向きあう日々
榊原信行
娘、怜子が去年の四月二十五日JR福知山線の事故に会ってから、もう十六ヶ月が経ってしまいました。深い悲しみは薄れることはなく、無情に月日は経っていきます。
娘の逝去に対し、皆様より戴きましたお心遣いが、どんなにか私の心に励ましと慰めになったか、改めて御礼申し上げます。
怜子は、私の転勤に伴い、一九八七年二月に埼玉県浦和市で生まれ、幼児期を愛知県名古屋市で過ごし、千葉県千葉市稲毛であやめ台第二幼稚園、宮野木小学校に通いました。兵庫県宝塚市にて山手台中学、宝塚西高校、そして去年の四月に同志社大学社会学部メディア学科に入学いたしました。
中学、高校とバスケットボール部で活動し、大学でもバスケットボールのサークルに所属していた、活発で利発な子でした。水泳は六年、ピアノも十年ほど習い、漫画はとても上手に描くことができました。何事も楽しく、でも一生懸命に取組む子でした。将来は雑誌の編集者になりたいと言っておりました。
十八年間の人生を一生懸命生き、その間にできた多くの友人達が怜子の死に対して弔意を表して下さいました。沢山の友人に惜しまれた怜子は、間違いなくその方々の心の中に生き続けていくと思います。死んだ人その人の形は無になり、何もなく、感覚も無く、悲しくも苦しくもないのでしょうが、残されたものはたまらなくつらく苦しいのです。
怜子自身はもう就職の苦しみも失恋の苦しみも無い代わりに、恋愛の喜び、結婚の喜び、出産の喜びも味わえないのがかわいそうです。
怜子は我々に宿題を出し、又、解答を出していったと思うのです。一つ目の宿題はよく生きるとはどういうことか、二つめは安全とは何か、三つめは報道、マスコミとは一体何か、ということです。
一つめの、よく生きるということは、怜子の生き様がその一つの解答なのだろうと思います。怜子の人生は18年でしたが、司式を引き受けてくださった同志社大学神学部長の森先生は告別式で、人生はその時間の長さだけではないと話して下さいました。怜子の人生にはどういう意味があるのでしょうか?
怜子の高校の友達からのメッセージをみて、一つ分かったことがあります。"怜子はいつも頑張っていた、辛くても笑っていて、その笑顔をみると元気が出たよ。これからは怜子のように頑張って生きるからね。"と。
怜子は死にましたが、友人の中にしっかりと生きていて、力となっている、これが怜子の人生の証しのひとつだと思えました。
二つめの安全に関してですが、運転手は何故あれほどのスピードを出したのか、簡単に脱線する列車、線路の構造的欠陥、スピードに対してのATSの問題をどう解いていくかということでしょう。
三つめのメディアの問題ですが、おそらく怜子は社会に出て、この問題に挑戦したかったのでしょう。メディア、即ち新聞の紙面の面積、テレビの時間等の制限、限界により表現のできない沢山の事実がうずもれてしまう等の問題点をどう解決するのかということです。
以上三つしか今の所考えられませんが、他にも沢山あるのだと思います。我々家族も含め、関係する人々が、この出来事、宿題をどうとらえ、どう考えていくか、どう発展させていくかによって今後の生き方が変わるのではないかと思います。
怜子はとても明るい子でした。だから深刻にならず明るく楽しく考えていって欲しいと願うと思います。
我々家族は、それぞれ怜子の分を分かち合って、苦しみ喜びを怜子の分として体験していくことで心が救われる様な気がします。死んだ人の分まで背負うと捉えることにより自分の気持ちが楽になります。近くの死の体験により生きることがより深くなるということはこういうことなのでしょう、つまりは自分の為に自分の気持ちを楽にする為にこう考えるということなのでしょうか。
喪の回復過程に受容という概念があり、その概念が今申し述べたことなのかなと思います。喪の回復過程とは、@ショックA否認B怒りC回想と抑鬱D受容E再生、だそうです。私はCかDかその辺をうろうろしているところでしょうか。会社員ですから仕事中は娘のことは考えませんが、一人の時は必ず考えます。朝起きて寝るまで、毎日、一人の時は娘を思います。まだまだ気持ちの落ち着き場所がわかりません。毎日が手探り状況です。
残された我々家族は怜子のまじめに一生懸命生きてきた姿に恥じることの無い様、生きていかなければならないと思っております。