5.キクチ劇場という遺失石器 |
あれこれと痛ましいニュースの中に、「あの懐かしい先生」の思い出コーナーもある。 中でも「キクチ劇場」についてのコメントは単独でコーナーを設けるほどの盛況ぶり。 秘話めいたエピソードに、当時を共有する我々は一様に頷き、各々の記憶は各々に活性化する。 …嗚呼、しかし、T橋Y君の突然の報告で、湧き立つ思い出は一瞬にして凍りつく。それも既に7年前のことだったとは…。 キクチ先生の「朗読劇場」の顛末は、A君の筆力で確かに「伝説」と化し、幾人もの記憶補完者がその隙間を埋めようとする。 私の連想は、一つの石器に関するアリバイ証明の方向に泳いでいく。「キクチ劇場」の一観客としての自分自身の幾つかの思い出を述べる前にまずは、この連想について記しておきたいと思う。 市内、地下鉄南部の駅近くに「地底の森ミュージアム」がある。旧石器時代の地層にまで掘り下げられた一面のスペースそのものを地階のメイン展示場とするその空間は、そこに立つ者のイマジネーションを刺激する。 縦に垂直に降りていくことが、まるで時間をさかのぼるエレベータに乗った気持ちにさせるのだ。 沢山の倒木化石が縦横に並ぶその一角に、焚き火の跡があるとされている。鹿を追ってこの地を通過した旧石器人の一行がこの場所で休息したのだろうか。火を囲んだらしいその周りに石を欠いた切片が幾つか発見されているという。 特設のコーナーでは、その残った切片群を、欠いた順に積み重ねていく様がCGのアニメーションで展開する。 そうすると、その中心に一個の空隙が立ち現れてくる。 その空隙こそが、焚き火を立ち去る時に持ち去られた石器そのものの形というわけだ。私はそのCGアニメーションを何度も繰り返し眺めているうちに涙が出てくる思いに捉われたことがある。 捨て去られたものだけが残っていて、それを重ねることによって持ちされた実質の形が、空隙の形によって示される。ガランドウの空隙の形そのものが、最も大事な実質を示している。非在による存在の証明、非在証明、アリバイ…。 拾い集められた幾つもの断片を重ね合わせた後の、その残った空白部が、持ち去られた石器の形を指し示す…。そのイメージが、キクチ先生を口々に語るその様子に重なったような気がする。 私もまた、自分の胸の中に残った幾つかの切片のかけらをキクチ先生の去られた跡に捧げてみたいと思う。 ≪続く≫ |
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