「朗読の美学」抜粋(菊地久治先生著)

奥山君が見つけてくれた「千葉高校図書館報41号」(S42.3.14発行)に掲載されているQ治先生の「朗読の美学」からの抜粋です。

朗読の精神、考え方の箇所ではなく、朗読のスタイルについて書かれた所を抜粋しました。

「」で引用してあるのが原文です。段落等はネットの読みやすさを加味して変えておりますが、先生に叱られるかもしれません。


 朗読の美学

菊地久治

「文学作品の朗読という試みは日本ではそれほど行われることが少ない。詩の朗読会は時々あるようですが、小説の朗読会というのはあまり耳にしません。ところが西洋などでは、散文の朗読も決して珍しいことではないようです。」

と書き出して、ゴンチャロフ、トオマス・マンが自作の朗読を好んでいたことを紹介しています。そして、日本のソノシートで聴く自作朗読は原作のよりよき鑑賞を高めてはいないと批判し、またアナウンサー、俳優の朗読も違うと続けていく。そして朗読のポイントは自己の個性のもとに受け取って再現しうる人間理解の深さが大切と書いている。

次ぎにどのような作品を対象として選ぶべきかを述べ、40〜50分で読み終える短編、ある劇的瞬間をもった作品、はげしい緊張を秘めている作品が望ましいと書かれている。また、一部に会話が挿入されていて、一人称形式が良いとも書いている。一方、登場人物が複雑な関係のものは避けた方がいいし、文学的表現は聴いてわかる言葉に置き換えてもいいと書かれています。
最後に、次のような朗読のスタイルを提示されております。これが懐かしい。


「私は朗読会が開かれる理想的な環境というものを空想します。
会場は全き静寂と適度の暗さが支配しています。スポットの光を浴びて黒マントをすそ長にひきずりながら、朗読者が舞台に登場して恭々しく一礼すると、聴衆は拍手をもって彼を迎えます。
朗読者は黒い半仮面をつけていて表情を見せない。やがて朗読者から光が外れ作品を象徴すべき机上の花束とか能面とかが青白い照明にとらえられて、闇のなかに浮かんでいます。朗読者には少なくとも、聴衆は闇の底に沈んで見えないのがよい。これらのことはすべて日本の音楽会の厳かな雰囲気に準ずるものであってそれほど奇異なものではないでしょう。
効果としての音響はあってもいいでしょう。しかし擬音などはなるべく一種か二種に制限されるべきですし、音楽はごく微かに、朗読のある部分に限って用いられるべきです。つまり単一なる効果を損なわないように最小限度の簡潔さを忘れてはなりません。
朗読の成否は、他ならぬ朗読者にもっともよく分かるものです。
朗読のさなかの聴衆の沈黙の質、読了終了直後の会場の陶酔の深さによって、それは手にとるように測られます。すべてはこの最後の余韻のためにあったのです。プロレスラーの試合前の節制にも比すべき朗読者の声調の吟味を、感情の平静さを保つ努力を、聴衆は知るべくもない。朗読者をとらえる至福とは、その成功を確かめた時の世界征服の実感なのであり、したがって第二の創造のよろこびにほかなりません。」(昭和42年1月31日記「千葉高校図書館報 第41号 昭和42年3月14日発行より)


菊地久治先生の思い出に戻る

掲示板に戻る