チバコーの海 館山の夏

熊野 明夫

はじめに−館山での仕事が思い出させたこと−

昨年、鴨川の大工さんから「家を建てたが請負代金を払ってくれない、裁判をしてくれ」と頼まれた。管轄の裁判所は館山。
遠くて一日がかりになるので引き受けたくはないが、とは言っても仕事は仕事、事務所でくすぶっているよりは良いかと引き受けた。秋から何度か館山の裁判所に通った。 

1.平成13年(2001年)8月3日のシーン

今日は最後の口頭弁論で裁判が終わる日。裁判は午後1時からだが真夏の房総だから渋滞するおそれがあるため早めに向かう。
館山は千葉市内からはおおよそ100
km。昔は3時間はかかったが、館山道が途中までできてからは2時間で着く。

映画のシーンで、車がトンネルを抜けると時代が過去に戻ってしまうシーンを見たことありませんか?

織田祐二と中山美穂の「波の数だけ抱きしめて」だったろうか。場所は湘南だった。

今、ネクタイを締めた私が運転している車は、2600CCのセダン。勿論オートマチック。気温30度を超える酷暑の中でもエアコンが程良く効いている。カー・オーディオからCDの軽いピアノが流れている。助手席には裁判の記録の入った重い黒皮のダレスバック。

国道127号線。富浦のトンネル、「○○隧道」と古い金属の看板がくすんで張り付けられている。抜けて南房総の明るい光が入った途端に、一挙にピッタリ30年前に戻る。

2.昭和46年(1971年)8月のシーン

俺、大学4年。

Tシャツ、裾をぎりぎり細くつめたGパン、安物デッキシューズ。
車ははやりの1200CCのクーペ。代金の半分はアルバイトで貯め、残りの半分は何とか親に出して貰った。マニュアルの4段、タイヤはラジアルでない細いノーマル。ホイールは鉄のまま。エアコンはおろかクーラーもなし。窓は三角窓まで全開。生暖かい風が吹き込む。潮の香りと言えばそうかとも思える。

カーステレオなんてなかった。AMだけのカーラジオからは流行っている「瀬戸の花嫁」「17歳」、そして平山美紀の「真夏の出来事」が電波の状態が悪いながら流れている。

でも助手席には、最近付き合い始めたガールフレンド。

「チバコーの仲間がお金を出し合って夏だけ借りた貸別荘なんだ」
「みんないい奴ばかりだから」
「泊まりもみんなと一緒だから気にしなくていいよ」

とか言ってようやく連れ出すことに成功した一泊の旅行。

というシーン。

この夏は、高2Fで一緒だった宇井和男、御園優子、荒川勝子と東女(トンジョ)の岩田洋子、篠崎恭子らと榛名湖のキャンプに2泊3日。次の日からチバコーの館山に1泊2日。次の日から神津島に大学の仲間と1週間。と言うわけで遊びっぱなしだった。元より大学4年間遊びっぱなしだったが、大学最後の夏ということで焦っていたのかも知れない。

3.館山の夏−青春の夏−

館山の夏に関わった連中と酒を飲むと決まって館山の夏の話になる。「アン時は良カッタヨナー」。「○○がアーシテ」「○○がコーシテ」と30年経っても同じ話。私も振り返ってみて、あの館山の夏があったからこそ、青春は確かにあったと思っている。

このHPに書けと伊藤氏からも他の人からも勧められたけれど、なかなか勇気が出なかった。

余りにプライバシーに関わり過ぎている。絶対に想い出したくない人が必ずいる。想い出したくない人、部分的に事実を消し去って欲しい人の名前を挙げろと言われれば数人は簡単に挙げられる。

でも俺達にとっての共通の青春は館山の夏しかないのだから書いてみるか、という気持ちになった。書いてはいけない部分は省略。

千葉高の同期の裏話というか。主役はお勉強が芳しくなかった連中。

想い出したくない人には、「ゴメン」。

館山の夏は、当時麻雀ばかりやっていた石井忠夫、高橋純一と村田秀志や藤由紀夫達が夏の間だけ海の貸別荘を借りようとしたことから始まった。

石井の叔父さんは、会社を経営していて、社員の保養にと貸別荘を夏の間借りていた。ここに俺達剣道部の連中とかが連れていって貰った。石井は行く前に叔父さんに断りを入れて許しを得なければならないし、泊まっても居候だから気を使う。だったら、自分たちだけで借りた方が気ままでいいやと言い出し、高橋らが話しに乗った。

最初の年がいつかは石井も忘れている。私が最初に行ったのは30年前の昭和46年(1971年)の夏。この前の年の昭和45年(1970年)は夏の間、奈良の長谷寺で修行をしていて海には行っていない。修行を終わって、剣道部の土提内清嗣の芦屋の実家に石井と森(現姓和田)明夫が集まって大阪の万博を見に行き、帰りは飛行機で伊丹から帰ってきた。この時石井は海の話はしていなかった。

だから私は、最初は昭和46年の様な気がする。

貸別荘というと高級な感じがするが、実際はただの漁村の一軒家。漁師さんが広い屋敷内の母屋を7,8月の二ヶ月間貸し出そう、その間は自分たちは離れで暮らそうというもので、料金がいくらだったか私は、はっきりは知らない。最初は10万円しなかったような記憶があるが最後は20万円くらいになったと思う。

この料金をみんなで出し合ったのだが、一夏中利用しそうな奴は正会員、俺みたいにせいぜい2,3回行くだけという奴は準会員で、準会員の会費は5000円、後に1万円になったか。正会員がいくら出していたかは彼らしか分からない。多いときは4,5万出していたのじゃないかと思う。

昭和46年(1971年)の夏に近いある日、石井が突然訪ねてきて「今度、館山に貸別荘を借りることになったから、お前、分担金5000円出せ」と言われ、なんだか分からずに出したのが館山の夏との関わりの始まりだった。

場所は、年によりマチマチだったが、館山市内ではあった。西岬、坂田(バンダ)、市街の北条だったりした。坂田が一番多かったか。

さて、この海の家を利用した、あるいはさせて貰った人物は延べ人数だと数百人になると思う。多かったのは千葉高と緑中関係者、それぞれの大学の友人。その友人の友人でも誰でもかまわずに行けた。友人を何人連れていってもOKだった。千葉高では、憶えている限りでは、石井忠夫、高橋純一、村田秀志、藤由紀夫、川島敏幸、木口利光、森(和田)明夫、木村章等と私か。一緒に泊まってないと分からない。

ここで名前の出せない人もいる。

忘れてしまった人にはごめんなさい。

4.チバコーの海の場景

この年、昭和46年(1971年)は、高卒後、現役で大学に入った人は大学4年、1年浪人した人が大学3年、2年浪人した人が大学2年で全員大学生だった。アルバイトもしないでいた連中は一夏中行きっぱなしだった。石井は、毎日家業を手伝っていたので土曜の夜に来て日曜に帰っていた。

この年借りたのは、館山市街から州崎に向かう途中の西岬。

初めて行って海岸に出たら高橋が海岸にいて、「何日か前に来ていた友人の友人で名前も知らない奴が潮に流されて死んじゃった」、「その遺族が慰霊に来たので現場を案内していた」、「ここの海は潮の流れがきついから気を付けろ」と注意された。着いたばかりだったのでビックリした。

高橋は当時から面倒見が良かった。

毎週土曜の夜になると次から次に車が着く。ガールフレンドと一緒の奴も、男だけで来るのも。たいてい急いで来るから、途中事故に遭いそうになりながら。

ガールフレンドがいる奴はたいがい連れてきていたから、当時誰がどんなガールフレンドと付き合っていたかはみんな知っていた。その結末はさまざま。

着いた順に酒盛りとなり、今から考えると無理矢理飲めるだけ飲んでいたような気がする。空いたビール瓶を並べたら部屋を一周したとか、酒屋にビールを20本のケースで買いに行くが、余りに度々で酒屋が冷やすのが間に合わないとか。たいがい誰かはつぶれていた。

らちもないことを議論もしていた。

食事は誰かのガールフレンドがいれば彼女が作ってくれた。いなかったときは自分たちで何とかしていた。

ある時、石井が生きたさざえを持ってきて、焼いて食おうということになった。焼き網がない。台所の冷蔵庫の棚の網を引っぱり出して、これを焼き網に使ってさざえを焼いた。うまかった。その後、棚がどうなったか忘れた。大家さん、ごめんなさい。

一番人数が多かったときは20人以上はいた。部屋に入りきれず、庭で寝たり、寝なかったり、交代したりしていた。

私達の連れの女性に夜中ちょっかい出した奴がいた。誰だったか忘れてしまった。誰だったかなあ。癖の強い奴だったが。

翌日の日曜日は浜には出ていたが、別にサーフィンをするわけでもヨットに乗るわけでもないし、ダイビングなんてなかったし、ただボケーとしていた。勿論少しは海に入り泳ぐこともあるが。

起きると雨だったこともあり、そのまま帰って来たこともあった。

5.昭和48年(1973年)ー青春が疼く夏−

ある日、木口から友人と館山に行くが、待ち合わせまで時間があるから出てこいと喫茶店に誘われた。その日は私も行く予定でいたが、友人の都合で私の出発は夜だった。しばらく話をし、時間を潰してから木口達は出かけていった。

私は東京に友人を迎えに行き、館山に向かった。遅れた私達が館山に着いたのは夜中過ぎだった。この夏の貸別荘は館山駅の東側で街の中にあった。私は場所が分からず、駅前の交番で聞いてたどり着いた。

着いたら部屋の真ん中に村田がどっかり座っていて、真っ赤な顔をして酒を飲んでいた。まるで赤鬼みたいだった。着いて直ぐに石井が、「これから村田が暴れる」、「村田はここのところ毎週暴れている」、「危ないから逃げろ」、と怯えた顔で言い出した。目の前で酒を飲んでる村田は、確かに目が据わり始め、石井と高橋はおどおどし出し、村田の機嫌を取ろうとしている。確かに異様な雰囲気で我々は外に逃げ出した。木口達も同じように逃げ出した。夜中の浜で時間を潰し朝になってから帰ると村田は寝ていたが、石井には殴られた跡があり、買ったばかりのTシャツを破られたとぼやいていた。村田は全然記憶がないと言っていた。私は、酒乱という人がいることを聞いてはいたが、初めて見て非常に恐ろしかった。この避難中に仲良くなっちゃったカップルがいた。村田がとんだキューピットだった。

2週間後、私は大学の友人達と出かけた。また村田が暴れたらどうしようか、と心配しながら着いたところ、石井がニコニコしていて、「村田は先週、いつものように酒を飲んでいて、誰も相手にしてくれないので喧嘩をしに街に出かけ、喧嘩を売り、逆に怪我をして病院に入った」、「だから当分は館山には来ない、安心して良い」と喜んでいた。勿論我々も「ヨカッター」と喜び、安心して楽んだ。この夏、村田は復帰しなかった。

あの23,4歳の頃は暴れたくて仕方がない、身体が暴れることを欲するという年頃なのだろうか。今では17歳が問題になっているが、私達の頃はあの年齢だったのだろうか。あの頃は、川島君も喧嘩したくて仕方なく、館山の街の道路で走っている車を捕まえて「ケンカしよーぜー」と誘っていたと聞いた。勿論誰も相手にしないで避けて行ったらしいが。その後村田と何十年も一緒に酒を飲んでいるが、暴れたことはない。彼はあれは本気ではなかった、わざとじゃれていたと言っている。どうだか。

この年は、パトカーが度々来ていた。余りに騒ぎが大きいので大家さんか近所の人が呼んでいた。

6.夏の終わり−チバコーの海の終演−

いつ止めてしまったのかもはっきりしない。2浪して大学に入った連中が大学を卒業し、就職してからも借り続けていたことは確かだが、就職すると土日だけしか行けず、それすら毎週というわけには行かなくなったので、最後は昭和50年(1975年)か翌昭和51年(1976年)ではないだろうか。昭和50年には確かに行った。昭和51年は記憶にない。石井に館山に行こうと誘われたが、その日の朝雨だったのでドタキャンした記憶があるが、あれはいつだったのだろうか。

当時の写真はあるのだが、行っている連中が固定されていて変わりばえがないし、当時の写真には撮影年月日が撮し込まれていない。

結局6,7年間通っていたことになるか。

夏の終わりの日曜日の午後。太陽の傾き方が7月や8月の始めとは違って、早く州崎の方に傾く。空の色は青から水色に変わった。凪いで波のない海に平泳ぎで浮かんでいると、日に焼けた自分の腕が海水をかき混ぜる。海水はなま暖かく、ぬめりとしている。陽射しは夏の盛りのジリッとした厳しさはなく、風は涼しい秋の風に変わっている。西日が波をプラチナ色に輝かせ、数百、数千の破片を撒き散らす。

浜辺でのラジオは各地の交通情報を流し、湘南、房総の渋滞を伝えている。千葉市までは何時間かかるか分からない。

「アーァ。今年も終わっちゃった」

おわりに−再び、平成13年(2001年)8月3日−

裁判が終わって、坂田に車を向けた。今日は金曜日だし、今から事務所に帰っても午後5時近くにはなってしまう。最初から帰りは一泳ぎのつもりで水着とタオルは持ってきた。どうせ泳ぐなら坂田にしよう、あそこなら今でも水はきれいに違いない。

坂田は30年前と全く変わっていなかった。途中の西岬はリゾートらしくなり、ホテルのような建物がたくさんできていたが、坂田はそのまんま。駐車場のそばにトイレができていただけ。昔泊まった家がどこだったかまでは思い出せない。

浜は家族連ればかりだった。昔は家族連れなんていなかった。いたけどそんなのは目に入らなかったのだろうか。

そもそも家族連れなんてものを知らないくらい俺達は若かった。

高橋(純)君からの電話

  1. 館山での貸別荘は、都合10年借りていた。西崎海岸一帯で毎年6月に自分が館山市の市役所で夏の間(7月、8月)貸してくれるところを探した。市役所の担当者とも顔馴染みになった。

  2. 料金は2ヶ月で30万円であり、それを主たるメンバー10人が3万円ずつ負担した。時々来る人から貸し布団、プロパンガス代などのために1泊1000円程度もらっていたのではないか。

  3. 亡くなった人は、ここをよく利用した男のガールフレンドが、たまたま出会った中学時代の友達で九十九里出身の人。水泳が得意だったが、当日は珍しく波が荒かった。来てすぐに海に入り、友達が見ていると急に万歳をして見えなくなったとのこと。その女性にパッタリと出会わなければ、このようなことにならなかったのに、運命を感じる。

  4. 自分(高橋君)が遅れて、別荘に着いたら、大騒ぎをしていた。海岸にかけつけると浜の人も警察も来て捜査中。自分たちも2人一組になって懐中電灯を持って、夜通し捜索するも見つからない。流木に海藻がからみついているのを見て、何度もハッとしたことを思い出す。

  5. 翌朝、万歳をして沈んだ所に船を出して、捜索したら、岩の間で見つかる。死因は検死の結果、心臓麻痺。

  6. ご両親を呼び、棺桶を買い、ご両親と一緒に、ライトバンに乗せて自分が運転して東金の自宅ませ運ぶ。ご両親が無言で海を見ていたのを今でも思い出す。そういえば、館山にはドライアイスがなく、警察が千葉から持ってきてくれたことなども覚えている。

  7. 東金から疲れ果てて、館山の貸別荘まで戻ると、夜の12時過ぎであった。皆は薄情にも帰ってしまっており、誰もおらず、しかも鍵がかかっていた。便所の下窓を外して、部屋にやっと入る。誰もいなくなった部屋にいると、夜中に、外を歩く足音がする。怖くなって部屋に残っていたビールを8本飲み干してから、「誰だ」と庭に出るも、誰もいない。戻るとまた足音がする。本当に怖かった。鶏が鳴くのをあれほど待ちこがれたことはない。自分の人生における唯一の恐怖体験である。今、思うと、見つけてくれて、運んでくれたお礼に来てくれたのだと思う。

  8. 当日、無断で帰った石井(忠)などには、思い切り怒ってやった。自分は、その後、3年間は毎年、その場所で供養した。

  9. 某氏が、女性と夜中にいなくなり、心配して探し回ったら、火の見櫓の上でいちゃついていたという事件もあった。

  10. 大きな樽に井戸水を入れて、そこにビールを冷やしておき、海から上がったら、大瓶をラッパ飲みしていた。酒屋のおばさんが、夜中にも起こすものだから、倉庫の鍵を貸してくれたこともあった。

  11. イカメンチ(イカが入っているメンチ)なんていう食べ物がうけて、皆が喜んで食べていた。

 

チバコーの海 館山の夏 前章
 −昭和42年(1967年)高3の夏−
 
夏の県大会を簡単に敗退した剣道部の俺達には、思いもかけずに夏休みが簡単に来てしまった。
 
真面目な柴田直樹と加藤隆は剣道の昇段試験を受けると言う。土堤内清嗣は芦屋の実家に帰った。俺、石井忠夫、森(現姓和田)、木口利光の4人は海に遊びに行くことにした。剣道部にはもう一人関知明というおとなしい男がいたがこの夏なにをしていたのか印象にない。現在は所在不明となっている。
 
事務局注
熊野君から、これを読んだ中嶋君が関君の出身大学の名簿から就職先を把握し、そこに中嶋君の知人がいたことから関君の勤務先、住所が判明したとの連絡を受けたことを記しておきます。
俺達は、富浦の海に泳ぎに行った。富浦は館山の手前だ。
石井と森は家が舩橋の魚市場の卸商だ。森の親の紹介で、取引先の富浦の漁師さんの家に泊めて貰えることになった。
 
高3の受験生でも夏休みはそれ程緊張感がなかったのだろうか。俺と木口は、2Fの連中や担任だった本野先生と千葉高の佐貫の寮にも行っている。2Fの佐貫の話は堀田氏の山下追悼の話にも出ている。そのうち堀田氏に書いて貰えば。
 
富浦には列車で行った。車はなかったから当たり前だが。当時はまだ蒸気機関車が走っていた。夏だから臨時列車に蒸気機関車も駆り出されたからかも知れない。C37という貨客両用の地味な蒸気機関車で、引いている車両は木造の茶色の汚いやつだった。当時は、房総西線と言っていた館山行きで、千葉駅から乗ったときは満員だったが、木更津を過ぎ、富津を過ぎたあたりから人が降りだし、いつの間にか俺達の乗っている車両には俺達4人しかいなくなった。
 
房総半島の先に近づくと、山が多くなり、列車はトンネルに入った。当時は冷房なんかなかった。車両の窓全てが全開のままトンネルに入ったものだから黒い煙がそのままモクモクと入ってきた。俺達は慌てて窓を懸命に閉め出したが間に合わず、呼吸ができず死にそうな苦しさだった。気絶しそうになって、富浦駅に着いた。
 
駅の近くの酒屋でビール1ダースを手土産に買った。森の家は礼儀等にうるさいので、森はビール1ダースを買って手土産に持って行けと言いつけられ、そのお金を持たされていたのだと思う。
 
白い半袖開襟シャツに黒ズボンの森がビール1ダースの箱を抱きかかえるように持ってその家に着いた。夕方まで海で泳いだ。波のない静かな海だった。当時森はクロールはおろか平泳ぎもうまくできず、横泳ぎをしていた。「のし」泳ぎと言うそうで、俺も教わった。森と俺は一掻き、一掻き毎に「のしー」、「のしー」と叫びながらヒラメみたいに横になって並んで泳いだ。
何かおもしろい話をしながら泳いだ記憶はあるのだが、なんの話だったかまでは思い出せない。どうせ女の子の話くらいだったのだろう。チバコーの女の子か、中学の時のクラスメートか。後者については多分にほらが混じって話が大きくなっていたかも。
 
その晩、その家の親父さんから俺達はビールを勧められ、俺は初めて家以外で酒を飲んだ。石井は直ぐに盛り上がり、はしゃいでいたかと思うと、急に便所に駆け込み吐いていた。森はエヘラエヘラしていた。木口は随分飲み慣れているらしく、えらく強そうだった。何ともなかった。俺は何か気分が良かった。大人になったような気がしていた。酒を飲むのは大人の証拠の様な気がした。持って行ったビールはその晩のうちに飲んでしまった。
 
追記
高校卒業式の日、学校帰りに剣道部の全員で喫茶店に寄った。この時も関がいたかどうか思い出せない。俺は喫茶店に入るのは初めてだった。喫茶店は不良の行くところだと思っていた。
 
喫茶店から栄町の居酒屋に酒を飲みに行った。全員、学生服、学帽、卒業証書の入った紙筒を持っていた。今なら、そんな連中を入れてくれる店があるかどうか。結構は騒いで飲んで勘定する段になったら全員の所持金を合わせても料金には足らなかった。そりゃそうだと思う。高校生が持っている金なんかたかが知れてる。しかし店に入る前にどのくらいかかるのか誰も考えてなかった。一番家に近い俺が家まで走って帰って金を取ってきた。それからいつもそんな役をしているような気がする。 あの金はその後返して貰ったのだろうか。


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