6.幽霊のような自分の影
中学・高校の同窓会幹事であるT橋J君が早速メールを寄越してくれて、ヤソジ君の命日まで判明。

先日のヤソジ君について記した末尾の「ご両親の年を合わせた年の半分も・・・」は、私の計算違いだったようです。充分「半分」までは存命された由。でも、両方の年を足した年まで生きてほしいというのがご両親の願いだったろうに。

しかし、大物鯛を釣り上げるT君の腕には参った。かのM井先生を記したブログのラストシーンは、杳として行方が知れぬ雰囲気で終わったつもりだったのが、すぐに先生の現住所とメールアドレスを知らせてくれた。
恐るべし、釣師T君!  → 同窓の日々(その1)「釣り上げられた死滅回遊魚」 

又、英語のI井先生に関しても、卒業文集に寄稿して頂いた文章までスラスラと出てくるらしい。
曰く「人間とは孤独なものだ。たとえ誰かが深い愛情をもって接してくれても、私の痛みは私にしかわからない。
だから一人ひとりが強くならなくてはいけない・・・」

その後のT君の人生に刻まれたのでもあろうメッセージ。そうでもなければ、中学の英語の先生の名をフルネームで正確に書けたりはしない。

優秀な英語の先生というのは、必ずや文化の壁にぶち当たって自ずと自他の間の溝が見えておられたはずだろうし、真剣に異種原語の音韻の修得に励まれたのであれば、自ずと歌もお上手だったのだろう。T君が教わった歌は又別の歌だったようだ。

高校の英語の先生にも印象に残る先生方がおられた。本来システマティックに構成された数学は別として、単元構成と授業進度を明確に連絡共有して進む筈の英語では、担当教師同士のチーム連携が求められていたように思われる。
大学受験を意識した高校では、もはやI井先生が施して下さったあの松林でのようなオリエンテーションはなかった。

ところが、本物を示すことが最大の教育であることを知っている教師はやはり指先を示すのではなく、きちんと月を示してくれるものだ。ご当人が意識するにせよ、意識しないにせよ。

思うに、
三流の教師は覚え込ませようとする。
二流の教師は教え導こうとする。
一流の教師は、教えようなどとはしない。
 生徒自身が学びたくてしょうがないように刺激するのである。

生徒が何十年経っても覚えている教師とはそんな人たちのことだ。

A君の母校再訪の記事にあったように、懐かしい道を辿って行くと在校生自体は勿論、母校の教師自身が既に大半自分よりも若いのだ。

そんな年齢を重ねてみて、国語のキクチ先生初め、幾人かの先生方を思い出してみようと思う。そして同じ時を過ごした学窓の諸君との風景を見つめ直してみようかと思う。

それが今おそらく、いつの間にか同じく高校教師として禄を食む自分を見つめるその鏡を磨くことになるのだと思う。そして、その教師となるファクターがいつの間にかあの時代にあったとして、求めなくとも恐らく刺激を受けていたはずの交友関係の中に浮き沈みしていた幽霊のような自分自身の影を拾い集めることにもなろうと思う。

思い出を探ろうとする私の意欲は、今も昔も何やら朦朧として捉えがたい自分の影を掴んでみたいと思う手の動きだ。

彼らの姿だけがはっきりと私の眼に映っている。影のような私は一体どこに居たのだろう…。

国語のキクチQ治先生
物理のI葉先生
英語のM野先生
倫社のY部先生
地理のI瀬先生

同期の諸君の顔は沢山波間にたゆたう。第九のフレーズを賀状にしたためた音楽部のH田君。窓辺で神学談義を交わした聖書研究会のN台君。月下古都、柴の戸を叩き続けた(という)ダイブ・マスターI原君。

社研発表で文章の書けない僕らは芥川の読書会を課せられた。
ワンゲルなのに主催した文化祭フォークダンスに、女子高生は来たのだったか?
嗚呼、そして文化祭の後夜祭、校庭に燃え盛る焚き火の焔とスクラム…。

それらがただ懐かしいのではない。先生方、旧友、あれこれの情景、それらの対象から収斂するパースペクティヴの結ぼれる焦点に、おそらく「私」が居たのだ。
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