冷たい夜空にネオンが映える。昨年末、名古屋の繁華街。クマの帽子に和服姿の近藤ゆり子さん(56)が歌い、踊る。自衛隊のイラク撤退を求める集い。憲法9条の理念を歌で広める市民グループ「9map」(くまっぷ)の一員だ。街行く人は奇抜な姿にちらりと目をやり、通り過ぎる。
ダム問題、イラク戦争、憲法……。全国を駆け回る。岐阜県大垣市の一人住む家。リビングの棚の骨つぼに、愛する人が眠っている。(事務局注)左の写真は新聞記事に使われた写真ではなく、06年11月に京都でブッシュ大統領に抗議した時の写真です。これは「クマの帽子」ではないのかな?
この時、もう56歳にもかかわらず警官によって近藤さんは倒されたそうです。若い人とは違うんだから警察も配慮しないといけない。
古都京都の美を大切にする私は「この旗は美しくない」と近藤さんにメールしてしまった。返事は来ない。
シュプレヒコールが街を包んだ時代。ゆり子さんはアノラック姿で東大全共闘のバリケードの中にいた。三つ編みの長い髪は、ヘルメットに隠れていた。
69年1月、学生がろう城した安田講堂は、機動隊に制圧された。ゆり子さんがいた別の校舎も落城した。
「私たちは何を社会に問おうとしていたのか」。平穏さを取り戻す大学で模索していた時、大学院生の正尚さんと出会う。4歳年上。21歳の誕生日に銀座でとんかつをおごってくれた。70年。恋の始まりだった。
一緒に暮らし始めた。東大を中退し、医院で働きながら准看護師学校に通う。正尚さんはタクシー運転手で生計を支えた。72年、連合赤軍の浅間山荘事件とリンチ殺人。彼らの失敗を「越えたい」と思った。
「あなたより運動を優先したい」。74年、ゆり子さんは小さなセクトに入る。正尚さんも後を追った。2人は別々の場所で集団生活。互いの連絡も取れない。正尚さんは耐え切れず、郷里の大垣に逃れた。
ゆり子さんも行動すべてを批判される日々。連合赤軍が陥ったリンチ殺人の論理にはまっていく。組織に絶望し、逃げた。76年秋、西へ向かう列車に乗った。
名古屋の医院や小料理屋で働きながら、正尚さんを捜す。その冬、再会。正尚さんは黙って受け入れた。
過去を断ち身を潜めるように大垣で暮らした。「とんでもない挫折」。その記憶を封印した。学習塾を始め、休みは2人で全国を旅した。
81年に婚姻届。「面倒になった。転がり込んだのは私だし」。戸籍制度や夫婦別姓へのこだわりも捨てた。
元闘士2人。「これでいいのか」。ただ、どうしていいか分からない。時の流れに任せるだけだった。
95年のオウム真理教事件が転機となる。他の考えを認めず、「社会は敵、弾圧を受けている」と、ハリネズミのように中でまとまったあのころ。オウムは同じに思えた。責任を感じた。
あの時代の総括はそう簡単ではない。ただ、何もしないでいるわけにはいかなかった。地元で進められる巨大ダム建設。95年末、反対運動に立った。19年ぶりに社会に向き合った。
暴力革命を信じた時代があった。今はそれをはっきり否定する。ただ、若い世代にこれだけは伝えたい。「もの言うことをためらうな。権威を簡単に信じるな。自分で考えろ」と。
98年夏の終わり、正尚さんは急死した。
今も正尚さんの部屋の壁には8年前のカレンダー。平家物語を琵琶で語る「名古屋平曲」の伝承者でもあった。机には楽譜がそのまま残る。時代に埋もれた曲の復元の道半ば。晩年、その伝承の真偽に疑念を示す学会の権威と闘い続けた。
いつか、棚の骨つぼを抱いて海に行き、散骨したい。闘いを終える時。それまでは一緒にいてほしい。
今はまだ、終われない。【早坂文宏】
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朝日新聞の記事06年8月22日