8月、9月と2回ほぼ半年振りに4カ国を廻ってきました。
インドの南部デカン高原の南端、標高8百bの旧英国人の避暑地バンガロールへ日本から行くにはどうしても途中1泊必要です。
インドではなるべく泊まりたくない。
2フライト(乗換え一回)でバンガロールに着きたい。
JALかシンガポール航空に乗りたい。
その結果シンガポールで1泊と成りました。
次にシンガポールの夜をどう過ごすか?を考えます。
シンガポール人の友人に電話をかけて夕食を共にする。
三菱のシンガポール支社長に電話をかけて夕食を共にする。
一人でのんびり過ごす。
皆それなりに魅力的なのですが、今回は仕事の話も有ったので2を選びましたところ、『もう1日前に来て、日曜日にゴルフをやろう』との有難い返事でした。
持つべきは友人ですね。チャンギ空港の隣のラグーナCCは名前(潟)の通り水の多い美しいコースです。シンガーポールやマレーシアでゴルフをして最高の楽しみは、プレー後シャワーを浴びてから、大屋根の窓の無いオープンハウスでゴルフコースから吹き上がってくる涼風を感じながら冷えたビールを飲みスパイシーフードを食べるひと時ですね。
月曜日の朝シンガポールからバンガロールの直行便に乗ったのですが、残念ながらシンガポール航空は朝の便が無く、『恐怖のインド航空』でした。
何が怖いって、安全性の不安もさることながら、スチュワーデスが怖いのです。年齢は50歳台、如何なる飛行中の揺れにも絶えられる体躯をサリーで包み、決して歯は見せず、鋭い目で客を睨み付けながら『何を飲むか?』とか『食事はベジかノンベジか?(つまり野菜食か肉食か)』と容赦なく聞くので気の弱い私は震えながら答えるのです。
何につけ国営はダメですね。ガルーダインドネシア航空なんかは、食事を配った後空いているビジネス席でスチュワーデスが新聞を広げて読んでました。信じれられないですよね。
その国の空港に降り立った時、『その国のサマリーが凝縮されて私の五感に迫ってくる』ようにいつも感じます。
ソウルインチョン、北京、上海、香港、シンガポール、シドニー、ジャカルタ、クアラルンプール、バンコック、イスタンブール、ブタペスト、プラハ、ウィーン、チューリッヒ、フランクフルト、アムステルダム、ミラノ、ローマ、ヴェニス、バルセロナ、リスボン、パリ、ロンドン、ブリュッセル、コペンハーゲン、ストックホルム、ロスアンジェルス、シカゴ、バンクーバー、メキシコシティー、デリー、バンガロール.....
全ての国際空港が皆異なる雰囲気を持っています。空港の建物と周囲の景色と空気、空港職員の姿や声、乗降客の人種、服装、言葉やオーデコロンの匂い、食事から来る匂い、スーベニールショップ.....
これらのサマリーが最も凝縮され、一瞬にして私を包み込んでしまうのが、『空港の扉から無防備な外に出た瞬間』なのです。(全てのインドの空港は、乗降客以外は空港の建物に入れません)
バンガロール空港を1歩出た瞬間に、今までの薄暗く薬臭い冷えた空気から解き放たれ、強い日差しと埃っぽい35℃の空気、茶褐色の肌に大きな目の、客や家族、友人を待つ人垣、罵声とクラクションとあらゆる騒音に包まれる。
居た居た!Sさん。『インドへようこそ』がっちり握手を交わす。
祖父の代から機械関係の貿易商を営むSさんはまだ40歳。やや小柄だががっちりとした体型で、髪は短く浅黒い肌の鼻の下に髭をたくわえて、自信に満ちた大きな目は、英国流の教育を受けた事を物語っている。
これから彼と4千キロの旅が始まる。
インド、この広大な土地と数えられるだけで10億人の国をどう語れば良いのでしょう。よく『インドにはまる人』が居ると聞きますが、私にはまだそれが分かりません。バンガロールはインドで最も綺麗な街だと言いますが、これは飽くまで比較論であって、矢張りインドの都市なのです。
それでは『インドの都市』とはどう表現したら良いのでしょう。
そしてこの信号の無い道を、人々が失礼ながら大発生したバッタのように横切るのです。更に舗装道路はいたる所穴だらけ、『インド特にデリーで運転できれば、世界中どこでも運転できる』とSさんは変な自慢をしていました。
私は助手席でひたすらブレーキを踏み続けていました。
次に食事です。Sさんが気を使って、日本人でも大丈夫そうなレストランを見つけてくれて入ったのですが、メニューを見ても全てスパイシーフードばかりです。食材は、冷凍車などは殆ど無いので余程海辺の街にでも行かない限り魚介類は有りません。
そして宗教上の理由から牛、豚は無いのでチキンかマトンと野菜の組合せに十数種類のスパイスを混ぜて煮るか焼くかそのどちらかです。
『私はカレーは好きだ』と云う人も1週間食べ続けると油とスパイスで腹をやられます。
今回オートバイや機械メーカ等14社廻ったのですが、どこの工場もまるで植物園のように造園に熱心で、門を入ると百メートル以上熱帯林のトンネルが続き、それが終わると花園が待っていて、ハーブ園があってそれからやっと建物が出てくるといった具合です。
人々も大変フレンドリーですね。ある会社で私のプレゼンが終わり、Sさんが別の用事を済ますのを待っている間に、私はその花園の庭を散歩していると、50歳台の一人の紳士が近寄ってきて『誰かを待っているのか?』『その人はちゃんと来るのか?』『昼食は食べたか?』等ともし『未だ食べていない』等と答えたら直ぐにでもどこかのレストランに連れて行きそうな雰囲気でした。
Sさんにも聞きませんでしたが、カースト制は未だ生きているのでしょう。
会社のマネジャークラスは皆浅黒い肌(日本人にもいる程度)ですが、室内屋外を問わず労働者は皆真っ黒です。温和でクィーンズイングリッシュを話すSさんも自分達はベンダー(売り手)なのに会社の門衛に対して、ヒンドゥー語で『日本からお客さんが来てるんだ。早く門を開けろ!』と怒鳴るのを見てもカーストは生きていると感じるのです。
デリーのラディソンホテルのロビーでSさんと話していたら、7、8人の男女の一団が通り過ぎて行きました。その中に10代〜20代の着飾った美女が数人居たので『あれは家族なの?』と聞くとSさんは彼らを暫く目で追った後、私が予期しなかった話をし始めました。
『何か商売をやって少し金を儲けると、ああして高級ホテルを闊歩したり、高級車を買ったり、華美な服を着て宝石や金のネックレスやブレスレットをチャラチャラ身につける。あれは一代で儲けた人間だ。我々のような祖父の代から事業をしている者達は、教育や精神レベルを高め、堅実に成長して行くように考える。』
私は『それは日本ではナリキンと呼ぶ』と言ったら『オーNARIKIN』と繰り返して大変満足そうでした。
もしこれがイタリア人ならば返事は全く違うでしょうね。『オレならあの右側の髪の長い娘がいいね』『彼女は間違いなく.....』と最後に私にウィンクを意味有りげにするでしょう。私はもう直ぐそのイタリアに行くので頭のスィッチの切り替えが大変です。これは余談ですがイタリアのアリタリア航空のスチュワードは飛行機の中で勤務中に堂々と日本人の女性に『ホテルはどこですか?着いたら夜デートしませんか?』とアタックしてくるそうです。
JAL723便ボーイング777は18時23分予定通りマレーシア、クアラルンプール空港に軽くバウンドして着陸した。マハティール首相が威信を掛けて建設した巨大な近代建築である。
真っ先に飛行機を降りイミグレーションへ向かう。ターンテーブルからプライオリティーで直ぐに出てくる荷物を取って、グリーンランプを素通りして自動扉がサッと開くと多過ぎず少な過ぎず程々の人達が整然と待っていました。雰囲気は日本や欧米と同じですね。
『また居ないな〜』と思っていたら、『ナガオサ〜ン』と遠くで手を振っている。今日は上出来だ、もう来た。中国系マレー人のRさんは丁度着いたところらしい。
Rさんは未だ30歳台後半だが、独力で日本のメーカ数社と取引を始め、今や事務所を2ヶ所、家を2軒とリゾートにコテージを1軒所有して兄と妹を夫々社員に加え養っている。マレーシアンドリームの成功者だ。小柄だがガッチリして鼻の下に髭を蓄え、目は誠実さの中に獲物を追う野生動物の鋭さが潜んでいる。英語、中国語、マレー語を話すが日本語は全く進歩が無い。
大のゴルフ好きである。地下駐車場で彼のニューボルボに乗るなり私に新聞の切り抜きを渡す。8月にビール会社のカールスバーグオープンでRさんが優勝したと写真入で載っていた。グロス78!『おめでとう!でも仕事やっているの?』と私。週に3ラウンドはするそうだ。彼とは土曜日の夜行便に乗る前にプレーする事になっている。
それから暫く夕暮れのハイウェイを走りながら、日本とマレーシアの景気、業界の状況等々話しながらKL(クアラルンプール)の手前のペタリングジャヤ.ヒルトンホテルに入りました。
翌日彼の会社に寄ってから500キロ北の自動車メーカへ向かった。
KLが丁度マレー半島の中央なのでそこから北へ500キロ走るとタイの国境に近づく。ハイウェイは殆ど真直ぐ南北に走っているのです。
『インドとマレーシア』似たような国だと思われる方もいらっしゃるかも知れませんが、全く違います。人口は10億人以上対2千万人。労働者不足でインドやインドネシアから移民を行ったことも有るそうですが、治安悪化や様々な問題が発生して今はやめているそうです。4人以上の子供は学費免除等の対策は続けているそうです。
この国の道路、特にハイウェイの美しさには驚きます。走った500キロ全区間の道端の芝生は全て綺麗に刈られていて、インターチェンジやサービスエリヤは熱帯の花が横溢しています。
高速料金は日本の十分の一くらいでしょうか。全てのゲートは無線で自動開閉します。(日本で流行らないアレです)
車窓から見える殆どの景色は見渡す限り椰子の葉が生い茂っています。
その景色も5百キロ(5時間)走って北部に入ると景色は変わって一面の水田になります。植生を除けば日本の新潟や東北の米どころの風景とよく似た何かホッと懐かしい気持ちになります。
途中での仕事も順調に済み今夜はどこに泊まるのか?と思いきや、『もう直ぐタイの国境だからタイのハジャイと云う街に行く』と言う。しかも国境でタクシーを拾って更に1時間も走ると言うので『それじゃ未だ2時間も掛かるの?それならペナンまで戻れるじゃない?』と私。
『ナガオサン。ハジャイは最高だよ。行きましょう!』とRさん。
マレーシアを出国して、タイに入国する手前にフリーゾーンが2百メートル程あり、ここに結構立派なデューティーフリーストアが有り、そこに彼のニューボルボを置いて、タクシーを呼ぶ。今度は凄いメルツェデスベンツがやって来た。年式は恐らく1970年代、ペンキは剥げ落ち、メーター類は一切動かない。ドアは中からは開かないので運転手がまず窓をグルグル降ろし、外側に手を出してノブを開けるのです。それが迫力ある重低音を響かせながら直線道路を体感速度100キロ以上で一路ハジャイへ突っ走りました。
Rさんの横顔には仕事を終えた安堵感と次の何かを期待する表情が現れていました。『ハジャイはいい所だよ』とRさん。
何がいいのか?.........それはまた今度。