”芸術家と市民”ー菊地久治先生の思い出ー

佐久間 憲子

はじめに

Aさんの力作ありがとうございました。あの時代の色と風が濃く思い出されて、劣等感と違和感を不安感いっぱいだった高校生の気分にすっかり戻ってしまいました。

本当に立派な作品であり、まさにQ治カラーであり、声まで聞こえてきます。
都川(正しくは葭川のはず)にポータブルプレイヤーを放り投げる場面など、まるでその現場に立ち会っていたように錯覚してしまいます。

先日も、仁子さんや3年A組仲間ともその話題で盛り上がりました。
Aさんの作品に刺激を受けて自分自身の記憶が呼び起こされた部分と、本来は体験していないにもかかわらず、Aさんの作品にあるがゆえに、そのような気にもなっている箇所などで、正直なところ混乱していますが、私の菊地Q治先生の思い出も記してみます。

  

1.朗読を筆写する授業

  

Q治先生の朗読会の一番はじめは確か先生の朗読をノートに書き写すということからはじまったように覚えています。

どんな話だったのは忘れてしまったのですが、三島作品であると教えられたことと、「くらげ」は「水母」、「せがき」は「施餓鬼」という漢字が当たるのだと知ったことだけは思い出せます。2年生のときでした。

(伊藤注.これが渡邊章君が思い出し、仁子さんが見つけ出した『施餓鬼舟』であり、原文を読むと「水母を雲丹で和えたのを」という箇所があり、佐久間さんの記憶にも驚きました。また「水母」、「雲丹」、「和える」などを書き取らせる授業レベルには今でもついていけないです。)

何組だったのか思い出せないのですが、2年生のときにはQ治先生がクラス担任でした。

(伊藤注.B組で私も山本渡君も同級生でした。)

2.「芸術家=菊地先生」と「市民=生徒」

  

私は朗読会についてはとても楽しみにしていたのですが、「君ら市民には私のような芸術家の悲しみがわからないのだよ」という先生のくり返しの断言には若気の至りでいつも反発する気持ちでいっぱいでした。

それというのもAさん同様、読書への目覚めというか、朗読会に感化されて、その原作を読んでみると自分で文字を追っているにもかかわらず、読後には先生の声と、それを聞いたときに見えてしまった頭の中の映像ばかりが強く残ってしまうからです。
後に角川映画で「見てから読むか、読んでから見るか」というコピー文句がありましたが、思い込みが激しい私にとって、これはなかなかつらいことでした。

最後の朗読会は三島の「憂国」だったと思います。これが最後だと告げられたのかどうかも覚えていませんが、「高校の授業時間にこのような小説で大丈夫かなあ」といらぬ心配もし、来るところまで来てしまった事態にも不安を感じました。

Aさんの話でそういうことが背景にあったのかと思い至ると同時に、当時、菊地先生排斥の噂を聞いていたような気もしています。

たぶんそんな時だったのでしょう。あるホームルームの時間に先生は「私に不満があるのだったらそれを書いておくれ」とワラ半紙をみんなに配りました。記名でも匿名でも可、書きたくない人はそれでもよい、ということでした。
20分足らずのホームルームの時間にみんな熱心に、なにか書いている、と私は思ったのです。

私はもちろん記名で、「市民にも悲しみはある。芸術家が自分の悲しみを市民に理解できないと思うのは不遜である」とか書いたような気がします。

ハッとしたのは用紙の回収のときでした。白紙らしきものが混ざっているのが見えました。周囲のクラスメイトに聞いてみると何も書かずに白紙で提出した人がなんと大勢いたのです。でも私はたいへんお気楽者ですので、たいして気にもしないで毎日を過ごしていました。

それから3〜4日たったある夕方、私の自宅の電話が鳴りました。Q治先生からでした。
どんな話だったのか覚えていないのが残念ですが、とてもドキドキしてしまいました。
「菊地だが、君の意見は聞いておく。とにかく意見を書いたのは君だけだったのだ。ありがとう。勉強をがんばりなさい」そんなことだったと思います。

  

3.菊地先生の占い

  

その後日談として修学旅行の帰りの夜行列車内での話があります。
クラスの生徒一人ずつがボックスに呼ばれて「君の未来を占ってあげよう」と先生に言われました。

私には「市民として、幸せに明るく良い家庭人になるだろう。そして今よりきっときれいになるよ」なんておっしゃいました。もっと辛辣な言葉を想像していたので、やっぱり先生とは判かりあえなかったのかと、すこし悲しかったです。あるいはお世辞のような言葉は先生には似つかわしくないと思ったから悲しかったのかもしれません。

(伊藤注.山本渡君も落書き帳に書いてくれています。高橋純一君も言われた内容は覚えており、伊藤もこんなことがあったことは覚えておりますが内容は覚えておりません。印象に残ったエピソードです。)

 

おわりに

  

先生のお別れの言葉を聞いた記憶はありません。聞いていたのかもしれませんが、もしAさんの書かれたようなことでしたら、あの頃の私には不愉快に思えて記憶から抹殺してしまったのでしょうか。

高校生活はクラブ活動以外のことはほとんど忘れてしまいましたが、今回のこのおかげで他のことも少しは思い出せるようになりました。あの年頃ではお互いに無関心を装っていたような所もあり、素直じゃなかったのが、人生も半ばを過ぎ、今、共通の話題としてこんなに語り合える仲間がいることをうれしく思いました。

Aさん、どうもありがとうございます。まだまだ反響は続いているのでしょうか。皆さんが熱く語ってくれるのはうれしいですね。
本当にありがとうございました。

  

(追伸)ー「施餓鬼舟」を読んでー

  

いま仁子さんからFAXが入りました。
先日、ノートに書いたことを話していたのですが、なんと「施餓鬼舟」を見つけてくれました。すばらしい探求力です。

早速読みました。間違いありません。やはりテーマは"芸術家と市民の相容れることのない、わかりあえない悲しさ"でしたね。

ことのついでと言っては何ですがせっかくですから「Q治先生を語る会」はいかがでしょうか。改めてご連絡いたします。

       


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