7.幻の仮面朗読会・前篇
「カーテンを閉めなさい。眼を閉じなさい…。」

風呂敷にくるまれたポータブル・プレイヤーがおもむろに開かれ、高校一年生の国語の授業は、キクチ・キュージ先生のそんな指示で始まった。

@紡錘形的美学

メガネによって一層強調される大きい瞳と濃い眉のフックラ紡錘形のお姿は、皆から「Q治」と称されるほどにキャラクターとしての完成度が高かった。青い髭剃り跡を白粉で塗りあげ、眼鏡を外して烏帽子狩衣など召されれば、
そのまま源氏物語絵巻の一部に納まる程に美しかっただろう…と今思う。

だから、C高のサイトに描かれた怪獣趣味の絵には大いに違和感を感ずる。(妖怪趣味ならば、まだしも…)
各々のレンズを通して見たものが互いに如何に虚像だったか、ということか。

教科書などは、ご自分のテーマに沿ったものだけを扱われ、そうでない教材も一貫して普遍的なテーマでまとめあげられた。後述の朗読劇場で取り扱われた主なテキストが三島・谷崎であったように、先生の主題は貴族趣味的耽美主義であったように思われた。

更にフロイトの深層心理分析のネットが、そのピッタリとポマードで撫でつけられた頭髪を覆っていた。

嵐の後に海岸を歩くと様々な物が打上げられている、というエッセイを教科書で読んだ後、「このように無意識の世界が時に真昼の意識をおびやかすのです…」とのお説。精神分析についての講義がひとくさりあった後、ポツリと曰く、

「『源氏物語』の中にエディプス・コンプレックスを指摘したのは、日本では私が最初なのです。」
そうして、いつものように、クスリと微笑まれるのであった。

芥川の『舞踏会』を教科書で読んだ時のこと。鹿鳴館で催される舞踏会に社交界デビューの令嬢明子が仏蘭西海軍将校と踊る場面がある。

この東洋の少女が、絵柄の付いた小さい陶器の碗から象牙の箸で飯粒を食べる情景を海軍将校は想像するのだった・・・という箇所で先生は質問された。

さて、この仏蘭西海軍将校の眼には少女の世界がどのようなものとして映ったのだろうね?

何名かの後に私が指名された。決して活発な授業参加者でもキクチ崇拝者でも排撃者でもなかった私はただ戸惑ってゴモゴモと答えた。
「童話のようだ、と思ったのかもしれません」

一瞬、間があった。
「君は、それをどこか他のクラスで聞いてきたのだか?」
「イエ、今考えたのですけど、どうしてですか?」
「いや、私もそのように他のクラスで説明したのです」

そう言って、やはり、クスリと微笑まれたのだが、私の胸には、いささかの屈辱感と、かすかな得意とが浮かんだ。

A「トニオ・クレーゲル」

さて、『トニオ・クレーゲル』である。けだし、キクチ先生の朗読劇場のトップメニューであろうと、聴衆の私は思う。
トマス・マンのこの短編は、この朗読によって終生忘れがたく聴衆の胸に刻まれてしまった。(だから、もう何十年も原作を読み返さずに、今もただあの朗読劇場の印象のみにて記そうと思う); 危険なことだ…

賢治の『銀河鉄道の夜』では、やはり落ちこぼれジョバンニが畏友カンパネルラに尊敬と友情を寄せるのだったが、その感情はぶきっちょなトニオが乗馬もダンスも得意なハンスに抱く気持ちとやや趣を異にする。

ひそかな憧れの美少女インゲボルグとハンスとは似合いのカップル。成人したトニオが二人に再び出会うのは、繰り広げられる舞踏会の場面。窓から覗き見る彼の眼差しに、似合いの二人の美しいダンスが展開する。
「ああ、君達はそれで良いのだ。その美しく健全な姿こそが、君達市民が求める世界なのだ」
トニオは自らの世界に向かって去っていく…。

あの風呂敷包みのプレイヤーが真に朗読BGMとして音楽を奏でたのは、私の耳には一回限り、成人したトニオが垣間見る舞踏会の場面のみ。
曲はシベリウスの「哀しいワルツ」であったように思う。           <*>

燃えさしに火が灯るようにして瀕死の病人が起き上がり、過ぎし日の思いに一人ワルツを踊り始める。老いた小町が今を忘れかつての華やぎに浸るような夢幻の憧憬。淡い夢が消えいくように、やがて病人はベッドに崩おれると…ベッドの足許には、いつしか死神が立ち現れている。

そういうストーリーを踏まえた「死の舞踏」のテーマが、用意周到に厳選されたBGMの効果的な演出と真に迫る朗読によって教室を満たした。舞踏会を見つめるトニオの眼差しに、いつの間にか私(たち)は同化していた。

溢れるような熱愛の思いを胸にしつつも、遥かに望むことが許されるだけの憧憬とやがて立ち現れる甘美な死。
少年の日に、このブレンドされた飲み物を口にした私(たち)は、一斉に「キクチ劇場」の洗礼を受けてしまったのではなかったろうか…。

≪続く≫

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シベリウスの「哀しいワルツ」

C高同期会サイトに「キクチ先生の思い出」としてA君が記した長大且つ緻密な「伝記」は、断片にしか接し得なかった者には驚嘆に値する。「A君の筆によってキクチ先生は『伝説』となった」と言われる所以だ。

ただ「都川に投げられた〇〇…」(後で引用させて貰いたいのだが)の辺りになると、私などには夢とも現ともつかない思いに捉われてしまう。(それだけ創作の手際とも思える優れた筆力が感じられるのだ)

ともかく、A君の文を読んでしまうと、私などにはもう何も付け足すことはないように思われるのだけれど、先に述べたように、私は私で一人の聴衆としての思いを、残された石片として細々と綴ってみようかと思う。

ところでそのA君の記述によれば、トニオが舞踏会を覗いている場面で流れたBGMは、「花のワルツ」(チャイコフスキーの『くるみ割り人形』)であったという。私の勘違いか、或いはクラスによってBGMを替えられたのだろうか?

<事務局注>
弊社に音楽にも詳しいものがいて、「哀しいワルツ」と「花のワルツ」の音楽が流れるサイトを見つけてもらい、聞き比べたが、伊藤は板見君の思い出の「哀しいワルツ」の方に軍配を上げたい。しかし、A君にしろ、板見君にしろ、当時の高校生が、この音楽は何であるかと認識できていたのには驚愕する。こんな同窓生と机を並べていたと考えると恐ろしいことでした。

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