『曇りや雨の多いイギリス』とよく言われるのに、私はイギリスではそんな日に殆ど出会った事が無い。
1時間半前にロンドンヒースロー空港を離陸した飛行機は西南に飛び、プリムス空港に立ち寄った後、穏やかに晴れ渡ったニューキィー空港に、乾いた甲高いタイヤの接地音をたてて着陸した。
イギリスの地図を見ると左下、西南端に細長く半島状に延びている所が今回の目的地であり、自動車の部品を加工する為に必要な優れたソフトウェアを開発している会社が有ります。イギリスでは、温暖で海に囲まれた風光明媚な土地として好まれているようです。日本で云うと鹿児島のようなイメージなのでしょうか。
『長尾さん、我々はイングリシュ(英国人)ではありません。コーニシュ(Cornish)です。』
『.......?』
『分かりませんか?ここはイングランドではありません。コーンウォルです。』
Cornwall州Truroに在る1800年代の古い教会に連結して作られた石造りの重厚なアルバートン マノアホテルのメインダイニングで、イギリスにしては驚くほど美味しい、マッシュルームのポタージュスープからフィレステーキへと進むディナーを食べながら、社長のRさんが穏やかな好々爺のような表情のまま、瞳の奥には真剣な光を宿して言いました。
私は、イギリスはイングランド、ウェールズ、スコットランドの3地方から成ると思っていたのですが、彼に言わせるとそれにコーンウォルが加わるのだそうです。行政上はコーンウォル『州』なのですが、彼は飽くまで『独立した国』の様に言い、自分達はコーニッシュ(コンウォル人)だと強調するのです。
要するに、未だ『日本』と云う観念が余り無かった江戸時代に『薩摩の国の薩摩人』だと言っているのと同じニュアンスなのでしょうか。でも多分歴史的にもっと深い何かが有るのかもしれません。
Rさんの趣味はクラシック音楽とワインです。食事がデザートに進んだ頃、バックミュージックが静かに流れ始めました。
Rさんの瞳からはさっきの真剣な光は既に消え去り、今度はウットリとした眼差しで頭を軽く音楽に合わせて振りながら、
『いい音楽ですね、長尾さん。この曲はご存知ですか?』
『確か.....モーツァルトのアイネ.クライネ.ナハト.ムジークですね。』と私は自信を持って答えながら、大学時代、留年瀬戸際の数学の試験の時に、前日解いた問題が出題された幸運を何故か思い出しました。
Rさんは、今年の夏は家族でイタリアへ行き『ローマ時代の野外音楽場』で催されたヴェルディのオペラ、アイーダを聴いて来たそうです。
次に来るであろうもっと高度な質問に私は怯え、兎に角話題を変えることに成功した。
『お嬢様は本当にお美しくて、賢くていらっしゃる。東京では、東洋の生活を楽しんでいらっしゃいましたよ。仕事もお忙しいようでしたが。』
実は私はRさんに頼まれて、今年の9月に、東京のホテルオークラでこのお嬢さんと昼食を共にしました。
Mさんは、ロンドンの大学を卒業した後、北京大学で東洋史を学び、香港に本社を置くグローバルな銀行に入行して数年間香港で仕事をした後、現在その東京支社でキャリアウーマンとして働き、南青山に住んでいると云う。
ホテルオークラのロビーでMさんを待っている時、私はどんな人かと想像しました。何しろイギリス人のキャリアウーマンです。
『.....金髪をアップにして、白い肌に良く似合うブルーの瞳、ハイヒールに少し短めの黒のタイトスカートでサイドスリット入り、薄地の白いブラウスの襟を立てて、ジャケットは手に持ち.....』
待合せ時刻になると一人の若い西洋の女性がドアから入って来ました。
『あの娘じゃないな』私は即座に断定しました。
それから暫く待ちました。でもそれらしい人は誰も来ません。
その唯一の西洋人の女性に念の為聞きました。
『失礼ですが質問しても宜しいでしょうか?あなたはミスM.Rでしょうか?』
『はいそうです。』
『アー!失礼しました。私は長尾です。始めまして』
Mさん。オカッパの茶色い髪。目も茶色。そう言えば父親似の顔。ぺッタンコの靴を履いて、パンツと云うよりは上野の露天で売っているようなズボンをはいて、これは高級そうだが70歳のお婆さんでも似合う地味なブラウスを羽織っている。
勝手に想像した画像と実際の画像がこれだけ異なると、私の54年前から使っている、くたびれた頭脳の画像認識装置は暫くの間エラーを出して、フリーズを起こし、その後続けて言うべき言葉がアウトプットされませんでした。
それでも気を取り直し、『食事は何がお好きですか?寿司は如何ですか?あ、生魚は食べられるけど余りお好きではない。そうですね。一般に西洋の方々は、刺身は好んでは食べませんネ。でもウチのドイツ支店のレムケなんかは特別で、刺身が大好きなんです。ハハハハ...』さっきのフリーズを挽回すべく急に饒舌になってしまいました。
『OK,それなら鉄板焼きでも食べましょう。』
然し流石にこの経歴のキャリアウーマンです。話しが進むにつれてその魅力に取り込まれて、とても楽しい午後のひと時でした。
イングランドの中部西海岸にビートルズの誕生の地リバプールがあります。
その少し南にディー川河口があり、その川を20km程遡った所にチェスターと云う古い街があります。
この街の歴史は古く紀元前後まで遡り、ウェールズ人と戦う為に古代ローマ人が要塞をこの地に造った頃が起源のようです。歩いても1〜2時間も有れば充分に廻れるレンガ造りの高い壁に囲まれた、19世紀ヴィクトリア朝のままの美しい街並みは、美しい街路に慣れた欧州本土の観光客をも集めているようです。
この街の郊外にノースロップ カントリーパーク ゴルフクラブがあります。
私が何故長々とここまで説明したかと云いますと、ここで究極の英国紳士に会いました。英国紳士の定義を言い始めると枚挙に遑が無いので次回に譲りますが、私はその一つの要素を見たと強く感じました。
欧米のゴルフ場では当然ですが、ロッカールームが無いので、駐車場でゴルフシューズに履き替えて私一人正面玄関に向って歩いて行くと、木製の観音開きのドアが内側から開き、イギリス人の家族が出てきました。最初に綺麗な奥さん、次に小学生位の女の子と男の子、最後に40歳前後のお父さん。
私は未だそのドアまで10メートル弱は有ったのですが、何とこのお父さんは私がドアに着くまでこのドアを開けたまま待っているではありませんか。
私が最上級のお礼と笑顔をお返しした事は言うまでもありません。
日本ではどうでしょう?人の顔の前で平気でドアを持つ手を離す奴。ドアを持っていてあげると、知らん顔してスリ抜けていくアホ娘.......日本はまだまだダメですね。
最後に変った紳士を紹介します。
ロンドンの地下鉄チャリング.クロス駅での出来事。
混雑した夕方、私は切符を買って自動改札に向っていると、背の高い若い男が
『エクスキューズ ミィー』と言って私の前をスリ抜け、急いで行きました。
『さすがに若者も礼儀正しい』と感心していると、今度はその長い足で自動改札を飛び越えるではありませんか。
彼は紳士なのか?単なる不良なのか.....複雑な気持ちでした。
以上