千葉高創立百周年記念写真集より堀江正章「富士山」 |
熊野君から、「千葉高の創立百周年の時に発刊された「創立百周年記念写真集」(昭和53年11月1日)があるが、同期会の方でいらなければ捨てる」との連絡があり、もらってきました。
中身は千葉中時代からの沿革を記し、あとは写真集として校舎、地図、学校生活などの写真が中心です。旧校舎の写真はHPで多く紹介してますので、今回は、この写真集の冒頭にカラーで掲載してあった校宝の堀江正章先生の「富士山」の油彩の写真を紹介します。
校宝 堀江正章「富士山」 |
堀江正章先生は知られておりませんが、安政年間に長野県松本藩士として生まれ、黒田清輝の帰国前から、 外光派の明るい絵を描いていて、彼の教え子からは岡田三郎助、藤島武二、和田英作などを輩出している。明治30年から74歳で亡くなるまで、千葉中の教師を勤める。教員資格を持たずに嘱託教師のままであり、周囲から教員試験を受けるように勧められたが、「試験は誰がやる」と答えたようで、自分の教え子が試験官ということに馬鹿らしさを感じたのでしょう。武士の誇りを感じます。
作品としても、大川美術館(個人コレクターで松本竣介を広く知らしめた具眼の大川栄二氏が桐生に開設した美術館)にも作品は収蔵されているほどで、識者からは高く評価されています。
大川美術館所蔵作品の「静物(果物)」の作品紹介に記されている内容をそのまま引用します。
「松本(長野)に生まれ、20歳までは理科を
目指したが、上京後父母への土産に油絵で江戸の景色をと考え、習い始めたのが画家転向の契機となる。工部美術学校にてサン・ジョヴァンニ
に師事。イタリア風の明るい画風を身につける。
卒業成績第1位で、その作品をサン・ジョヴァンニがイタリアに持ち帰った程である。その後曽山幸彦とともに大幸館塾を創立し、曽山の死後塾長として数々の俊秀を育てた。和田英作、三宅克己、岡田三郎助、中沢弘光、矢崎千代二、藤島武二等々が輩出した。
曽山、堀江の教育は墨画で少女を描きながら唇が赤くみえねば駄目とし、特に堀江は「コバルト先生」
と呼ばれ三原色(赤・青・黄)の原理で色彩上の陰影を教え、黒田清輝がヨーロッパより外光派をもたらす前に同様の絵を描いていたことは驚くべきことで、
岡田三郎助が黒田門下に入り印象派の油彩画を習った折、よく呑み込めたのは堀江先生のお陰だと語っている。
40歳を前にして千葉中学教師となり、そのまま死ぬまで千葉を離れなかった。
この絵(「静物(果物)」)は大正が終わってすぐの作品で千葉で描いたもの だが、堀江は千葉ではほとんど絵を描かず、頼まれて止むなく描く肖像画ばかりであり、この静物は珍しい。
明るい正確な筆致で画品もあるだけに古さが感ぜられず、真面目な堀江らしい作品である。(『大川美術館』102の解説より)
日本で初めてこのような明るい洋画を画いたことで評価されている。加えて画品があると評価されている。
この「富士山」も、上記評にあるように一言で言えば気品がある明るい絵。
この「富士山」も気品があって、明るい絵で、明治初年とは思えない。 富士山の冠雪具合と、海の色の感じから春と思いますが、富士の下 の丹沢山塊は茶色の濃淡を微妙に塗り分けており、緑が無い時期 なのでしょうか。 富士の「静」に対比させた、波の「動」。富士山の不動を強調している ように見えますが、波は波で生きた筆致であり、富士山の引き立て役 では終わっていない印象を持ちます。 論語に「智者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむ」とありますが、その ような寓意を込めているのでしょうか。 あるいは当時の千葉中生に「父母の恩は山よりも高く、海よりも深い」 と教えたのでしょうか。 伊藤が、こんなことを思うのも画品があるからです。 |