川名 和夫
伊藤さんより「全共闘」について書いてみては?とのお誘いがあり、ようやく書いてみる気になりました。
我々の年代をターゲットにしたリストラの嵐が吹き荒れる中、書きたいことはいっぱいありますが、あまり生々しく、過激なことは書けませんので、出来るだけ当たり障りのない様に心がけます。
千葉高を卒業してから31年が過ぎましたが、私が「全共闘」を体験してから、同じく31年過ぎたことになります。
「全共闘」といっても、私の場合は「日大全共闘」です。
千葉高を卒業する人で当時「日大」に行く人はほとんどいなかった様に記憶しています。
私の場合は、いろいろ悩みばかり抱えて、あまり勉強をしませんでしたので、国立大は、無理なのは承知していましたが、理工系を希望したが故に、国立の一期校、二期校とも、試験の際は、他の人と違って、筆記試験の他に、身体検査が余分にありました。
それが私にとっては非常に負担でした。
私立大では、そんなものは全くありませんでしたが、・・・。
そんなこともあり、大学に入ってからは、国立大学の人に負けないように一生懸命勉強をしようとがんばり始めた矢先の出来事でした。そんな気持ちもすっ飛んでしまいました。
1968年、日大当局の使途不明金に端を発して、6月以降各学部で次々とストライキに突入していきました。
私がいた理工系習志野校舎にも、ストライキの波が押し寄せ、私も、大学当局には、不信感を持っていましたので、夏休み直前のストライキには賛成、そして、そのまま夏休みを楽しんでいました。
新学期を直前に控えて、1968年9月4日、法学部、経済学部に仮執行処分が出され、機動隊が校舎に立てこもっていた学生を全員逮捕し、校舎が封鎖されました。
このときの闘いは、東大の安田講堂以上の闘いだったようです。鬼の四機、学園の五機と呼ばれた機動隊にも、かなりの負傷者が出て、西条巡査が亡くなっています。
「未必の故意」の殺人として学生が「殺人罪」で起訴されたことも、当時、深刻な話題になりました。
これは、長い裁判闘争で結局「無罪」になっています。
私の全共闘体験はこれ以降です。
私は、「日大全共闘」だったのか?
その答えは、私も判りません。
付かず離れず、という気持ちで、しかし、いつも、「日大全共闘」のお尻にくっついて行動していました。1年生でしたので・・・。
「全共闘」とは、申し込んで加入するものでもなく、選挙で選ばれてやるものでもなく、その時に、「やらなければいけない」と感じた人たちの集まりです。
それが「全共闘」です。
「全共闘」とは、戦後の形だけの民主主義、すなわち、選挙による「多数決」=「民主主義」という考えを根本から問い直した「組織」で直接民主主義が原則でした。
現在の日本は、民主主義国家でしょうか?
国会の場は、形式的な質疑のみで、採決。全て、裏の談合で決まってしまっている。これが、本当の議会制民主主義でしょうか?
脱線は止めておきましょう。
そんな組織でありながら、「日大全共闘」は、いつも数千から一万人の動員力を持っていました。
私自身、つい数年前までは、「日大全共闘」も「新左翼」と思い込んでいました。
しかし、数年前、「プロジェクト猪」というグループが、新潮社から「全共闘白書」という本を出版した際に出版記念パーティーを行いましたが、この時は、「日大全共闘」の幹部は一人も出席していませんでした。
その白書には、秋田元議長のアンケートも載っていましたが、後で、ご本人に直接伺ったところ、「ああいう形で載せられるとは思っても見なかった」とのことで、その他の幹部もほとんど協力していません。
私にとっては、今でも、日大を抜きにした「全共闘」などあり得ないと思っています。
その「日大全共闘」とはどのようなものだったのでしょうか?
最近になって、当時の幹部の方々と話す機会がありましたが、「日大全共闘」というものがどのようなものだったか、今になって段々判ってきました。
広島の倉橋島まで二度ほど秋田元議長を訪ね、お話を伺いました。彼は、ご自身のことを「右翼」と表現されていました。また、「日大全共闘」として闘った人の中には、やはり、自分を「右翼」と位置づける人も多いことも判りました。
しかし、その「右翼」の人たちも、今の「右翼」ではありません。
従って、他大学の「全共闘」の多くが、特定のセクト、または、セクト連合の主導で組織されていて、常に、「日大全共闘」の動員力を利用しようとしてきたことに対し、当時の「日大全共闘」の人たちは、今は、他大学の「全共闘」と同一視されることを嫌っているように思われます。
当時の「日大全共闘」の幹部の中にも、セクトに所属していた人はいましたが、当時の新左翼セクトも、既成左翼と同様、「学歴社会」で、「日大」は、セクトの中でも、重要な地位にはつけないようでした。
善良な「右翼」も、「ノンセクトラジカル」も、「セクト」も皆一緒に闘ったのが「日大全共闘」です。そして、常に、セクトの独走を排除してきました。
「日大全共闘」が組織される直前、当時の大学当局が、集会を行っている人たちを、体育会系学生、体育会出身の職員達が日本刀で斬りつけ、砲丸を、上位階より投げつけるという行為に出て、機動隊が出動し、大学当局の野蛮な行為を見ていながら制止すらしない。
このような状況が、学生達に、大学当局の本質、国家権力の本質を知らしめたわけです。
バリケードストライキは、このような大学当局の手先と国家権力の暴力から身を守るためで、日本刀、ドス、チェーンで武装した他大学を含む体育会学生を動員して襲撃、その後で、現場検証のため、機動隊導入というパターンが日常でした。
そのため、「日大全共闘」のバリケードは、強固なもので、東大の安田講堂のバリケードの指導をしたという話まであります。
「日大全共闘」で闘い、卒業させられた人も多かった様ですが、中退していった人も多くいます。
私は、当時、1年生でもあり、「日大全共闘」にただくっついていただけでしたので、卒業はしました。
東大全共闘の山本元議長は、予備校の人気講師のようですが、日大全共闘で闘った人の多くは、卒業しても、中退しても、その後も、苦しい闘いをしています。
その点でも、他大学の全共闘との違いがあるように思います。
秋田元議長は、ひっそりと自動車整備工場をやっていました。
唯一、派手だった、田村元書記長は、勝手連や選挙で活躍していましたが、昨年9月に亡くなりました。
当時の日大は、ある意味では、日本の縮図でした。
そして、今の日本は、政治的には、当時より悪化しているようにも見えます。
大衆が当時より盲目的になっている点、極めて危険な状態と感じています。
今になって判ったことといえば、「全共闘」で闘った人は、ひとりひとり、それぞれの人達の異なった価値観で闘っていたんだということです。
十人十色、日大の場合は、当時、十万人といわれていましたので、十万通りの闘いだったのです。
私は、現在、「日大930同窓会」という会の世話人会の一員です。これは、主に「日大全共闘」で闘った人達の集まりですが、今のところ少人数です。
当時を懐かしむ会のようになりがちですが、我々「団塊の世代」に関わりのある問題を、同年代の、そして、当時闘った人たちと考えていきたいという主旨の会です。
毎年、あの大衆断交のあった9月30日の近辺で「同窓会」を開いています。 今年は、当時、「日大全共闘」とよく行動を共にしていた歌手の新谷のり子さんをゲストに迎えて、「盛大?」に行いました。
なお、「日大930同窓会」のホームページがあります。
私が担当しているので、あまりたいした内容にはなっていません。興味があったらごらんください。
先頭のページにしているのは、1968年9月30日の日大両国講堂での「大衆団交」の写真です。私が撮影したものです。
その他、当時、私が撮った写真も、今後、掲載していこうと思います。
「日大930同窓会」のホームページおよびE-Mail
URL:http://www.cam.hi-ho.ne.jp/nichidai930/
E-mail: nichidai930@cam.hi-ho.ne.jp
全学連の歴史、各セクトのヘルメット、機関誌などが掲載されている。リンクも充実している。
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