかったのだろう、(ブーイングが起こるクラスもあったとA君は報告する)
果たして教員間の齟齬を来たしたりすることはなかったのだろうか…。同じく教員の立場になってそういうことも思われる。

いずれにしろ、私が記憶する長らく続いた「書写」の題材は、私のクラスでは、これも谷崎の『瘋癲老人日記』だった。しかし、述べたように私は自分では意義を感じないこの作業を途中でやめた。定期的に提出を求められるノートも出さなかった。階段で呼び止められて提出するように言われた時も、一言、「書いてませんので」と答えた。

他の先生のように、その課題の意義など一言もおっしゃらず、ただ、「そうですか」といった程度の反応でしかなかったように思う。(A君ならば、この辺りのキクチ先生の反応も上手に活写される筈だ)

C壇上の"ECCE HOMO(見よ、この人だ)"

そんな流れで、キクチ先生の授業に対する私の関心も冷めていったように思われた二年生の終わり頃、あれは確か中庭での全校集会。

百周年行事を随分昔に行っているC高の建物は、当時、高台の上に建つクラシックな造形で、時計台が見下ろす中庭にスリッパのまま全校生徒が集まれるスペースがあった。正面には左右から登れる階段に続く石造りの演壇があり、突然そこにキクチ先生が立たれた。

周りのドヨメキの中、私はすぐに、先生が転任されることを悟った。クラスによって、生徒会まで動かそうとするキクチ排斥運動があったということは、同期会サイトのA君らの文章で初めて知ったのだが、「(キクチ)Q治が(あるクラスで)泣いたんだって」などという噂が情報に疎い私の耳にも入っていた。
「君達に私のことは理解してもらえないのです、って泣いたんだって…」

面白半分で受け取る諸君もいれば、中には下宿まで訪ねて行ったという崇拝者も居る中、飛び交う噂を私はむしろ特別の感慨もなく聞いていたような気がする。

ただ、その中庭の壇上に立ったキクチ先生の姿は、何故か総督ピラトの広場に立たれた方の出で立ちのようにも感じられた。

「大学院に行って文学の勉強をなさるため、定時制の高校に転任される」という司会の先生の説明があったように思う。なるほど、大学院に進まれるためのご自分の勉強で、授業の準備のお暇がなかったのか、或いは究極の文学修行を我々に課しておられたのか…。あの書写の授業の意味合いが、今納得できるように思う。

壇上のキクチ先生の肉声は、次の言葉だけが今でも耳に残っている。
「…では、これでキクチ劇場を閉じたいと思います…」

この最後の言葉に中庭の観客たちは、嘲笑や哄笑の響きも含んだどよめきにワッと湧いた。拍手や口笛もひとしきり鳴り止まなかった。先生の口元には、確かに例の微笑みが浮かんでいた。

≪続く≫ 
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