夏の終りに..Venezia
シカゴダウンタウンを南北に走るミシガンアヴェニューの北端、ドレイクホテルの向かいのビル2階にリストランテSPIAGGIAはある。
少し早く着き過ぎた私は、近くのナイキタウンで時間を潰し、丁度6時半に店に着いた。案内されたバーカウンターに、キアラは既に座り、目の前には注ぎ終わったペリエが置いてある。大きな窓から差し込む夕日が彼女の金色の髪を輝かせ、彫りの深い面貌を際立たせている。
『ごめん。待った?』
『いえ、私も今着いたところなの』
シカゴで仕事をしていた私のところに、昨日キアラから電話が来た。
『今私シカゴに居るの。久し振りに話をしたいから明日会えない?』
イタリアのヴェネツィアに近いパドヴァの貿易会社で働いているキアラは、輸出の商談でシカゴに来ていると云う。彼女に前回会ったのは、2年前の11月だった。こんな美人のオファーを断る理由は無い。
私は、イタリアンビールを頼み乾杯。9月初旬、未だ暑いが乾いた空気のシカゴで飲むビールは格別である。
カウンターからテーブルに案内された席は、ミシガン湖が一望できる最高の席だった。背の高い黒服のソムリエに分厚いワインメニューを渡される。ワインの種類は何と800種。流石にイタリーでもこんな店は無かった。
最初にスプマンテ、それから2001年ナパヴァレーの白を頼み、前菜、パスタ、メインとメニューに目を運ぶ.....イタリア語、英語併記のメニューから皿の上の料理を想像するこの作業が、最近面倒臭さから楽しみに変わってきたものの、まだまだ予測と大幅に異なる料理に出くわす事もある。
『えっ!前菜の盛合わせとラビオリだけなの....?』
キアラのオーダを聞いた私は、思わず叫んでしまった。
2年前ヴェネツィアのカナルグランデ沿いのレストランで、前菜に大盛りパスタ、メインをペロッと食べてしまったのに。
こんな時は合わせ方が難しい。一人だけパクパク食べるわけには行かない。
私も前菜の盛合わせと、パスタを飛ばしてメインにフィレミニオンを頼んだ。
これで良い。アメリカのパスタはどんな高級店に行っても、パスタのアルデンテなんて望めない。いつも茹で過ぎである。
いつの間にか陽が落ち、ミシガン湖が暗く沈んでいる。
『Good appetite !』 直訳すると『良い食欲を!』。イタリア人は何故か食べる前に必ず英語ではこう言う。イタリア語の『頂きます』の直訳だろうか?
前菜の、軽くスモークした帆立貝やプリプリのシュリンプが実に美味い。
『私この2年ドクターの指導でダイエットに取組んで、16キロも痩せたの』
そう言えば、どちらかと云うとグラマーだった彼女が、かなりスマートになっている。
『彼が、痩せている方が好きだと言うから頑張ったの』
『えッ』心の中で。
『私、1年半前に結婚したの。...連絡しようと思ったのだけど.....』
『減量したら、大きい方が良い場所まで全部落ちちゃって...難しいわね。』
イタリアの女性はこんな話を随分はっきりと言う。
『ハハハハハ...』笑った私の頬の筋肉が少し引きつった事にキアラは気づいただろうか。
1年前の11月、私はキアラと夕食の約束をした。
『時にリアルト橋の上で会いましょう』
彼女は5分も遅れずに来た。
『少し案内するわ。歩きましょ。』
リアルト橋から迷路のような小路を歩き、人気の無い広場に出て、また小路を歩くうちに、私の腕の内側にキアラの手の温かみを感じていた。
アカデミア橋を渡り、更に歩を進め、サンタ.マリア.デラ.サルーテ教会を過ぎて岬の東端で止まった。
運河を隔ててサン.マルコ広場、その右にサン.ジョルジョ島がやわらかな残照に包まれていた。
カナルグランデ沿いのレストランで夕食が終わったのは9時を過ぎていたであろう。何を食べたのか、何を話したのか、今は全く覚えていない。
ただ、心安らぐひと時だった。
まだまだ賑やかな店を出ると、辺り一面濃い霧に覆われていた。
『わ〜霧よ。この時期ヴェネツィアは濃い霧に覆われることがよくあるの。私、この景色が大好きなの。』
店の明かりと街路灯の明かりがぼんやりと見える以外は何も見えない。カナルグランデの運河も何もかも漆黒の闇に包まれている。
石畳を歩く二人の足音だけが両側に迫る石造りの建物に響いている。
暫く霧の冷たさを感じながら歩くと小さな広場に出てキアラは立ち止まった。
窓の明かりがぼんやりと闇に浮いている。
『私はこっち、あなたのホテルは向こうね。』
お互いに向き合ったまま暫く何を言うべきか戸惑ってしまった。
その瞬間キアラの唇が私の頬に柔らかく触れた。
『チャオ!また会いましょう!』
私はそれでも何も言えなかった。
キアラの足音が霧の中に吸い込まれて行った。
私は立ちすくみ、ぼんやりと足音の吸い込まれた闇を見つめていた。
そして、それから2年後の9月、まさかシカゴでキアラから電話が来るとは全く思いもしなかった。
『どうしてシカゴに居るって分かったの?』
『フランクフルトの雄二に聞いたの。あなたが今シカゴ居るって。私もたまたまシカゴで商談が有ったから.......。』
『今フランクフルトは何時かな?アイツにお礼の電話をしよう。』
『だめよ。まだ午前4時よ。』
食事も最後のエスプレッソになっていた。
キアラをドレイクホテルの前でタクシーに乗せ、彼女が座席に座ってから握手をしてドアを閉めた。
歩道を歩きながらキアラがぽつんと言った言葉が今も心に沁みている。
『あなたって紳士過ぎて損ね。』
こうして今年の夏も終わった。