「北朝鮮レポート」
 

喜田 茂

はじめに

3年I組で超劣等生でした喜田です。高校時代は本当に地味でおとなしく、またお付き合いも悪く、大変申し訳なかったと反省してます。

皆様本当にお久し振りです。二十数年振りに皆様にお会いできるのを楽しみにしております。

ご挨拶がわりに、この二十数年間に、当方の経験した特異の仕事のお話を少ししたいと思います。

1.北朝鮮との貿易

昭和48年に大学を卒業し,約1年間証券会社に勤めましたが、どうしても貿易の仕事がしたくて、また貿易の実務を勉強したいと思っていましたので、先輩の紹介で、ある会社に入りました。

ところがこの会社とは、今、マスコミで大変騒がれています北朝鮮と貿易取引している会社でした。

当時は、私は貿易取引を通じ、日本と北朝鮮の国交回復のお手伝いでも出来ればと、思っておりました。昭和49年のことです。この会社で約10年間、貿易に従事しました。

この頃は、北朝鮮も外貨に多少の余裕もあり、また大手商社も取引を続けておりました。当方の仕事は、各種プラント類の輸出及び建設、鉱山設備の納入、水産物資源の開発等、幅広く、またかなり面白い仕事をさせてもらいました。北朝鮮での滞在期間は、延べ2年半程に及びます。

今、振り返りますと、この間に例の拉致問題が進行していたのでしょう。

最近になって、ご近所の人達に北朝鮮に滞在していた話をしますと、「よく拉致されなかったですね」と感心されます。この話を横で聞いていた女房が、すかさず「拉致される程の使い道が無かったのよ」とからかいます。そうです。その通り・・・冗談です。

そうこうしているうちに、当方の会社の仕事は発展をとげ、徐々に政権中枢との仕事が増え、おかげで現金取引の割合が増えていきました。
またこの間、バーター取引(貿易用語で、現金決済を伴わない、物々交換の様な取引)が増え日本製のカラーテレビ・白黒
TV 各数十万台以上、トラック用エンジン数万台等、大変な数量の取引をいたしました。

現在の北朝鮮は、経済活動が全く低迷してますので、かの国からの輸出商品は、ほとんど出ないと思いますが、私がバーター取引で携わった北朝鮮産品は下記のような品目です。

亜鉛インゴット、鉛、銀、金
銑鉄、鋼材

明太子、雲丹、ハマグリ、蟹ほか各種水産物
無煙炭      等

2.北朝鮮の人々の暮らし

北朝鮮滞在中は、平壌市内だけでなく、地方への出張も多少あり、各地の様子も少しは知ることが出来ました。

一言で言えば、平壌以外の各都市・町は悲惨の一言です。革命以前の東欧の各国を訪問した人がいれば、社会主義の国々の悲惨さは、理解できると思いますが、北朝鮮の状態は,それ以上で、まともな物資がなく(特に民生品)、日本人の想像を絶します。

清津(ここは奄美沖で沈んだ不審船の基地がある町)に二度ほど鋼材の買い付けにいきました。ここは人口50〜60万人の北朝鮮第三番め大きな都市です。冬季気温はマイナス20〜30度までさがります。

一般市民の住宅は、普通5階程度の鉄筋アパートです。メインストリートに面した建物は、カラータイルで綺麗に装飾されています。ここから、裏に並んで10数棟のアパートが並んでいますが、裏のアパートには綺麗な装飾は全くなく、薄グレイ色の何とも沈んだ汚い感じです。それに、住居部分はガラスが入ってますが、裏の通路部分は窓ガラスがほとんど割れており、なかにはビニールシートで補修している始末です。当地の冬の寒さを想像しますと考えられません。

なお、当地のガラスは日本のように透明でなく、昔の日本のビンのような薄青い色で、かつ表面がでこぼこで外の景色がゆがんで見えます。こんなガラスさえ充分供給されておりません。(なお朝鮮には、ガラスの原料は腐るほどあります)

清津に来る途中の小さな駅前の光景です。田舎町ですので贅沢できないのは当然でしょうが、駅前にある平屋の民家の屋根瓦が、山から取ってきたような平らな自然石でした。その石の間から小さな煙突がのび、黒い無煙炭の煙を出してました。粗末な、屋根の高さが1.5bほどの白い壁の家でした。

日本から帰った元在日朝鮮人の家族が、日本の親族にまず依頼するのは、現金の日本円です。外貨が無ければ必要の物が手にはいりませんし、供給もされません。

その他親族に依頼するものは、スカーフ(これは袖の下で使う)、サッカリン、味の素、各種着る物、砂糖、薬類(風邪薬ほかなんでも)等です。

これらは、私が何回か平壌まで、運んだ品物でもあります。

私の訪問時でも、国民全体の栄養状態は悪く、子供たち(中/高/大学生)の体が小さいのです。
また農業も全般に不振で(元来、北は工業が盛んで南が農作地帯だった)、その上、国内の人々の往来が自由でない為、農業技術の進歩がなく、農産物の品質が、年々落下しているという状況でした。

その様な状態である時に、7〜8年前でしょうか、百年に一度あるかの大洪水が続いて起こり、多くの田畑は大量の土砂で埋まり、この回復には数十年かかるだろうと言われています。

商店工場も見学しましたが、基本的に、当方の行動は案内人が必ず付きます。

勝手に動けばスパイ行動と見なされますので、個人的に一般の商店等を覗いたことはありません。一度、一般人が入るデパートに案内人と一緒に行ったことが有りますが、めぼしいしなものは無かったと思います。一般の人が欲しがるような家電製品・テープレコーダー等は全て外貨商店にしかありません。

現在、エネルギー問題含め経済活動がほとんど膠着状態で、裏経済は、中国商人に握られていると聞き及んでいます。

人々の生活の実態は、聞いたことが主になりますが、たとえば結婚には、恋愛結婚もあるそうですが、その場合も当局の許可がいるようです。相互の監視が強いため、日本のような勝手な行動は有り得ません。

清津に行く途中の鉄道のトンネルの両口には、必ず監視のトーチカと銃座があります。衛星で分かる時代に何ともアナクロニズムですが、国際空港周辺にも、トーチカ群が見えました。

3.北朝鮮での事故、病気

さて、こんな中、私はかの地で、交通事故にも会い、背骨・肩を骨折する大怪我をしました。その他にあやうく列車に激突しそうになった事が有ります。

朝鮮では、乗用車に乗るような人たちは、大変なエリートで、交通量も少ない為、スピードを出し過ぎる傾向にありますし、車の恐さもしりません。したがって一度事故に会うと、死傷事故なる場合が大変に多いです。

現に、朝鮮側の商社員で、何人か事故で亡くなってますし、日本人も私程でないものの、何人か、怪我をしてます。

また、当地の宴会で、天然の鯉のさしみを何回となく食べ、大変恥ずかしいのですが、結果、サナダムシに寄生されるという経験もいたしました。

4.北朝鮮観光案内

観光のお話もいたしましょう。

金剛山は、景勝の地で昔から朝鮮人の憧れの場所と言われ、金剛山を見ずには死ねないと言われています。幸い私も訪問の機会を得ました。

ここは、南北軍事境界線をまたいでいます。単独峰でなく連山です。風光明媚の地は、北朝鮮側にあり、有名な渓谷と山々と天女が舞うと言われる滝があります。

又、山のふもとに温泉もありますし、三日峰と呼ばれる綺麗な湖もあります。

軍事境界線に近いため、軍人さんの姿が目立ちました。でも、とてもよい所です。

日本人として恥ずかしいことで、今はあるかわかりませんが、有名な滝の脇の岩に、大きな彫り物があり、ここに、”弥勒仏、昭和2年 鈴木某”とありました。

朝鮮人の昔の風習で、石工を山に連れて行き自分の名前と年月日を小さく岩に刻みますが、これを見ますと朝鮮植民地時代の、昔の日本人の横暴性を曝け出しいる姿に、気持ちが縮む思いをしました。

富士山のような大きな単独峰は清津北方の中国との境に白頭山という休火山が有ります。ここは、少しいかがわしいのですが、北朝鮮の独立に至るパルチザンの聖地と言われています。

おわりに

拉致家族の方々のこと考え、金正日政権の実態を思いますと、急いで国交回復する必要はないと思います。私は、かの国が数年前には,崩壊するのではと、予想していました。

北朝鮮は、崩壊したイラクより、もっと激しく国民を規正している人権蹂躙の政権です。

かの国が、一日も早くまともな国に変われるよう、切に祈るばかりです。

これ以上の詳しい話は,お会いした時でも良いですし、メールで聞きたいこと等有れば、忌憚無くご質問下さい。知っている限り,お答えしたいと思います。

 その後、私はルーマニアと取引している会社に移りました。そこでも大変面白い話が沢山ありました。それは、またの機会に。


同期の人からページに戻る