3.冬の水泳部、S浦君のこと |
M中卒業クラスの同級会が一昨日行われた由。県教委経由でアクセスしてくれたT橋J君から連絡あり、更にY本・Y崎両君とから詳細が伝わったのだけれど、生憎と土日が勤務校の文化祭。写真記録の担当でもあり、抜けることもままならない。 幹事のY崎君が出席名簿と一緒に卒業写真を添付メールしてくれ、メッセージを求められたので、PC画面で懐かしい顔々を眺めつつ一人一人に思い出を述べた。 中三の日々、周りで高校受験の雰囲気が高まってきた頃、部活に励んでいた諸君も受験体制を取り始めた。 入学時、色んな部活を見学に行ったのだけど、みな、大会のために頑張ってます、という調子で張り切っている様子。どうもソリが合わず、どこにも所属しなかったように思う。 運動自体決して嫌いでもなく、むしろ体育の先生からはバレー部へ誘われもしたのだったが、TVで見る男子バレーの1点取るたびに肩を叩き合っている様が何となく気恥ずかしく、それも断った。 いよいよ冬が来て、三年生で部活をやっている人影も見えなくなった頃、ふと窓の下を見ると、黙々と走っている連中がいる。水泳部だった。部長のS浦君に申し出て入部した。既に水に入る時期でもないので日々走り、プールサイドで筋トレに励んだ。 S浦君は部長としての責任もあったのか、受験期で誰もがやめていく部活に最後まで出て後輩達をリードしていた。その心意気も又私に響いていた。第一とっくにシーズンオフの、冬の水泳部なのに…。 彼を先頭に、例の松林を通って稲毛の方までマラソンコースを走った。その頃はまだ松林の下の国道は海に沿って東京湾を廻っていた。その後「体育の日」となった10月10日は、東京オリンピック開会式の日。最終聖火ランナーが点火したその火は、アテネの野の古代儀式にのっとりマリア・カラスが太陽光から採ったのではなかったろうか。 その聖火は全国を様々なルートで通過し、我がM中もそのルートの一部を担当することになり、早速運動部の部長達がメンバーを連ねた。ところが一人足りない。運動部統括の先生が言われたという。生徒会の議長やってるI見、あいつは走れるから彼を入れろ。 バレー部勧誘は断ったのだったが、この指示はすんなり受けた。かくして私は、S浦君達に混じって海沿いの国道を走ることになった。片手に小旗を掲げて走る(聖火自体は先頭の高校生か大学生)その練習が放課後何度も繰り返された。 掲げ持つ小旗は内心カッコ悪くて照れくさかったのだが、夕映えの稲毛海岸までの道を皆と走るのは心地よかった。私は自分の走法を色々工夫アレンジして、アスファルトの感触を楽しんだ。ところが走り終わると、後ろを走っていたS浦君が私に意見を言いにきた。 「君のステップは大股すぎるから、どうも後ろでリズムを取りにくいんだよね」 幼稚園に行かなかったので小学校の集団行動に馴染めなかった私の欠点が、部活動の集団訓練も体験しないまま、まだこんなところに現れてしまったのだ。海風を受けて走る心地よさに一人感じ入っていた中、後ろのS君はずっと不調和を感じつつ黙々と走っていたのだった。私は心から申し訳なく思って彼に詫びた。彼はあの特有の笑顔で、運動部仲間でもない私をすんなり受け入れてくれた。 冬の日にS浦君の水泳部に入部を申し出たのは、彼のそんな人間味に惹かれてのことでもあったのかもしれない。 そもそも彼と、体育の組体操か何かでペアを組んだときだったか、話をするのはその時が初めてだった。「八十二」と書いて誰も読めなかった名前を私が正確に呼んだので彼は驚いた様子。 「何で知ってるの?」 「君が生まれた時、お父さんとお母さんの年を足して82だったんでしょう?」 「…そうだけど、何で知ってるの?」 「山本五十六がそうだったってことを本で読んだことあるから、多分そうかなって思った。」 高校に上がってからも水泳部を続けていた彼は、今卒業アルバムを開くとプールサイドで静かに微笑んでいる。 その彼の笑顔を、しかし僕らはもう見ることはできない。今回、C高の同期会のホームページに誘われて、まず眼に入ったのは幾つかの訃報だった。その中の一篇として、T橋J君が「ヤソジ、激走」という追悼文を掲載していた。 精密な記憶によるT橋君のルポは、中二の時に、かの水泳部が創設されたこと、その水泳部で鍛えた体力は、市内中学駅伝の力走を頂点に、見事劇的に発揮されたこと・・・等々をリアルに再現してくれていた。 だから、なおのこと、彼が20台で癌を患い遂に逝ってしまう様が哀しい。一緒に呑む場面をT橋君が描写する中に、S浦君の言葉がある。 「人間には舞台で演じるヤツと客席で観るヤツがいるんだけど、俺は観る方だ」 どちらかというと陽性に思えた彼が、そんなことを言っていたというのが意外に思えたのだけれど、或いは病を得てからのことだったのだろうか。 とにかく、今に到って東京オリンピックの内容は殆ど記憶にないのだが、黄昏時、東京湾に面した海岸を一緒に走ったS浦君のことは忘れない。リズムに合わない私の足許を、彼は黙って見つめてくれていたのだった。 しかし八十二君、君の激走をコメントする立場ではないのだけど、君は余りに突っ走りすぎたようだと僕は思う。 君が生まれた時のお母さんとお父さんの年を合わせたその半分にも満たず、 <*>君は逝ってしまったではないか…。 <*> (11/6付記) T橋J君からメールを頂き、命日を教えてもらいました。三年前の初夏だったのですね。 ヤソジ君、すまん!計算が苦手でリズムを踏み外す私は、また君に叱られそうだ…。 |
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