妻と一緒に英国縦走1500q

小出 恒介/知恵子

目次

  1. 行く前に−小出恒介
  2. 帰国後に−小出恒介
  3. イギリス8日間1500q−小出知恵子
  4. 英国旅行記−1.エディンバラの金鎖
  5. 英国旅行記−2.エディンバラのガーデニング&リビング・ショウ
  6. 英国旅行記−3.車でネス湖とアーカード城
  7. 英国旅行記−4.フォートオーガスタスの町のB&Bとパブ
  8. 英国旅行記−5.湖水地方へ行く途中で出会った人
  9. 英国旅行記−6.ケズウィックと英国の芝生
  10. 英国旅行記−7.コッツウォルドのボートン・オン・ザ・ウォーター
  11. 英国旅行記−8.英国の宝石・バイブリー
  12. 英国旅行記−9.ホワイトホースとオックスフォード

<行く前に−小出恒介>

エディンバラから車で湖水地方、ミッドランドを回ってロンドンに行ってきます。エディンバラでは「庭とリビングショウ」を見てきます。
かみさんは湖水地方でピーターラビットの世界にひたるつもりですし、私は人々の庭での暮らしや風景を観察してきます。 

<帰国後に−小出恒介>

スコットランドにいた最初の3日間は小雨が降ったりやんだりでした。
その後は南下をするにつれ回復、ほぼ一週間、快晴のままロンドンに到着しました。走行距離は5日間で1502qでした。見たいところはほぼ見ることができました。

エディンバラからロンドンへ1500q 新婚旅行?(ネス湖アーカード城)


毎日同じ様な朝食。昼と夜も同じ様な食事をパブでとりました。
まずいとは思いませんでした。なぜならイタリアの食事はまずかったから。
夜になってやっと許されるビールのおいしいこと!!!

かみさんとは一回も表だった喧嘩はしませんでした。
家族はそれを聞いてびっくりしてましたけど。

<イギリス8日間1500q−小出知恵子>

2005年6月3日〜11日。

エディンバラで2泊してから、車でインヴァネス(目的はネス湖)に北上し、グレン・コー、ローモンド湖、ウインダミア湖、を経てコッツウォルドまで南下・・・バース、マルボロ、オックスフォードを経てロンドンへ、じつに1500キロを5日間で、恒介氏が、走り抜けました。凄いスピードで、ときどき怖かったけど・・・楽しかったです♪

一口に英国といっても、スコットランドのロウランドとハイランド、スコットランドとイングランドの境目、イングランドとウェールズの境目、そしてイングランドに行ったわけですが、それぞれまったく違う人々の集まりなんだなぁ、と思いました。今回はウェールズやアイルランドには行けませんでしたが、それはそれで、きっと、びっくりするほど違うのでしょうね。

急ぎ駆け抜けたからこそ感じたのかもしれません。自然の風景、人が作り上げた景色や町の様子、人々そのものの感じも違います。

わたしはハイランドがとても気に入りました。旅行前は、小学生のころの愛読書「ツバメ号とアマゾン号」の舞台ウインダミア湖と、蜂蜜色の家が並ぶコッツウォルド地方に憧れていましたが、少し興味が変わって帰ってきました。
最初にスコットランドに入ったせいかも知れません。

わたしは最近、近くは老眼鏡、遠くは近眼の眼鏡が必要なので、ナビゲーターとしては非常に忙しく、地図をみるのが凄く大変でした。
もともと方向音痴で地図は大の苦手だし、地図も看板も英語だし、Mという文字はマイルだし、車のスピードは凄いし、何より、こういうことは眼鏡がいらないうちにしたかった、というのが正直な感想。去年はまだ大丈夫だったのに。

●6月3日(1日め) 夕方エディンバラ到着
エディンバラのホテル泊
●6月4日(2日め) エディンバラ城・ガーデン・ショー
エディンバラのホテル泊
●6月5日(3日め) ネス湖・アーカード城 
フォート・オーガスタのB&B泊
車を借りて出発。郊外に出ると、道路の両側の丘の斜面に点々と羊。雨が降っても、人家はほとんどなくても、羊はどこにでもうずくまっています。ここは羊の国。
ネス湖はスコットランドの北方、ハイランドにありインヴァネスで北海に注ぐ湖。インヴァはスコットランド語で、河口という意味。ネスは南北に長く、地図で見ると幅のある河に見えます。運河や小さな川でほかの湖とつながり、南は大西洋。全部がつながっているのかどうかは、調べていませんが、そのように思えます。
アーカードは城跡で、寂寞・荒涼という言葉が似合う。その日、寒い雨上がりのネス湖を背景に、迫るものがありました。こんな北の国で石のお城に住んで国を守るのは大変だったでしょうね。周りにはなぁんにもないし。
 
●6月6日(4日め) グレン・コー ロッホ・ローモンド
ケズウイック B&B泊
グレンは渓谷のこと。グレン・コーは、険しい渓谷が行く手に幾重にも折り重なり、その真ん中をまっすぐ抜けていく道を走っていると、遠近感がおかしくなってきます。道路横の平地は湿地帯で、至る所に水が流れ、小さな沼だらけ。渓谷が道に迫っているところでは岩肌から水が噴出しています。進むに連れさすがに羊の姿も消えました。
大自然が作り出した、ダイナミックで、不毛で、不思議な風景。映画「ハリーポッター」の撮影にも使われたとか。妙義山を初めてみたときの驚きに似ていましたが、規模が違う・・・凄いとこだった!

しばらく走ると、柔らかな緑が辺りを覆い菜の花畑がそこここに。羊の姿もどことなしかまぁるく見えます。グラスゴーの手前で、幼いころ歌で馴染んだロッホ・ローモンドの湖畔に出ました。ロッホは湖のこと。豊かな水量、湖岸にせまるみずみずしい樹木の緑。
戸外のテラスで昼食をとりながら、この旅行中、初めてシェルティ(シェットランド・シープ・ドッグ)を見ました。見る犬、見る犬、みんなボーダー・コリーだったので、やっと家の犬と同じ犬種を見て嬉しかった。

そのあたりで、次の日の予定地であった湖水地方は、通りすぎるだけでいいのでは、と思い始めました。なんといってもスコットランドはロッホだらけ。来る道々、様々な大きさの湖を堪能しましたし、ハイランドとグレン・コーの厳しい風景から、突然牧歌的で緑滴る風景に入って、少々面食らっていたのかもしれません。
 
●6月7日(5日め) コッツウォルズ地方へ 
ボートン・オン・ザ・ウォーターのINN泊
湖水地方の入り口の町ともいえるケズウイックを出発。ウインダミア湖を横目で眺め、ピーター・ラビット、ワーズワースもパスして、ウインダミアの街を抜け、ひたすら南へ。けっこうな距離なのです。夕方、やっとコッツウオルド地方に入り、ボートン・オン・ザ・ウオーターのインに荷物を運び込む。モーテル・スタイルで、各部屋、外に面したドア。外は駐車場なのでトランクを運び込むのが楽。車の旅はこういう宿がいい。B&Bはシャワーだけだったけど、ここはバスタブもある。6時過ぎなのに高く暑い太陽を避け、パブでビールを飲む。どこにいても鳥の声がする。インに戻って、裏庭にいるらしい、ふくろうはじめ、数種類の鳥たちの鳴き交わす声を聞いているうちに、やっと南の地方らしいのんびりした雰囲気になじみ始めたかもしれない。
 
●6月8日(6日め)バイブリーとバース 
マルボロ B&B泊
インのフロントにいた女性が、ぜひバイブリーに行けと力説し地図を描いてくれた。案内書にはウイリアム・モリスがイングランドの宝石と称えた村、とある。この辺は裕福な家が多いようだ。どこまでも続くコッツウオルド・ストーンの壁、PRIVATEと書かれた看板。門があっても家までは遠いらしく、中は見えない。
バイブリーは、昔、絵本で見た村、みたい。蜂蜜色の家が並ぶ斜面をのんびりのぼる。イーゼルにキャンバスをたて、絵筆をもったお年寄りが大勢いる。絵をのぞいたりしながら下りてくると、下の道に観光バスが着き、日本人の中年女性の団体さんがバスから次々降りていた。しばらくして、すれ違ったらしい。「あの二人、日本人じゃないわよ」と言う声が聞こえた。えっと思い、相手をちらっとみて、慌てて目をそらす。いったいどういう意味なんでしょうね? 何も気がついていない夫に言うと、中国人と思われたかな、と大笑い。二人で話しながら歩いていたせいで、どちらも彼女たちに挨拶しなかったせいらしい。
村の入り口にあるスワン・ホテルでコーヒーを飲む。
バースではローマ風呂の遺跡を見て、堰のある川を見た。けっこう暑かった。
時間的に、一気にオックスフォードというわけにはいかず、途中にある町、マルボロでB&Bを探す。何軒かみて、パブの2階の宿に。フィッシュ&チップスのテイクアウトを初めて食べた。ちょっと油っぽい。犬が多い町だった。やはりボーダーだらけ。
 
●6月9日(7日め) オックスフォードからロンドン
ロンドンホテル泊
朝食はパブで。朝の酒場って不思議な感じ。お客は私たちだけ。
オックスフォードには昼ごろ到着。2階建バスで市内観光。各カレッジの建物の豪華なこと、それぞれが意匠を凝らし、堅固な宮殿のよう。トリニティ・カレッジの庭は美しく整えられ裕福な貴族の館かと錯覚する。知は権力を支えるものだったのね。シェリーが学んだ、とかC.Sルイスがとか、トゥールキンがなどという説明が楽しい。科学者や有名な政治家の名前もでてきたはずだけどちっとも覚えていない。
夕方、大都市ロンドンへ。すごい数の車。すごい人の数。やっとのことでホテルを探し当て、荷物を降ろしてから車を返しに行く。ほっとしましたね。都市部では車は厄介者に変わるから。タクシーに乗っても大渋滞。
 
●6月10日(8日め)
午後一番の便でヒースローより成田に向け帰国。
 
●6月11日
早朝、成田着。日本は蒸し暑い梅雨でした。

<英国旅行記−1.エディンバラの金鎖>


2005年6月。5年ぶりで5回目、英国に8日間の研究旅行に行って来ました。

スコットランドのハイランドから、湖水地方、コッツウオルド地方を車で移動しました。全行程1502q、摂氏8゜から摂氏25゜の旅、小雨降る晩春から汗ばむ夏までの旅でもありました。数回に分けてこの旅についておしゃべりしたいと思います。


今日はエディンバラでの話。
1日目、成田から12時間ほどの飛行の後、さらにロンドンから乗り継いだ飛行機が、エディンバラの上空にさしかかった時、隣にいた白人の30代の若者が「エディンバラだ!」と叫び、窓の外を指さしました。
「そうだね。とてもきれいだ。」と私が言ったら、「そうだろう?自分のふるさとなんだ」

興奮して顔が上気し、誇らしげでした。それほど感激するとは、長い間留守にしていたのだろうか? どこにいて何をしていたのだろう・・・イラクだろうか?

空から見たエディンバラは、工場も、近代的なビル群も、埋め立て地も、そして無遠慮な看板もありません。所々に岩山、緑が多く、美しい町並みとそれを縁取るなめらかに弧を描く湾、遠くのかすむ山並みが見えています。

ホテルで荷を解いた後、外に出かけました。冷たい雨が降っており、冬用のジャンバーを着ました。すぐ近くの「タス」というパブにいきました。そこで働いていた20才前後の若者にビールを頼んだら、日本語で話しかけてきました。
「日本に行ってたの?」と私が尋ねると、「いいえ」「じゃあ彼女が日本人?」「いいえ、エディンバラ大学で日本語のコースを取っています」
彼の言葉の正確さにびっくりしました。

エディンバラの街 夜10時でも明るい


夕食は、魚の唐揚げとポテトの、いわゆる「フィッシュ&チップス」。酢をかけると、とても食べやすく、「ギネス」が美味しかった。
ホテルに帰りましたが、夜の10時半になってもまだ明るいのです。分厚いカーテンを閉めてすぐ寝てしまいましたが。

2日目、朝早く、エディンバラ城へ向かいました。途中の道すがら、公園の樹木から大きな黄色いものが垂れ下がっているのが見えてきました。近づいてみると「金鎖」の一種でした。英名ではゴールデンチェーン、ゴールデンレインと呼ばれており、フジのように長く垂れる黄色い花を付けます(日本植木協会編「新樹種ガイドブック」より)。

エディンバラ城 ゴールデンチェーン


エディンバラの曇り空の下、肌寒い空気の中で、花房が金色に輝いて見えました。

エディンバラ城は町の中心にある巨大な岩山に築かれた城でした。岩を削って道や広場をつくり、発生した石はいろいろなサイズにカットして城の壁にし、くず石は地面に埋めて舗装としたのです。むき出しの岩肌がそこら中に残っていてそれを示しています。

くず石の舗装


スコットランドの独立を守ろうとするイングランドとの戦争。カトリックとプロテスタントの抗争など、この城には長い長い歴史があり、その舞台がそのまま残って、今も目の当たりにすることができることは、すばらしいことだと思いました。

<英国旅行記−2.エディンバラのガーデニング&リビング・ショウ>


その日の午後、エディンバラの空港脇で開催されているガーデニング&リビングショウを訪れました。雨の中、沢山の人たちが熱心に見て回っていました。
屋内では多くの樹木、草花が展示されていました。紅葉、青木、紫陽花、アヤメなど日本原産のもの、改良種が数多く見られました。

あやめ

モデル庭園では池が中心になったものや真っ青に塗られたパーゴラを中心とするもの、サンルームを中心とするものなどを見ることができました。特徴といえば、石垣、石を貼ったテラス、草花、芝生、パーゴラ、テーブル、イスが必ずあることでしょうか。
サンルームのある庭で責任者らしい人と話をしました。熱心に自分がデザインし、作った庭は「歓迎」をイメージしているのだ、と言っていました。それを象徴するのは「白い花々の植え込み」だそうです。

パーゴラ


広い芝生地ではかの有名な石垣積みの実演を見ることができました。空積みというのでしょうが、沖縄の石垣と同じで、漆喰やモルタルを使わず、石と石のかみ合いで形を作るのですが、こちらのはすごい。なにしろアーチまで作ってしまいます。下をくぐるのは怖い感じです。
 

石のアーチ

60才位のおじさんが近づいてきて、「どうやって作ったかわかるかい?」とニコニコしながら、得意そうに聞いてきました。
「さて? 」と言おうかな、とも思ったのですが・・・ここは正直に、「わかりますよ」と答えました。

作り方は、ベニヤをアーチの形に切り、釘を内側から打って枠を付けた頑丈な箱にし、作りたいところに固定します。そして石を端から一段ずつ積んでいきます。どの石も重なり合うように互い違いにかみ合わせます。型枠にそって直角に石を積んでいき、アーチの真上に来たら、最後のすきまに石を打ち込みます。重量がある石は、重力によって下に向かって落ちますが、互いに引っかかって固定されます。そして釘を抜いて型枠を内側から解体します。効いている釘を抜くたびに、石が動いたら先ほどの石を再度打ち込みます。大きな隙間が出来たらそこにも石を打ち込みます。こうして出来上がります。

石垣全体の写真

ローマ人によってモルタルが発明されてからは、より簡単になりました。
どんな山の中でも、そこら中にある石を建材として使い、水が無くても作れるように工夫されたのでしょう。ちなみに日本ではモルタルのかわりに漆喰が使われておりました。また石の組み合わせだけで積む、崩れ石積みという技法があります。

<英国旅行記−3.車でネス湖とアーカード城>

3日目はいよいよ車の旅です。
レンタカー、「ハーツ」の事務所まで、ホテルから小雨の中を歩いて行きました。日本から予約のとき、1500CCの車を一週間、という希望を伝えておきました。用意されていたのは、嬉しいことに、黒のフォード・フォーカスの新車。

ホテルに帰り、チェックアウト。荷物を積んで、エディンバラの真北にあるインヴァネスに向かって出発しました。30分ほど迷い、幾つかのラウンドアバウトを一周したりしてやっと真北に向かう道路に入り、信号が無くなりました。
そこで恐ろしいことに気が付きました。スピード計の針は80を越えないで走っていたのですが、単位はマイルだったのです。つまり実際の時速は80×1.6キロ=130キロ。猛スピードで走っていたのでした。こちらの人はゆっくり走るなあ、と思いながら追い越していたのですが、それは大きな間違いでした。よほどあわてていたのでしょうか? 

北の果てにあるインヴァネスまでは大変な距離でしたが、渋滞がなく、降りしきる雨の中とはいえ、印象的なドライブでした。道路の両側には潅木と草が生えた狭い平地。その先は山ほど高くない丘また丘。新緑の季節なのに山肌は赤っぽい。北海から吹いてくる氷のような風が土を吹き飛ばし、木が育てなくなってしまったのでしょうか? ほとんど人家が見えないのに、羊だけが離れ離れに白い点々となっています。こんなところに、と思うほど高い傾斜にも座り込んでいました。あの羊たちはどうやって家に帰るのでしょう? 牧羊犬にでも走り回ってもらわないと集められそうもありません。なおも降り続く雨、外気温は8℃、でしたので、残念ながら、この辺りの写真はありません。

インヴァネスに近づくにつれ、ネス湖が見え始め、樹木が増えてきました。森もあります。インヴァネスはコートで有名ということです。相方の知識です。永井荷風が着ていたコートのことでしょうか。ネス湖のほとり、北海に面した港であることでも知られた町です。

車で移動する間はホテルを予約しませんでした。イギリスの小さな町には、B&Bが並んでいます。ベッド&ブレックファストの略で、個人の家の一部を改造して旅人に使わせます。
夕食は近くのパブでとります。移動している間はこれを利用しようと思っていました。ただあまり遅くなると泊めてもらえなくなるので、インヴァネスの町は通り過ぎるだけで
当初から訪れたいと思っていた廃城に向かうことにし、ネス湖の反対側を南下し始めま
した。今度の景色は打って変わって水と森ばかりです。雨もあがってきました。道はネス湖に沿ってクネクネと続き、日本の信州、大町や青木湖の峠道を走っているようでした。やがて道標があり、脇道に入りました。5年ほど前に娘が訪れており、今回必ず行くように勧められていたアーカード城です。

修復せずにほぼ破壊されたままの城を見せるとは、スコットランド人は、なんと理にかなったことをするのでしょう。
人はここを訪れ、廃墟を隅々まで見ることになり、様々な事を考えざるを得ません。
数年前、相方の故郷である函館の五稜郭を訪れた時、白刃をかざして松林を駆け抜ける若者達の一人一人が目に見えるようでしたが、ここアーカード城でも、ニワトリを料理する台所の様子、王様と王妃を上座においての食堂の様子、城壁の隙間から敵に弓を引く兵士、投石機からものすごい勢いで飛び出した丸石が城にあたる様子等が映画のシーンのように脳裏を駆けめぐります。

 

<英国旅行記−4.フォートオーガスタスの町のB&Bとパブ>

もう午後4時に近かったので、アーカード城を後にし、泊まるところを探すため南に向かいます。道路は岩山を切り開いて作ったので、山側には剥き出しの岩盤が見えます。どこを切り開いても岩が出てきたのでしょう。天然の建材が幾らでも手に入るので、それが城の壁になり、道の舗装に使われたのです。英国は石の国でもあったのです。

ネス湖南端の町、フォートオーガスタスに入り、インフォメーションセンターを探します。どの町でもアルファベットの「i」という標識がその存在を教えてくれます。何軒かのB&Bを教えてくれました。大きな地図にも載っていない800人に満たない人口の町なのになぜ沢山の宿泊施設があるのでしょう?
紹介されたうちの2軒は休みでした。残りの1軒が「一人27ポンド(5500円ほど)でどうか?」というので、部屋を見せてもらうことにしました。狭いけれど清潔、居心地のよさそうな部屋だったのでOKしました。

荷物を入れるとき18才位の男の子が手伝ってくれ、リビングルームの横を通ったとき、壁に大きな剣が掛かっていました。「アーサー王物語」に出てくるような大剣で、先ほどのアーカード城でも、エジンバラでも売店で売っているものと同じものでした。また廊下の壁には世界地図が貼ってあり、いろんな色の小さなピンが沢山さしてありました。
荷物を解き、「パブ探し」を兼ねて小さな町の見物に出かけました。
この町は川がネス湖に注ぐ河口に作られた町でした。川には沢山の水門があり、両脇の土手が道になっています。橋に向かって歩いていくと、先ほどの「B&B」にいた坊やが友達らしき少年と歩いていました。あいさつをしてパブの在処を尋ねました。
「おいしい料理を出すところは?」と聞くと、
「あっちのパブです」と答え、
「ビールのうまいところは?」と聞くと、
「こっちです」と教えてくれました。
外国に来るとよく思うのですが、他国の人は老若男女、職業を問わず、きちんと挨拶をし、話を交わしてくれます
というわけで歩いても5分くらいの町並みを眺め、おいしい料理を出すパブに入りました。水門の脇に2軒並んでいるうちの上流側にあります。

とうに6時を過ぎているので、沢山の人がいましたが、驚いたことに一つの大きなテーブルに母親達と子供達のグループが陣取っていました。母親達はビールを飲みながらおしゃべりをし、子供達は宿題なのか、お絵かきをしています。カウンターではおじいさん達が大声で話し、笑いながらビールを飲み、奥のテーブルでは土地の人には見えないカップルが並んで話し込んでいます。

またもやギネスを飲みながら外を眺めていると、なんとなく人が集まってきました。パブにいる誰かが、「船が来た」と教えてくれました。
外に出てみると、河口の方、ネス湖から鈴なりの人を乗せた大きな船がこちらに向かってきます。川に入ってもかまわず進んできます。川いっぱいの幅と見上げる高さ(少なくとも3段のデッキがある)の大きさです。

数人の乗組員が船から乗り出してトーキーで指示を出し、慎重に船を進めてきます。クッションのプラステイック製の樽が幾つも船と護岸の間に下ろされています。乗客も川縁にいる人々もおもしろそうに見ています。相方を呼びに行き、二人で見物しました。
船はパブの前にある水門にぶつかりそうになって止まりました。それから船の後方にある河口側の水門が閉じられ、ゴウゴウと水が渦巻き始めました。どうやらパブの前の水門が下の方で少し開けられたようです。少しずつ水が増えてきました。
どうやらこの仕組みは船を川上に移動させる仕掛けらしいと気が付きました。ゆるやかな流れならさかのぼれるのですが、大きな落差があると船は航行できない。そこで幾つかの水門を設け、水を貯めたり、放出したりすることで、水位を上げる。船は上がった水面を次の水門まで進む。また後の水門が閉まり、前の水門が開き、水位が上がる。そうして次々と水門を越えて、ゆるやかな流れの所まで進ませる仕掛けだったのです。

何時間も掛かりますが、荷や人を運ぶのに遠回りしたり、巨大なエネルギーを使ったりせず、無料の水の力で移動できます。昔は水門を頑丈な木で作り、木の歯車を牛や馬を使って回したのでしょう。ギリシャ人かローマ人、もしかしたらレオナルド=ダ=ヴィンチが考えたのかも知れません。
パブに戻り、船の後姿を窓際の席から眺めながらそんな事を考え、またもや二人でフィッシュ&チップスを食べ、ほろ酔い機嫌でスコットランド人家族の経営する「B&B」まで帰りました。ヒースロー空港で買ったポケット瓶に入った「グレンフィデック」をコーヒー茶碗に指二本ほど注ぎ、半分飲んだところで眠ってしまいました。

<英国旅行記−5.湖水地方へ行く途中で出会った人>

次の朝、6時前に目が覚めてしまいました。カミさんはぴくりとも動かないので、顔を洗って着替え、外に出ました。
玄関脇の小庭のテーブルには白人がひとり、イスに腰掛けてタバコをふかしていました。サイクリストの格好をしています。
「おはよう」というと、
「おはよう。悪癖がやめられなくてね」彼は照れくさそうに、タバコを少し持ち上げました。
「私も同類」そう言って、イスに座りたばこに火を付けました。
「あんたは日本から来たんだね」
「そう。日本で庭を作っているんだ」
「そうか、いいねぇ。私はリヴァプールで弁護士をやっている」彼は少し顔をゆがめたようみえました。
「人と争うのは大変だよね。」わたしが言うと、
「そうなんだ、毎日神経が疲れてね。今回の旅は本当に久しぶりで、友人二人と来たんだ。楽しんでいるよ。」彼はうれしそうに言いました。
「それは良かった。」とわたし。
「良い旅を。」
互いに挨拶をし、彼は部屋へ戻り、わたしは門を出て朝の町を散歩しました。

朝のB&B 英国風朝食

散歩から帰り、おなじみの英国風朝食を食べ、支払いを済ませると、宿のご主人が、荷を運びながら、廊下の壁の世界地図の前で止まり、
「あなた達が住んでいるところにピンをさしてくれないか?」と言いました。
 沢山のピンがさしてあったあの地図でした。彼は、ただ泊めるだけでなく、お客がどこから来た人たちなのかを知りたい人なのだと思い、私は喜んでピンをさしました。
ピンはイギリスには山ほど、ヨーロッパ、アメリカ、オーストラリアにもたくさん、そして日本にも数本さしてありました。関東地方では私たちが初めてでした。

この日は、はるか南、湖水地方の入口の町、ケズウイックに向かいます。長旅です。ガソリンは前日夕方に満タンにしておいたので安心して走れます。
スコットランドを走破し、イングランドに向かいます。
緑が多くなり、その間を川がクネクネと縫うように流れる景色がしばらく続きます。

昨日のエディンバラからインヴァネスまでの荒涼とした景色とは、なぜこうも対称的なのか? エディンバラの北にある、ゴルフの聖地、セントアンドリュースのオールドコースの景色、あれが北海側の代表的な景観なのです。
昨日は真北に走り、インヴァネスでUターンし、その後コースを南にとっているのですが、少し西に角度を開いています。その開いた間に多少の高地があり、北海からの冷たい風を防いでくれているのだと思いました。その地形ゆえに、ここには緑豊かな景色が生まれたのでしょう。
その高地に守られた西側にも、北海の風が吹き込んでくるところがありました。それがグレン・コーの地形となって、わたしたちの目を驚かせました。
この峡谷には悲しい歴史があります。グレン・コーは、カトリックとイギリス国教会との争いで、呼び出しに応じない多くのカトリック住民がイギリス軍に虐殺された場所です。

グレン・コーの峡 グレン・コーの谷

英国の道路事情ですが、幹線道路は専用道路ですべて無料です。ここにヨーロッパの合理性を感じます。道路は経済の動脈であるから、常に滑らかに移動してもらい、効率よく流通するようにする。これはローマ時代からの伝統だと思います。反対に日本ではできるだけ障害を設け、各地方同士の交流を妨げる、そういう歴史だった気がします。徳川幕府からは特にそうなったのだと思います。
もう一つ感心することがありました。それはトラックの走行です。
決して他の自動車を妨げません。左車線をきっちり一定速度で走っています。道路の重要性をよく認識しているように思えます。運転手は経済を支える職業であり、荷を確実に目的地に運ぶことが仕事で、それがプロである、という誇りを感じます。
プロの誇り、といえば・・・昔、プレイしたことがある、カナダのゴルフ場でスタート係として働く70才を過ぎた女性、去年行ったフィレンツェの町の80才の女性ガイド、二人とも毅然とした美しい女性でした。最初に英国に来たときの、キューガーデンでレンガの壁をひたすら積む職人の親方と助手、前回の時にはバースでアプローチに砂岩の手すりを付ける職人、今回はエディンバラのショー会場でガーデンデザイナーと、出会いましたが、わたしが話をした人々は、男性も女性も自分の仕事の意味を認識し、こちらの気持ちまで明るくしてくれるような誇りと喜びを仕事に感じているように思えました。
いい学校へ行き、一流企業に就職することが良いこととされてきた日本。他の職業は価値がないとでも言わんばかりですが・・・どんな職業も無くては困るものばかりです。頭ではそのように思っても、日本では働く人々自身がその誇りや喜びを口にすることは稀のようです。
運転しながら、そんな事を考えているうちにおなかがすいてきて、サービスエリアに入りました。入口を入ったとたん、ドッグフードときれいな水がおいてあるのに気がついて、びっくりしました。

サービスエリアのドッグフード

<英国旅行記−6.ケズウィクと英国の芝生>

ひたすら南下します。目的地の湖水地方までは丘陵地帯です。
気温が高くなって、もう上着はいりません。スコットランド最大の都市グラスゴーの手前で、「ロッホ・ローモンド」という湖に寄ったのは、カミさんが隣でしきりにそういう題名の歌を懐かしがっているからでした。
「どうしてそんな歌を知っているの?」私が聞くと、
「小さいとき、みんなで歌っていたからよ。なぜ知らないの?」
逆に聞かれてしまいました。そして歌ってくれたのですが、聞いたような、知らないような?

そうそう、彼女の祖父は函館の英国国教会の牧師でした。中学まで、教会の牧師館で、伯父さんや叔母さんも一緒に、大家族のなかで育ったそうですから、そんなことで知っているのでしょう。まあ、違った環境で育ったのだから仕方がないのですが、30年連れ添っていても、知らないことはあるものです。

湖畔のショッピングモールで、昼食をとり、スコットランド民謡のCDを買いました。このCDの最初に、ギター演奏の「ロッホ・ローモンド」が入っていました。ゆったりとした美しい曲です。このCDはそれからのドライブにいっそうの喜びを与えてくれました。

ローモンド湖をでてすぐ、スコットランド最大の都市、グラスゴーに入りましたが、車と人の流れがものすごく、街を少し走っただけで国道に戻ってしまいました。そしてやはり大都市であるマンチェスターは、バイパスを使って通りすぎ、一路、カミさんのあこがれの地、湖水地方に向かいました。

夕方、日本で買った案内書で決めた今日の目的地、ケズウイックに着きました。地図の上では、湖水地方の北の入口に見えます。
町に入ったとたん、カミさんが当惑顔です。
「どの家も全部B&Bじゃないの・・・しかも・・・ちょっとケバくない?」
気に入らなくても、次の町に向かう時間はありません。とりあえず宿をきめたのはいいのですが、4階の屋根裏部屋まで荷物を運びこむことになりました。狭いけど、ベッドとトイレは清潔なので、寝るだけだからと諦め、車にガソリンを入れにいきました。

こちらのガソリンスタンドはすべてセルフ、自分で燃料を入れます。以前この国に来たとき、このセルフ形式には面食らったものです。スタンドに車を乗り入れても、中からは誰も出てきません。スタンドは日用品や飲み物、スナックなどを売る店を兼ねており、店内のレジに人がいるだけです。ですから、乗り入れたら、挨拶抜きで、乗っている車がガソリン車なら「ペトロール」と書いてあるメーターの所に車を横付けし、車のタンクの蓋を開け、給油管を差し込み、さっさと引き金を引いて満タンにします。終わったらホースを戻し、店に入り、笑顔で「幾ら?」と聞いて、言われた額を払うのです。

さて、ケズウイックのスタンドに車を乗り入れ、燃料を入れようとメーターの前に立ったとき、隣に車が止まり、若い金髪の女性が出てきました。自分の前のホースを指さし、「これはガソリンかしら?」と聞きます。メーターを見ると「ペトロール」と書いてあるので「そうです」と答えました。彼女は「ありがとう」といってガソリンを入れ始めました。

答えた後、こんな風に、イギリス人が外国人の私に、自分の国のガソリンの事を聞くなんて、とおかしくて、思わずひとりで笑ってしまいました。
自分のガソリンが満タンになって、ふとメーターを見ると、「ハイオク」と書いてあります。いけない! この車はレギュラーガソリン仕様だった。でも、もう遅い。
店に入ってお金を払い、レジの男性に「ハイオクを入れてしまったよ」と言ったら、「大丈夫。レギュラーガソリンより遠くまで走れるよ」と、笑顔でなぐさめてくれました。

宿に戻り、建物の前の路上に隙間を見つけ駐車しました。たて込んだ家々の前にはぎっしりと車が並んでいます。向かい側に止まった青い車は、半開きになったトランクに布がかけてあり、中からしきりに、犬の吠え声がしています。
「ずうっとあそこに置かれっぱなしかしら・・・」
カミさんがしきりに気にします。息子と留守番している家の犬を思い出したのでしょう。

町の中心までいきました。建物や店がさまざまな色に塗られています。
裏通りでは多くの住宅がB&Bの看板を掲げ、表通りには店が並んでいるのですが、よく見ると、あちこちに「FOR SALE」という貼り紙がしてあります。家の窓のガラス越しに、家具のないがらんとした部屋が、店のウインドウ越しにやはり何も置いていない内部が見えます。通りにはゴミが落ちていたりして、歩いている私たちは落ち着かない気分になりました。どうしてこんなに売家や、売店舗が多いのでしょう? ここは以前、観光地として売れすぎてしまい、町中で商売をして、今は斜陽なのでしょうか?

産業革命以後の発展で、地方の格差が出て、その時代に取り残された所は今になって町としての落ち着きが残っており、当時景気のよかった所は古いものが壊され、荒れてしまったのかもしれません。あるいは、わたしたちがここ数日、あまり人気のないスコットランドの町々で、昔の姿のまま保存された端正な町並を見慣れていたせいで、この風景に違和感を持ったのかもしれません。
観光客で騒がしいパブに入り、フィッシュ&チップスを食べ、さっさと宿に帰りました。長いドライブで疲れていたのでしょう、またまたすぐ寝てしまいました。

次ぎの朝早く目を覚ますと、やはりカミさんはピクリとも動きません。散歩にでました。町とは反対側に足を向けると、すぐ裏を川が流れ、向こう岸に緑が濃く見えます。昨日の町中とは打って変わって魅力的な風景です。宿に戻り、おなじみの英国風朝食をすませてから、カミさんを誘い、もう一度散歩に出かけました。
大きなニレの木の間の道を歩いていくと、朝日に緑がまぶしく輝くばかり、みごとに手入れされた芝のグラウンドがあり、おじいさんがひとり、棒に網を張ったものを引きずって、芝生の上をゆっくり歩いています。端から端まで一歩ずつ行っては引き返しています。

「Good morning」声をかけてから、「何をしていらっしゃるのですか?」尋ねると
「ここはローンボウリングコートじゃが、芝生の表面の露を払っているのじゃ」
と答えてくれました。「なぜですか?」ともう一度聞きました。
「水分があると病気になるからじゃ」 
日本ではコウライシバが多く、湿気には強いのでそういうことはしません。
「毎日ですか?」と再び私。
「そうじゃ」うなずいて言います。
お礼を言ってから、先へ歩いていくと、風格のある建物の前に、広大でシミ(病気)一つない芝生のラグビーコートが広がっていました。犬を放して遊ばせている人達がいます。
カミさんは遊んでいる犬たちをしきりに眺めています。建物は美術館のようですが、まだ早すぎて、開いていませんでした。

グラウンドの片隅にフェンスで囲われた一角があり、わたしはそちらに歩いていきました。滑り台、ブランコ等が置いてあります。地面は芝生です。そこで作業員が二人、芝刈りをしていました。じっと見ていると、ほほえみながら軽く頷いてくれました。
「Good morning」声をかけてから「刈った芝生はどう集めるのですか?」と尋ねると、
「ブロワーだよ」と答えてくれました。ブロワーは空気を吹き付けてゴミや切りくずを飛ばしながら寄せる機械で、これは日本と同じでした。
「ここは何ですか?」と尋ねると、
「大人が試合をしたり、観戦している間、安全に子供を遊ばせておく場所だよ」
と教えてくれました。お礼を言って離れました。

宿に戻る途中の川縁に、木製のベンチが並んでいます。ベンチにはプレートがついていて
「○○の思い出に。彼はこの景色を生涯愛していた」と刻まれています。
故人を思い起こすためか、イギリスではどこでもこのようなベンチが置かれています。
風景と思い出を愛する人々。残った者は故人を偲びベンチを寄贈する。やがて彼も死に、友人または家族がベンチを寄贈する。代々引き継がれる習わしのようです。

<英国旅行記−7.コッツウォルドのボートン・オン・ザ・ウォーター>

ケズウイックをでて、一気にコッツウォルド地方へ。長い長いドライブです。
ここはカミさんが友人に書いた言葉を借ります。
「ウインダミア湖を横目で眺め、ピーター・ラビット、ワーズワースもパスして、ウインダミア
街を抜け、ひたすら南へ。」
ウインダミアは通り過ぎるだけでいい、ケズウイックを出るとき、カミさんが言いました。旅行前には、小学生のころの愛読書、アーサー・ランサムという作家の「ツバメ号とアマゾン号」シリーズの舞台となった湖水地方でゆっくりしたい、といっていたのに・・・
どうした心境の変化でしょうか? 

コッツウォルド地方は、わたしが今回ぜひカミさんに見せたい、と思った場所です。
夕方、やっとコッツウォルド地方のボートン・オン・ザ・ウオーターに着きました。
町を一回りし、コッツウォルド・ストーンでできた、ゆったりとしたインを見つけました。同年輩の女性が二人、入り口付近でおしゃべりをしているのを横目で見ながらモーテル・スタイルの宿の駐車場に、車を入れました。
片方がここの女主人のようでした。表情豊かでユーモアを感じさせるその女性は、早く犬の散歩に行かなくちゃ、と言いながら、宿泊を受け付けてくれました。隣のパブもうちの経営だ、と言って。

荷物を部屋に運び、散歩に出ました。インの角を曲がると大通り。
町並はその通りに沿っており、その通りは小川に沿っています。水の上のボートンとはよく言ったものです。この川に沿って他の町も、○○・オン・ザ・ウオーターと呼ばれています。
木々が浅く澄んだ流れにかぶさり、道と川に陰を投げかけています。川辺に、町の人が犬を連れて散歩する姿がちらほら。観光客はそこら中。歩いていたり、座っていたりするのですが、全体として、静かでのんびり、のどかな雰囲気です。

川岸はすべてコッツウォルド・ストーンで護られています。敷地と大通りの境の石垣もコッツウォルド・ストーンの空積み。この町はすべてが、柔らかい褐色砂岩であるコッツウォルド・ストーンでできているのです。

町を一回りした後、まだ明るいのですが、モーテルの隣のパブに行きました。外には日よけのアンブレラとテーブルが十数席あり、ほぼ満席。空いている席をみつけ、まず一杯。二人でギネスを飲みました。
ギネスを飲みながら、スコットランドの事を思い出していました。
エディンバラのホテルの近くのパブ、「タス」で働いていた学生のことです。エディンバラ大学の一年生で、みごとな日本語で答えてくれた彼が、ギネスをついでくれたのですが、その泡の表面に、あざやかな四つ葉のクローバーが描かれていたのです。
飲もうとした私たちふたりは、それを見て驚き、彼のほうを見ました。すると彼はニッコリと笑顔を返してくれました。
描くところを見たくて、お代わりを注文しました。カウンターに行き、手元をみていると、ビールを注ぎ終えた後、コックをわずかにひねり、したたり落ちるビールのしずくを泡で受け、少しずつグラスを回し、みごとなクローバーを泡の表面に浮き上がらせたのでした。
「すごいね!(Good job!)」というと、
「どうも」と答え、ギネスのグラスを渡してくれたのでした。

このボートン・オン・ザ・ウォーターのパブのギネスには何も描かれてはいませんでしたが、同じように居心地の良いパブでしたので、涼しい屋内のテーブルに席を移し、フィッシュ&チップスを注文し、二杯目のビールを傾けながら料理が来るのを待ちました。
ジャンパーを来た近所のおじさん、みたいな人が、テーブルで待つ奥さんにビールを運ぶ途中で足を止め、私達二人に話しかけてきました。
ひとしきりしゃべるとペコペコと何度もお辞儀をしました。
どうやら、観光バスのドライバーで、今日一日乗せていた日本人観光客達のことを話しているようです。
「いやぁ・・・今日はたいへんだったよ。あんたたちみたいな人たち(きっと日本人という意味でしょう)をいっぱい乗せて、色々なところに案内したけど、バスを乗り降りするたびに、ひとりづつお辞儀をするので、こっちもいちいちお辞儀するのがたいへんだったよ〜」
みたいなことだったんでしょうか? 
早口でなまりの強い英語、ほろ酔いのわたしは、よく意味がわからず、多分こんなことでは〜? と訳してくれたのは、想像力たくましいが、ほとんど英語のできないカミさん。
なにはともあれ、彼は全部話して気分がすっきり、したのでしょう、わたしたちのテーブルに持っていたグラスを置いて、わたしと力強い握手をかわし、にこにこと上機嫌で奥さんのもとへ帰っていきました。

料理を食べ、ほろ酔い気分のまま部屋に戻りました。
エディンバラのホテルのあと、2日間泊まったB&Bではシャワーだけでしたから、久しぶりに手足を伸ばしてゆったりつかったバスタブに、疲れが溶け出していくようでした。日本人には大量のお湯が必要らしい。

窓の外は庭です。様々な調子の鳥の声が聞こえてきます。
とくにふくろうがおしゃべりだとわかりました。いろんな高さの声が飛び交う中で、低音で話す二羽の会話がいつまでも続きます。
一羽が「ほー、ほー」としゃべると、違う方向から「ほー、ほー」と答えます。
これが際限なく続くのです。
「しっかり会話しているよねぇ。」
「おしゃべりだねー 何を話してるのかしら?」
カミさんとふたり、いろいろな声にしばし耳をすませて、感心することしきり。
私が日本で聞いたふくろうの鳴き声は、二年ほど前に千葉市稲毛区の住宅地の真ん中の鎮守の森で、あとは35年も前、小学生だった頃の八千代市の住宅地でした。生きていて、いろいろな仲間と共にある、と知ることは嬉しいことです。
鳥たちのおしゃべりは耳に心地よく、二人ともいつの間にか寝入ってしまいました。

<英国旅行記−8.英国の宝石・バイブリー>

次の朝、少し遅く目覚めました。まっすぐ食堂に向かいました。それでも一番早く、泊まり客は誰も席についておらず、一番奥のサンルームの窓際に座りました。
昨晩の鳥たちの会話の場所でしょうか、緑濃い裏庭に面しています。
ここでたっぷりと、またゆっくり外を眺めながら朝食を楽しみました。

食事を終えて帳場の前を通ると昨日の女主人が座っていました。
「これから何処へいくの?」と聞かれたので「バースです」と答えると、
「バースはとてもいい町よ。でもせっかくコッツウォルドにきたのだから、バースへ行く前に、バイブリーに行きなさい。絶対お勧め。ここを見ないとコッツウォルドにきた甲斐がないわ。ほんとうにきれいなところよ。」と力説します。
こんなにもきれいな町の住民で素敵な女主人のお墨付きなら間違いなし、とばかり
「わかりました。是非行かせてもらいます。」と答えました。

バイブリーはコッツウォルド丘陵地帯でも幹線道路から離れたところにあります。女主人が教えてくれた横道は、なんと工事中で通れません。工事をしている人に聞いてみると、最初は「行けないよ」というけんもほろろの答え。
私たちがよほど落胆した表情をしたのでしょう。
「ちょっと、待って」と考え込んでから、ずいぶん先のほうにもう一本道路があるはずなので、そこから曲がれ、といいます。
確かに道はありました。しかし車がやっとすれ違える位しかない農道です。走りながら不安がよぎります。道沿いにあるのは農場ばかりで、たまに何世紀もたったような古屋があります。あたりには人っ子1人歩いていないので、聞いてみる相手もいません。
不安なまま走っているうちに、まっさらのコッツウォルドストーンでできた高い石垣に囲まれた豪邸が出現しました。「すごい家だねぇ、写真撮ろうか」、といって車を止めました。そして上を見ると、なんと、その家の前にバイブリーの名前が入った道標がたっているではありませんか。


標識の方向に走っていくと、突然鍋の底のような空間に出ました。
ひときわ目立つのは交差点に立つホテル。名前はスワン。白鳥の看板がかかっています。100年は経っている手書きの古看板です。ホテルの前に沼と清流があり、観光バス、乗用車がひしめく駐車場があります。清流にはあひるや白鳥が沢山。雛達が親鳥に遅れまいと必死に水をかいていました。
そして人、人、人。
歩いている人々の行く先を見ると、イーゼルにたてかけたキャンバスを前にした一群。絵画教室でしょうか? 近づいてみると、年配の方を中心としたサークルのようで、40代の男性が1人、このひとが講師なのでしょう、それぞれのイーゼルの脇に行って、指導をしていました。

この人たちが描いているのは、小さな坂道に沿って立つ長屋風の家並でした。かなり軒が低く、ほとんどの人が頭を下げなければ入れそうもないほどです。数百年は経っていると思われました。
アート&クラフト運動で知られたウイリアム・モリスが「英国の宝石」と絶賛した村、ビクトリア時代のバイブリーは、土の道がくねり、澄んだ水が流れる、のどかで美しい場所だったのだろう、と想像できました。
しかし、今のバイブリーは大型バスを連ねて観光客が押し寄せてくる観光地です。
生活している人の為にも、観光客にとっても、すべての車両は村の入り口で止め、道はアスファルトでなく砂利敷きにし、観光客は歩いてか馬車に乗ってでしか村に入れないようにして欲しい、と切に思いました。

スワンホテルで一休み。コーヒーを飲んでから、一路バースへ向かいます。
私にとってバースを訪れるのは2回目です。最初に訪れたのは5年前、娘と息子を連れて3人で来ました。今回は英語の風呂の語源となったローマ時代の公衆浴場を、ぜひ、カミさんに見せたかったのです。
船と徒歩でこんな遠く地の果てまでやって来て、戦い、征服し、なお数百年駐留していた古代のローマ人はなんてすごい民族なのだろう。最初にここを訪れて古代ローマ人に興味を持った私は、その後の5年間で、塩野七生の本をほとんど読んでしまいました。

デパートの駐車場に車を止めローマ風呂へ行きました。ここは100年位前に市民から地下室に水が溜まるという苦情があり、バース市役所の一建築技術者が調査しにきて発見した場所だそうです。実に6mもの土を取り除いたそうです。
今でも温泉がボコボコと地下に涌き出しています。その源泉のあたりは昔のままの姿を見ることができます。このようなローマの遺跡をまのあたりにすることができるのは、本当にすばらしいことだと思いました。
さて、お風呂を見たらバースからロンドン方面へ向かいます。1日では着かないので、どこか途中で宿を見つけます。

<英国旅行記−9.ホワイトホースとオックスフォード>

バースからオクスフォードへ。スコットランドから比べたら格段の暖かさです。もうすぐ夏です。見渡す限り緑に包まれ、菜の花畑が満開です。草を食んでいる羊に加え牛の姿が目立ちます。北の動物たちより、大きくてゆったりして見えます。

田園風景のかなたに丘陵地帯が見えてきました。その山腹に、巨大な白馬が走っている姿が描かれています。車が進むにつれ、幾つも出てくるのです。この一帯の地図には「white horse 」と書かれた場所がたくさんあります。しかし、それが何なのか、どこにも書いてありません。他の地域の地図にはこんなものはありませんし。
「いったいあれは、なんなの? 」と言いながら車をとばしているうちに日が傾いてきました。このまま走ってもオクスフォードに着くのは夜になってしまいます。

途中の町、マルボロに泊まることにしました。案内書にはなんの紹介もない町ですが、タバコと同じ名前に惹かれました。もっともタバコとは綴りが違うので、正確にはマールバァラとでも発音するのかもしれませんが。

マルボロ(と呼ばせてもらいます)は賑やかな町で、中央の通り沿いに、ショップ、ホテル、パブが軒を連ねています。夕方のせいか犬を連れた人が多く、車の中で吠えている犬たちもいます。ここは、パブの2階がB&Bになっているところが多いようです。
最初行ったパブの2階の部屋は、あまりに狭いので、断りました。
次に行ったパブで、飲み物を頼み、壁に何枚も飾られた犬のレースの絵を眺めていると、今日はいっぱいだ、と断られてしまいました。少し先に、もう一軒在るよ、と教えられ、行って見ました。

3軒目のパブで、バーテンに泊まりたいと言ったら、「ちょっと待って」といって電話をかけました。あっという間に豆タンクのような赤ら顔の男がふっとんできました。
主人のようです。短く刈り上げた頭を軽く下げた後、彼は「泊まりたいというのはあんた達か?」と、言うのですが、なんだか、「本当に泊まりたいのか?」と言っているように聞こえました。
「そうです」と答えながら、もしかしてこの親父は泊めたくないのかも、と思い、やめようかな、と考え始めたら、どうやら彼は、B&Bの看板を出してあるのを思い出したようで「部屋を見るかい?」と、やっといいました。
親父がパブの奥にあるドアを開け、狭い階段を上り始めたので、一緒についていきました。廊下の突き当たり、一番奥の部屋のドアを開け「ここだがどう?」と聞きます。

のぞいてみると、清潔そうに見えたので「幾ら?」と聞くと、「一人30ポンド」という答えです。高い、25ポンド、と値切ろうと思いましたが、「じゃあ泊めない」と言われそうだったし、廊下の窓から、階下のパブでみんなが楽しそうに飲んでいる声がきこえてきていて・・・私は「OK」と言ってしまいました。右手を差し出すと、赤ら顔の主人は、突然人なつっこい笑顔になり「よかった」と言い、握手を返してきました。
部屋に荷物を運びこんでみると、なんとベッドが3つあります。セミダブルがひとつと、シングルが二つ。まあ、いいか、足りないわけじゃないから、とカミさんと顔を見合わせ、余分なベッドの上に荷物を置きました。

おなかがペコペコです。階下のパブに向かいました。ギネスとフィッシュ&チップスを注文しましたが、食べ物はない、とすげない返事。テイクアウトの店があるというので外へ出ました。店はすぐ近くで、看板に「フィッシュ&チップス」とあります。ドアを入るとキッチンとカウンターと土間だけ。数人のアジア人が働いていました。カウンターの後の壁に、港にジャンク(帆掛け船)が浮かんでいる大きな写真が貼ってあります。きっと香港の人たちなのでしょう。これが本当のジャンクフード? と独り言をいいながら、パブに戻ってカミさんと食べてみると、意外においしかったのです。白身の魚肉も新鮮、ポテトと共にカラっと揚がっておりました。あっという間になくなり、もう一回買いに行きました。

おなかが落ち着いてから、バーテンダーの女性に、ここへくる途中で見た山腹にある白馬について質問しました。彼女は、知らないわ、と言って、年輩の常連らしい人に、訊いてくれました。彼は「このあたりの山は石灰質だから削ると白い面が出てくる。昔は、値の張る馬を持つことはステイタスだったから、領主が自分の山に馬の形を削りだして、馬を持っていることを誇示したのだろう」と説明してくれました。
そこにいた一同で、なるほど、と納得したことでした。

(注)white horseについて

旅の話としては、文中に書いてあるとおりなのですが・・・
少々気になって、その後、調べてみますとwhite horseは謎が多い史跡でした。
下に参考になるページをご紹介いたしますのでご興味のある方はどうぞご覧くださいませ。

ホワイトホースの写真(Wiltshire の White Horses)S.Kurata氏のHP

英国探検隊のHP(日本語です)

ウエストベリーの白い馬(日本語)

オクスフォードカテゴリー(英語です)
このページはyahooの機能で翻訳してくれますので、日本語で読むことができます。


次の朝、誰もいないがらんとしたパブで、おなじみの英国式朝食を食べ、オクスフォードに向け出発しました。
オクスフォードは大きな町です。むかし娘と来た時はロンドンからコッツウオルドに向かう途中に町をかすめただけでしたので、今回はゆっくり回ろうと思っていました。
町営の駐車場に車を置き、販売機で駐車券を買い、裏紙を剥がして車のガラスに張りつけました。

町を歩きました。すごい人です。観光客のようです。町の中心地に、おなじみの2階建観光バスをみつけ、乗り込みました。大きな都市には必ずこのバスが走っています。
バスの2階に上がり、屋根のない座席に座り、風に吹かれ、イヤホンで日本語の案内を聞きながら、ゆっくり進んでいくと、見知らぬ町が身近に感じられてきます。
さっき何気なく歩いて通り過ぎた建物が、この町では有名なカフェで、C・S・ルイスやトゥールキンが終日議論していた、とか、ごちゃごちゃした狭い間口の建物が、実は世界最古の本屋さんだった、などと聞くと、建物の中をのぞいてもみないで、さっさと通り過ぎてしまったことが、勿体ないような気がし始めます。

それにしても、各カレッジの建物の豪華なこと。それぞれ、石造りの外壁の装飾に意匠を凝らし、宮殿のように見えます。中はどうなっているのでしょう? 
有力な財界人が、競って、各カレッジに、私財を投じてきた歴史も語られます。
トリニティ・カレッジの庭は美しく整えられ、バスの座席からのぞいただけでも、緑が美しく、富裕な貴族の館かと錯覚してしまいます。説明がなければ、このなかにいるのが学生達だなんて想像もできません。
あるカレッジの前では、天才詩人シェリーが、けっこうなワルで、どんちゃん騒ぎの末に自分たちのいる建物に火をつけ放校された、などという説明もありました。我が家の犬に、響きが素敵、とか言って、「シェリー」と名づけたカミさんは少々あせっていましたが。
詩人シェリーの二度目の奥さんのメアリは「フランケンシュタイン」を書いた人です。わたしはそれを英国に来る飛行機の中で読んでいた推理小説で知ったのですが・・・
ま、そんなことから、奇人変人の集まるところかしら、とも思いました。
なにはともあれ、りっぱな館が建ち並ぶ、学究都市オクスフォードが、今も昔も英国の政治・経済、芸術・科学・哲学を支え、世界に大きな影響を与え続けているのでしょう。
バスツァーが終わってから、イタリアンレストランに入ってみました。なぜかパスタがアルデンテではない。昔、給食に出たスパゲティより柔らかい。
「イギリスの人ってなんでもかんでも柔らか〜く煮込んでしまうのよね」
食べながら、そう言っていた娘の言葉を思い出しました。ここはイタリア人がやっていると思ったのですが。どの国の食べ物も、日本で食べるのが一番美味しいのかもしれない。

オクスフォードを後にし、ロンドンへ向かいました。初めて本格的な渋滞にあいました。ロンドン中心部は、渋滞税を払わないと車で入ることは出来なくなっています。税は渋滞を緩和する為の処置なのでしょうが、効果は出ていないようです。
税は前払いで、私たちは払っていなかったのですが、予約していたホテルは、課税対象地域の境界線の外側にへばりついており、違反にはなりませんでした。
レンタカーを戻しにいき、いつまでも日が暮れないロンドンの夕方、ゆっくりとハイドパークを散歩して過ごし、最後の夕食もやっぱりパブでギネスとフィッシュ&チップス。

ホテルの庭には今を盛りとバラが咲き乱れていました。午前中は、その庭でゆっくりと過ごしてから、午後一番の便で日本に向け出発しました。

成田に着くと梅雨でした。むっとする空気が、体にまとわりつきました。
1ヵ月とたたないうちに、わたしたちが泊ったホテルからさほど遠くない場所であのテロが起きました。

最後に、英国を訪れて思ったことをいくつか。

  1.  彼らが国土(風景)を愛していることです。どこに行ってもそれを感じることができました。道路に必要な標識はあるけれど、風景の中に広告の看板が出現することはなかったし、建物は町ごとに、色も材質も統一されていました。
  2.  旅は、他国の風景の中に身をおいて自分を知ることでもあるようです。人は住む場所に産するもの、水、石、土、植物、を使うことによって同一性(文化)を獲得します。
  3. かつて美しい遠浅の海の風景を持っていた東京湾の風景は変わってしまいました。アサリを取り、海苔が干されていた風景は、近代的なビルの居並ぶ国際都市になりました。伝わるべき風景の消失はつらいものと改めて思いました。
  4. 英国で見た地方の良さは、日本の良さも教えてくれました。日本に今も残る各地の風景を思い浮かべると、楽しくなります。有名な観光地だけでなく、地方の山々、森、海、川、丘陵、里山など、大事な財産です。
  5. 英国の風景は牧畜と農業で成り立っています。遊ばせている土地は見あたらず、必ず何か作っています。それがまた風景を維持しているのです。
  6. 知性とは、風景を大事にすることだと、つくづく感じました。 

<補足>
都市であろうと田園であろうと、(また、観光地など人の行く)自然であろうと人を取り巻く風景を強引に変貌させたり、消失させてきたものは、知性を持つものとはいえないと思います。

永井荷風は、東京市がどんどん風景を壊すとよく嘆いていました。
彼はアメリカ、フランスの銀行に勤め、生活をしていた人間ですから、他の国の都市風景を良く知っていました。江戸時代を過ぎて少ししかたってない東京の風景を持つ日本は、決して諸外国に対して恥ずかしく思う必要はなく、かえって壊している方が野蛮であり、無知であると看破していたと思います。

(事務局注1)
永井荷風の「震災」という有名な詩があります。「今の世のわかき人々 われにな問ひそ  今の世と また来る時代の芸術を。われは明治の児ならずや。その文化歴史となりて葬られし時 わが青春の夢もまた消えにけり  (以下 略)」に小出君が言わんとすることは表現されています。
近所に幾らでもあった、神社仏閣、サクラの名所、どこからも見える富士山、運河など。そんな江戸の風景をいつも夢想してしまいます。
それで池波正太郎の本もほとんど読んでしまいました。新作が出ないのが寂しいです。

そんな風景を今もヨーロッパ諸国は持っているのです。

(事務局注2)
池波正太郎の小説はもちろんですが、『江戸切絵図散歩』に江戸の懐かしい情景が触れられています。

長い間、つたない文章を読んで頂いた方に心から感謝いたします。

<補足−FISH &CHIPSについて 小出知恵子>

わたしは10年ほど前に一度だけロンドンに3日間いました。
そのときはシェラトン・タワーという結構なホテルの結構な部屋に泊っていたのですが、このときの食事のまずさには閉口したものです。
朝食は豪勢なワゴンで素敵なボーイさんが部屋に運んでくれるのですが・・・

かごに山に積まれた見かけ上美味しそうなパンの山は一口食べただけで、ご勘弁を〜(ーー;) というものでした。
卵もベーコンもなんだかかさかさしてるの・・・
オートミールは見ないほうがいい様なもので。。。。

案内書にある町のレストラン、ホテル内のレストランも美味しくないし、ついにはホテルの近くの高級デパートのデリカテッセンで、野菜や果物、ハムなどを、買ってきて、部屋で食べることと相成りました。

最後の日に、たった一回だけ入ったPUBで食べたシチューだけがまあまあ、まっとうな味でした・・・
このときはFISH&CHIPSは食べていません。

(この経験から、その後、わが夫さんはイギリスに行ってPUB以外のレストランには入らなくなったようですが、なぜか彼もFISH&CHIPSは食べていなかったようなのです。)

このときは、ロンドンのあとにパリに行ったのですが・・・
何を食べてもどこで食べても美味しくて生き返った思いでした(*^_^*)

ホテルの朝食のぱりっとしたクロワッサンはいくつでも食べられちゃうし・・・
町のカフェの料理は、フランス語が読めないので行き当たりばったりに頼むのですが、偶然でてきたとろっとしたチーズの上ににんにくをぱらっと散らしたものなどぱりぱりのフランスパンとワインで、きりもなく食べてしまい・・・
お肉もお魚も、けっこうな量なのに、平らげてしまいます。
屋台で売っているようなバゲットサンドでさえ美味しいのです。

ドーバー海峡を隔てただけの二つの国の食がこんなに違うのは驚異としか言いようがありません。

今回の旅行では、ほんとに美味しかったのは、エディンバラのホテルの朝食と同じくエディンバラのTASSというPUBのFISH&CHIPSでした。
これは魚もポテトも黄金色に揚がっていて、あつあつほくほくって感じで・・・
モルトビネガーというあまりすっぱくないお酢をふんだんに振りかけて食べるのですがとっても美味しかったです。

エディンバラのほかのPUBの料理は(牛肉の料理やサーモンを頼んだのですが)、ビールをのんだ勢いでちょっと手をつけただけで、ほとんど残しました。

各地で別のものも食べているのですが、食べなければいけないので、食べていただけです。
南へ下るほど食生活は貧しくなりました・・・というか値段は高いのに美味しくなかったってこと。

で、結局一番ましで、まぁまぁ美味しいねっていうのはFISH&CHIPSしかなかったし、それさえ頼んでおけば、ま、ひどい目には合わない、ということだったわけです。

ところで黄金色にあがっているFISHの衣はいったい、なんなのかしら?
しょうゆであるわけはないし・・・塩や胡椒だけであの色は出ないし・・・
帰ってきてとても不思議に思い調べてみましたら・・・

あれはビールなんです♪

で、家で、粉とベーキングパウダーを冷たいビールで溶いて(卵も入れてしまいましたが)
この衣を、たらやかれいといった白身の魚につけて揚げてみましたら・・・
とっても美味しいFISHのできあがり。要するにフリッターなんですね。

イギリスではどこにでも置いてあるモルトビネガーが手に入らなかったので、ミツカンで出しているドレッシング・ビネガーというのを振り掛けるとそっくりな、お味に。
レモンを絞ってもいいですがちょっと酸味がきついかもしれませんね。


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