2.M中、I井先生とM井先生 |
小学校以来の転校と、更に学生時代以降10数回の転居のため、あちこちで音信不通を重ねているせいもあって、これまで同窓会と名のつく会合に出席したことは殆どない。 小5の時九州から東京に転校した先のM井第三小の友人達が卒業間近に千葉へ転校した私のことを覚えてくれていたため、高校入学時に学校訪問、それに卒業後に一度クラス会に招かれた。 千葉ではY台小・N戸小へ転校後、M町中、更にC高へ。 M井小の友人達が遊びに来てくれたのはM町中1年の夏だったか…まだ土地感もない頃、「千葉海岸」という名の海水浴場に案内したが、皆と泳ぐ海の色がコカコーラのようだった。せっかく来てくれたのに、と子供心に申し訳なく感じた。(その後何年かするうち、埋め立てが進行し「海岸」は遠く沖合いに達し、かの駅名も変更のやむなきに到ったのではなかったろうか…) 自宅の二階の窓から千葉大の正門が見えた。元旦の朝、交通量のない車道を千葉大乗馬部の学生達が優雅に馬を走らせていた。先頭の白馬の女性が美しかった。当時仮性近視の中学生は、女性の美しさが単体としての容姿ではないことを既に知っていた。(女性美についての思春期の見解レポートは別途、機会があるかも) 京成電鉄の線路を横切って徒歩10分のM中へ通学するのだが、C高へ通うようになって利用する黒砂駅は、その後やはり駅名を緑台駅とかに替えられてしまった。駅名すら変わっていく中で、名簿にとどめた名前を自分のも他人のも意識することは、ほとんど無かったように思う。 同窓会名簿の方からも、私の名前は空白のまま忘れられていったのだろう。ただ、振り返ってみると、忘れがたい方々の記憶が蘇ってくる。あれこれ記憶の齟齬があることはお許し頂くとして、それらをポツリポツリと書き記していこうかと思う。 さて、M中に入学して最初の英語の授業、担当はI井先生。買ったばかりの辞書と真っさらの教科書・ノートを机上に緊張していると、「さあ、机の上はそのままでよいから、皆、外に出なさい。」何事かと皆手ぶらでゾロゾロ先生の後をついて行く。 学校から歩いて5分ほどの松林の中の陽だまりの草地に先生を中心に僕らは車座に座った。先生は幾つかの英語の歌を歌って下さった。私は今でも、その松の林を吹き抜ける風の様子と中一の幼い顔々、そしてI井先生のにこやかなお顔とその歌声をはっきり覚えている。 "Row, row, row your boat,Gently down the stream.Merrily, merrily, merrily, merrily,Life is but a dream..." その後の授業で、この"but"が "only"の意味だと知った。 まことに今思えば、人生、ただ夢にすぎざるがごとし…である。あの中一の松林の風以来、僕らはどれだけの流れを漕いできたのだろうか。 クリスティーナ・ロセッティの詩だったか、テキストを暗誦する宿題に誰も手を挙げようとしなかった僕らは、明らかにI井先生の機嫌を損ねたらしい。「じゃしょうがない。俺は帰るよ」職員室まで先生を呼びに行ったのは、T橋Y君だったか私だったか。 I井先生は「サイモンとガーファンクル」のポール・サイモンのような髪型、教室に入ってくるなり、難しい顔をしたままベラベラ…と英語でまくし立てる。そうして片手で額から下にスッと撫でると、その怖い表情が一転して柔和に変化し、授業が始まる。 後年、映画『大魔神』の変身の場面で、私はI先生のこの顔変化を想起した。もちろん、柔和な顔への変身だけしか僕らは知らなかったのだけど。 M中1年の担任はM井先生。理科の先生でサッカーがとてもお上手だった。そのボールさばきに僕らは感嘆した。理科の時間、先生が質問された。50度の温水と100度の熱湯を混ぜる。さて何度になるか? 端から皆、75度と答える中、数列の生徒が立ち尽くした後にH野Kn君が「50度と100度の間」と正解した。 M先生が解説された。「各々どれだけの量であるかを私は言わなかった。ものごとには条件というものがある。憶測で判断してはいけない。」 後年、千葉を離れて地方都市の高校教師となっていた私の所属学年に一人の転校生があった。関係書類に眼を通しているうち、保護者代理の方の氏名にハッとした。それは確かにあのM先生のお名前であり、昔年賀状で熟知していた筆跡だった。果たして、会議室でお眼にかかったその方はM先生だった。 突然の邂逅で、言葉も探れない私に先生は言われた。「そうですか、I見君ですか。確かに面影が残っている…」 頂戴した名刺の肩書きには、キリスト教のある宗派の名前が記してあった。 歩いてそう遠くもない坂道のお宅をその後訪問したところ、既に転居されているようだった。その転校生も再び転出していたのだった。 |
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