15.I葉先生の思い出(その3)「暗い山の絵」
CU君の停学

中学から一緒だったU君がしばらく学校を休んだ。どうしたんだろうと思っていたら、噂では停学だとか言う話だ。
「停学」という言葉にも、なじみがない。何のことか判らなかった。

情報通の誰かが教えてくれた。街中でU君、タバコを吸っていたらしい。そこに I 葉先生が通りかかった。U君、思わずタバコを捨ててお辞儀をした。その正直さが仇になったのだ。見逃してくれる先生でなかったのも、彼の不運だった。

D遅れてきた女子

50人のクラスに5、6人の女子生徒。物理の授業が始まり、一人の女子が遅れて教室に入ってきた。

おもむろに I 葉先生曰く、「いいかね、男子諸君。女性が遅れて入ってきても、紳士たるもの、その理由を聞いたりしてはいけないのだよ。」
遅れてきた女子は赤くなって席に着いた。
I 葉先生、今おっしゃる話ではないでしょう…
と申し上げたかった。

Eいなばの露

I 葉先生は学校まで毎朝お嬢さんと並んで歩いておられた。1級(か2級)上の女子先輩で我々後輩男子までにも人気ある美貌の才媛、そのお名前を「露(つゆ)」と聞き知って、さすが I 葉先生、と皆うなった。古典の授業で『徒然草』の十六段を学んだばかりだったのだ。月明かりの下、笛を奏でつつ「稲葉の露」に濡れそぼち歩む貴公子の描写が、毎朝のお二人の姿に妙にダブって今も蘇る。

ただ、鉄壁にガードされた美貌の令嬢に近付き得た貴公子がその後現れたのかどうか、我々後輩の知るところではない。

F公害訴訟の先頭に

県庁の下をくぐって登校する毎日、脇を流れるのは川というよりは、コンクリートに囲まれた澱んだ運河。その流れに魚が居たということがニュースになるほどだった。下校の黄昏時、彼方にはK製鉄の赤黒い火がボワーッと揺らいでいた。

C高卒業後、当地に至ってどれほど経った頃だろうか、地元TVの全国版ニュースに、何と I 葉先生のお顔。K鉄公害訴訟原告団の代表として活動しておられたのだった。 <*>

潔癖にしてかつ情味ある先生の学問は、物理室の中だけには留まり得なかったのだ、としみじみ画面を眺めながら思った。

そういえば、先生の担任なさる教室の一番後ろには、先生ご自筆の山の絵が飾ってあった。あれは一体どこの山並みだったのだろう…。横長の暗い画面だったことを、うっすら覚えている。

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検索してみたら、都留重人・宇井純・戒能通孝らが関わった『公害研究』の第2巻第1号(1972年7月)の特集に「千葉市における大気汚染」という題で先生の論文が掲載されている。創刊30年を期して改題CD−ROM版が出ている由。
「『環境と公害』創刊30周年記念CD-ROMアーカイブ」(2002岩波書店)
(第1巻第1号〜第30巻第4号の全ての論文・記事を収録)

この論文の書かれた72年前後の千葉県の公害問題と先生の関わりをざっとチェックしてみたら、以下のような記述が垣間見えた。もとより、三里塚の大地は当時大きく揺らいでいた。千葉県、ないし全国規模で赤黒い火が燻っていたのだった。
  • 1950年、国土総合開発法制定、千葉県企業誘致対策本部設置。
  • 51年、千葉港湾計画決定。千葉市に川崎千葉製鉄所埋め立て開始。
  • 53年、内湾埋め立てに反対し、千葉市の漁民が県庁へ抗議。
  • 59年、川鉄の「赤い煙」問題、市議会で公害追及。
  • 62年、「赤い煙」粉塵被害再発で、住民が県へ陳情。以後、ガス・大気汚染防止の陳情が続く。
  • 67年、川鉄の煤塵へ住民抗議。
  • 68年、大気汚染防止法施行。千葉市の降下煤塵、東京並に。千葉県公害研究所設立、県医師会も公害調査へ。
  • 71年、千葉県下初の光化学スモッグ注意報発令。
  • 72年、「房総の自然を守る会」等、県内の反公害・自然保護11団体が参加し、「千葉県住民運動連絡会」が発足。代表に稲葉正他数名。
  • 73年、連絡会による出版「千葉県の環境破壊と住民運動」(住民サイドの公害白書とも言うべき資料とされる)以後、「連絡会」は70年代の県下住民運動のセンター的活動を担う。
  • 75年、「千葉市から公害をなくす会」を中心に「川鉄あおぞら裁判」が提起され、この闘いは全県運動の戦略的重点として位置づけられる。千葉川鉄公害訴訟原告団結成(団長稲葉正)、第一次提訴。以後、口頭弁論は73回に及ぶ。
  • 88年、千葉地裁、川鉄公害訴訟で原告勝訴の判決。
  • 92年、劇的な展開の後、東京高裁にて和解成立。
以上、『私たちの青空裁判〜千葉川鉄公害訴訟のあゆみ〜』(1994光陽出版)の年表等を参照した。
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