4.アフリカ象とオルフェウス
C高同期会のホームページに記された幾つかの訃報の一つがS浦君だったことは前回記した。
他にも同期生の悲報が記されているが、人生途上に果てたご当人の辛さは当然のことながら、それを記す友人諸氏の思いが又、傷ましい。そして直接の付き合いのなかったこちらにまで、その悲哀の感触が伝わってくる。

ふと、アフリカ象が死んだ仲間に対する行動を記した本の記述が蘇った。ハンターに撃たれた仲間の死骸に土を被せる群の話、地面に置かれた仲間の骨に対して懐かしむような慈しむようなその行動…。 <*1>

医療の道に携わりつつも遂に自ら病に倒れたY君を追悼するF君H君の文章は、痛切に僕らの胸を撃つ。

中学高校と一緒だったS君は、令嬢をあの福知山線の事故で亡くしておられた。当日の錯綜する様子から事故後のJRとの対応、社会的な提言に至るまで、父親の眼で克明且つ切実な言葉が綴られている。

かつて高校に上がった頃だったか、朝、S君が近づいてきていわく、「君の夢を見たんだけど、それが何だったか思いだせないんだよ」
朝、会うなり、突然そんなことを言われても、私は返事のしようもなかったのだけど妙にその一場面が記憶に刻まれている。

死んだ仲間の頭蓋骨を牙で転がし続ける象たちの群、彼ら自身にも、どうしてよいか判らない衝動に突き動かされているのだろう。やむにやまれぬどうしようもなさ、もどかしさ…。
丁度、思い出しそうでいて、糸口を掴もうとするのに、フッと闇の奥に消えいく姿を追うもどかしさに、それは似ているのかも知れない。

頭の片隅では確かに掴んでいるのに、指の隙間から砂がこぼれるようにそれはつかめない。頭の中には在るのに、現実の手にはもはや絶対に掴み取ることができない。悲劇とは、本来そのようなものなのかもしれない。

亡き妻エウリディケを冥界に探し求めたオルフェウス。   <*2>
黄泉の国の王ハデスの了解を得て、一緒に地上に出ることを許される。オルフェウスの後ろに付き従って彼女は長い階段を上る。条件は、口を利いてはならぬ。地上に出る前に後ろを振り向いてはならぬ。
ようやく地上の明かりが見えた瞬間、オルフェウスは不安になった。ヒタヒタと後ろに響く足音は、本当に妻だろうか?もしや魔物か何かではないのだろうか…。
後一歩というところで振り向いた瞬間、妻はスーッと闇の奥に消えていく。嗚呼、もう少しの間約束を守って下されば又もう一度、一緒に暮らすことが出来たのに…。        

なにごとも、喪うことは哀しい。昨日も今日も目の前にある、金を出せば幾らでも買える。つまらないものは変わりなく目の前にあるというのに、あの大切なものが、何故、もう此の世にはないのだ・・・?!
取り戻せるかもしれないところを、再び失ったオルフェウスは更に哀しい。彼は大事なものを二度失ったことになる。

<*1>
"AMONG THE ELEPHANTS" Iain & Oria Douglas-Hamilton,1977

<*2>
「オルフェウスとエウリディケ」
この美しくも哀しいギリシャ神話のエピソードは、様々に映像化されているようですが、ガラス工芸家エミール・ガレの作品にも素晴らしく形象化されてます。

プーサンとモローの絵はこちら

そう言えばこの話、高校の時に英語の副読本で読みましたっけ。(トマス・ブルフィンチの『The Age of Fable (伝説の時代)』)
妻を二度失って地上に戻り、悲しみのあまり胸を叩くという表現がよく判りませんでした。悲しさの極みに西洋人は胸を叩くのだ、というI岡先生の説明に、何となく納得。
トラキアの女たちに引き裂かれるのも納得できなかったのだけど、彼の悲哀の深さはそうでもされなければ納まらなかったのかも。そのうち読み返してみよう。 

邦訳では野上弥生子が『伝説の時代』として訳しているのだけれど、(改訳『ギリシア・ローマ神話』岩波文庫)
その序文要請に対して漱石が書いた返事がとても心に沁みます。
とても序文を書ける立場ではない、という手紙がそのまま「序文」となっているところが面白い。
謙虚で正直な自己披瀝が、自ずと深く人を導く…、漱石はやはり最良の部類の教師だったのだと思う。
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