あの時を忘れない
 −1995年冬、神戸にて−


奥山 悦男

 

 1995年(平成7年)1月17日の阪神淡路大震災から8年の歳月が経ちました。神戸・芦屋・西宮の表通りを歩くと、あの時の悲惨な出来事を思い浮かべるものは何も無く、新しい都会的なビルが立ち並び、新しいしゃれた住宅の街並みになっています。でも、あの大地震を体験した者にとって、死ぬまで忘れることのできない出来事なのです。そして、私の人生の岐路になったことを。高校同期のK君編集「医心傅心」をI君から毎年頂く度に、あの大震災のことを思い出すのです。 

1.前日(1月16日)

 当時、私の職場は神戸市兵庫区にありました。1月16日は休日でしたが、職場へ行って、データ解析をしていました。吹田市からの行き帰りの電車の中で、I君から頂いた「医心傅心」を読んでいました。読み疲れて、フト電車の車窓からの神戸の街並みを見ていました。翌日、未曾有の大地震に襲われ、その街並みが壊滅状態になるなんて誰が想像できたでしょうか。その夜は、家族で大阪・京橋の焼肉屋に行き、平凡な家庭の平凡な一日が終わろうとしていました。3人の子供達は各自自分の部屋で寝るのですが、その夜に限って、当時小学校6年の次女は食べ疲れたのか、弟の部屋で寝ました。そのことが、次女の命を救うことになったのでした。 

2.当日(1月17日)

 早朝、ゴーといううなり声のような地響きの音で目が覚めました。小さな揺れを感じました。暗闇の中で条件反射的に起き上がり、横で寝ている妻の枕許のタンスを押さえました。突然ドドーンという轟音と、下から突き上げるような衝撃、激しい大きな揺れが来ました。立つことができません。食器が落ちて割れる音がする。本が落ちる。テレビが落ちる。蛍光灯が落ちる。多少のことでは驚かない歳になっていましたが、この時は死ぬかと思いました。マンションの天井が崩れたり、床が抜けたらどうしようか。それよりも、マンションが倒壊したらどうしようか。幸い、マンションは無事でした。家族の無事も確認できました。家の被害を調べました。次女の部屋のタンスが倒れ、大きな重い蛍光灯が落ちていました。娘がその部屋で寝ていたら、頭を直撃されるところでした。テレビを基の位置に戻し、何とか映るようにし、ニュースを付けました。TVは大きな地震が関西で起きたことを言っていますが、震源地を確定していません。京都のお寺の灯篭が倒れた程度の被害しか言っていません。そのうち7時のニュースで、震源地が確定され、神戸・阪神地域でかなり大きな被害がでていること。鉄道がすべて不通であることを知りました。そして、ヘリコプターからの実況中継に目を見張りました。高速道路の崩壊、至るところでの大きな火災。

 その日の通勤を諦め、その日は家の後始末に専念しました。壊れた食器や蛍光灯の整理、カーペットに食い込んだガラス破片の回収etc。

 当時、私はマンションの管理組合理事をしていました。全世帯の被害状況を調べました。1階はほとんど被害は無く、一番高い14階はほとんどの家のタンスが倒れていました。私が住む9階はタンスの倒れはほとんど無く、食器・本が棚から落ちた程度の被害でした。人身事故はありませんでした。その日からゴミ捨て場は割れた食器、壷などの瀬戸物・陶器で一杯でした。 

3.翌日(1月18日)

 車で神戸へは行けないと判断し、朝6時に、暗い中を、吹田市の家から自転車で兵庫区の職場へ向って家を出ました。学生時代には北海道内をくまなくサイクリングし、社会人になってからも普段の休日は自転車であちこち走り回っていますが、神戸の職場までの直線距離40kmなんて初めてです。実際の道のりは倍近いでしょう。体力的に大丈夫だろうかという不安と、通れる道があるだろうかという不安で一杯でしたが、とにかく行けるところまで行こうと地図を片手に家を出ました。

 高校2年〜3年時の春休みに、音楽クラブ員6人で、千葉から木下(きおろし)までサイクリングした時、私は途中でバテ、利根川河川敷で大の字になって寝込んでしまい、Sさんから「奥山君、大丈夫?」と声を掛けられた、高校時代の苦い体験がフト脳裏をかすめました。無事戻れるだろうか。

 尼崎までは、被害が目につきませんでしたが、武庫川を渡り西宮に入ってから街の形相が変わりました。家屋の傾斜・崩壊、マンションの崩壊による1階の駐車場の潰れ。阪神電鉄沿線を走りました。道路上を横切る高架鉄橋の崩れ。電車の脱線。

 阪神芦屋駅近くの叔母の家へ立ち寄りました。回りは崩壊状態。古い高級住宅が全て崩れて跡形もありません。叔母の家は何とか残っていましたが、倒壊寸前。近所の人から、叔母夫婦が近所の小学校へ避難していることを確認し、神戸市内に入りました。普段は通行量が多く公害問題の起きていた国道43号線は通行止めとなり、倒壊した阪神高速を横目にして、車一台も通っていない広い道を通り抜けました。

 途中、JR六甲道駅へ立ち寄りました。駅の1階は完全に崩れ、3階建ての駅舎が2階になっていました。戦慄が走りました。もし地震が2時間遅かったら。私がいつも乗る新快速電車はその時間に六甲道駅を通る。その時にあの大地震に見舞われたら、電車は脱線転覆し、高架から落ち、かなりの死傷者がでていただろう。私もひょっとしたら死んでいたかもしれないと。兵庫区へ入ると、被害が更に大きくなっているのを感じました。道路が波打っており、あちこちで亀裂が走っています。製粉工場の壁が大きく崩れています。

 3時間半掛かってようやく職場にたどり着きました。結果的には、地震後、職場へ一番乗りしたのは私でした。中は予想した通り散乱状態。誰もいない中で被害状況をまとめ、本社へ電話連絡。その時、同じ職場の若いS君がネクタイ・スーツ姿で到着。「何やねん、その格好は。わしゃジーパン・ジャンパー姿なのに。」聞くと、東京へ出張中、地震報道を聞き、関西に引き返したが、新幹線が京都までしか動かず、タクシーで来たが、西宮までしか入れず、そこから未明より6時間掛けて歩いてきたとのこと。お互い大変やったナと、私が持ってきた弁当を一緒に食べました。

 結局、職場の被害状況だけをまとめて帰ることにしました。長田へ行きました。JR新長田駅周辺は火災のため跡形もない状態。前月職場の忘年会を行なった店は灰となっていました。帰りに芦屋の叔母宅へ寄りました。叔母夫婦に会えました。聞くと、二人が寝ていたとき地震に見舞われ、両側のタンスの下敷きとなり、救助される2時間も身動きできなかったとのこと。その部屋に入りフト思いました。身動き取れない間に火事が発生していたら死んでいたのではなかろうかと。

 暗くなり、国道2号線は超渋滞なので、並行して走っている小道に入ったのですが、停電で真っ暗。思いきって走ったら、何かにぶつかり横転しました。崩壊した家に飛び込んでしまったのです。そうしているうちに、方向感覚を失い、西と北を間違え、阪急門戸厄神へ来てしまいました。新幹線鉄橋の崩壊事故現場を見て、方角を間違えたことに気付き、阪急西宮北口に戻ってみると、その周辺の商店街の壊滅状態に言葉を失いました。

 豊中まで戻ると、疲れと寒さで足が踏ん張れなくなりました。自動販売機でコーヒーを買い、休息と暖をとりました。ふと回りを見渡すとネオンがこうこうと光り輝く都会の普通の景色です。神戸の被災地は電気・ガスも無く、こんなコーヒーも飲めないのだろうな。神戸と大阪はわずか20kmしか離れていないのに、天国と地獄の違いがあるなア。何なのだこれは。 

4.5日後(1月22日)

 地震後最初の日曜日に、芦屋の叔母宅へ自転車で行きました。ガレキの山を乗り越え、家に着くと、息子(私の従弟)夫婦と友達が来て、家の整理をしています。私も仲間に加わりました。夕方、外の街灯の下で、車座になり、缶詰を出して皆で夕食を取りました。叔母が笑いました。後で、地震後に笑ったのは、あの時が初めてだったと言っていました。芦屋では叔母が住んでいた地域の被害が最も大きく、ほとんどの古い屋敷が崩壊し、多くの死傷者を出した地域であったことを知りました。 

5.その後

 自転車での通勤が続きましたが、会社指示で、大阪市内の本社へも勤務するようになりました。神戸の工場での生産が不可能になったため、他工場へ生産振替しましたが、それでも間に合わず、他メーカーへ委託生産することになり、その生産条件設定・製品品質などの管理責任を私が負うことになりました。

 自転車で神戸へ行く度に、街が少しづつ変わっていくのを感じました。活気が出てきたのです。壊れた店の前で、屋台が出ています。国道2号線沿いの某公園では「元気村」の大きな看板が立ち、屋台村とライブコンサートが開かれていました。全国からの援助物資を載せたトラックが走り回っています。ある喫茶店の前では、コーヒーが無料で出されていました。朝は必ずその前を通り、暖と疲れを癒しました。

 某駅である高校生に出会いました。彼は学生服を着て、胸に大きな白いゼッケンを付けていて、大きな字で、「私は皆さんの足です。何でも言いつけて下さい。」と書いてありました。ガレキの上を忙しそうに走っていました。心が洗われるような気がしました。思わす彼の後ろ姿に手を合わせてしまいました。

 会社社員に亡くなった方はいませんでしたが、関係会社の女性社員が一人亡くなられました。社員の身内に亡くなられた方がかなりおられ、社員家族の死亡通知回覧に、死亡理由「地震」が少なからずありました。社員宅の崩壊・損傷・火事も結構ありました。本社へ出勤した時、女性社員2人が「〜さん無事だったの」「うん、でもおばあちゃんがなくなったのよ」と抱き合って泣く様子を目にしてしまいました。 

6.何かが変わった

 ある週刊誌を見ていたら、もしあの地震が数時間遅れ、通勤時に起きていたら、新幹線や在来線の満員車両の脱線転覆、渋滞の高速道路の崩壊と、その下の渋滞した在来国道のパニック。そしてガスを使う多くの家庭での火災。50万人以上の死傷者が出ていただろうとの記事がありました。数字の信憑性はともかく、神戸が更に大惨事修羅場と化したであろうことは実感として想像できます。もし、地震が2時間遅れていたら、通勤電車に乗っていた私は死んでいたかもしれない。そう思うと、生きているのが幸運のような、生かされているかのような気持ちになるのです。生き延びたこの命を何らかの形で世のため人のためにお役に立てることはないのだろうかという気持ちが湧いてきました。それまでの企業戦士から一皮剥けた気持ちになりました。でも何ができるのでしょうか。 

 多くのボランティアの方々が全国から来られ、いろいろ活動されました。私は職場の復興、会社の業績回復のため、ボランティア活動は出来ず、後ろめたい気持ちで自転車で通勤していました。でも仮に私がボランティア活動できる時間があったとしても、私にはできなかったでしょう。神戸でのボランティアは人の心のケアを伴うボランティアだったからです。私には人の心のケアを伴うボランティアなんて恐くてできない。叔母の家で行なったことは広い意味でのボランティアであったかもしれませんが。私に出来るボランティアは何だろうか。と考えました。 

 吹田・神戸間の往復約8時間の自転車通勤は私の健康・体力に自信を付けました。高校2年時に、音楽クラブ仲間で千葉・木下間をサイクリングした時、利根川河川敷で倒れた苦い体験を思うと、自分を誉めてやりたかった。この自信はその後の活動に大きな影響を与えました。 

 JR・阪急・阪神が部分開通し、一部だけの自転車通勤をしたり、JR・阪急に乗り継いだり、不通区間をバスに乗ったり、いろんな通勤手段を講じ、ようやくJRが全線開通した3月下旬、私は神戸の研究室から大阪本社へ転勤しました。仕事以外の何かの活動をしたいという気持ちを抱いて。 

7.それから

 2年後(1997年)にロシアタンカー「ナホトカ号」が日本海で難破し、北陸・山陰の海岸が重油で汚染された時、重油回収のボランティアなら出来ると感じ、休日毎に日本海岸へ行っていました。こういうボランティアなら出来る。緑、自然、環境保全、いろんなキーワードが出てきました。自分一人が出来ることは小さいけれど、自分が出来る範囲でやれることをしよう。それまで地域でいろんな活動をやってきましたが、やっと自分がやってみたい好きな対象が目に見えてきました。 

 いろんな経緯がありましたが、今は日本森林ボランティア協会会員としての活動と、地元の吹田自然観察会スタッフとしての活動を両軸にしていろいろ活動させて頂いております。人の心をケアするなんて出来ないけれど、感動なら何とか人に伝えられるという気持ちを抱いて。 

8.後記

1996年正月、新春恒例の映画「男はつらいよ」が封切られました。第48作目「寅次郎紅の花」でした。大地震後の神戸・長田の焼け野原で、宮川大助・花子扮するパン屋の夫婦と寅さんが再会する場面で終わっていました。映画館でその場面を見た時、地震翌日に長田の焼け野原を自転車で通った時の悲しみ・悔しさを感じ、涙が出ました。あの大地震を体験した者が共有する感情なのでしょうか。そして、いつか、その思いを伝えなければ、記録に残さねばと思っていました。

2002年11月に、高校同期HP上で「男はつらいよ」で盛り上がっていたとき、ふと、第48作目の「寅さん」・長田・阪神淡路大震災といろんな思いが巡りました。

そして、あの寅さんが、長田でのパン屋夫婦との再会を最後に、銀幕から永遠に姿を消してしまったのも何かの縁と感じてしまうのです。

1995年(平成7年)1月17日の阪神淡路大震災から8年の歳月が経ちました。神戸・芦屋・西宮の表通りを歩くと、あの時の悲惨な出来事を思い浮かべるものは何も無く、新しい都会的なビルが立ち並び、新しいしゃれた住宅の街並みになっています。でも、あの大地震を体験した者にとって、死ぬまで忘れることのできない出来事なのです。そして、私の人生の岐路になったことを。高校同期のK君編集「医心傅心」をI君から毎年、頂く度に、あの大震災のことを思い出すのです。 


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