(はじめに)
- 昨年、千葉高の同期生が集まったとき、ロッキード事件の国会中継であなたを見ましたよとある人に言われ、びっくりしました。その人と同じクラスになったことはなかったのです。証人喚問中継は今は静止画像ですが、当時はリアル映像で、画面の隅に駆け出しの速記者の私がちょこっと映ったのを発見されたのでしょう。あれは1976年(昭51)、20年以上前のことなのに、よく覚えていてくれて。
- 速記にまつわる話を何か書いてみませんかと私にもお誘いがありました。これまで、だれかに読んでもらう文章を書く機会はほとんどありませんでした。ところが、同期会ホームページの落書き帳が始まってみると、ちょっとしたことを書きたい気持ちが自然と湧いてくるので自分でも驚いています。仕事柄、人の言葉を詰め込むばかりだった反動でしょうか。
- それでは、ちょっとしたことの延長のつもりで私も書いてみましょう。とはいうものの、半生を一気に語るなんて不可能です。速記とは何ぞやと解説するのも荷が重い。まずは、なぜ私が速記者という職業を選んだのか、そこから始めてみます。高校生だったあのころを思い出しながら。
1. 1966年 秋
- 高校卒業後の進路について考え始めたのは、高2の夏休みが過ぎたころでしょうか。2期上の姉にならって千葉高に入ったものの、勉強の習慣が身につかず成績は低迷していたし、入りたい大学も勉強したい学部も一向に浮かんできそうになかった。周りを見回せばクラスメートのほとんどが迷いなく大学を目指しているように見える中、私は、なぜ大学に行くのか、本当に大学に行きたいのか、そこのところから迷い始めていました。
- 私の父は、習志野市で建築金物を扱う小さな工場を経営していました。父は印旛村出身で、近衛連隊に徴兵され、復員後は亀有にある日立製作所の工員として働いていました。昭和22年春、父が24歳のときに、秋田から出てきた母とお見合い結婚し、その年の秋、長男として家族を養うため、機械一つを知り合いから譲り受け、独立したのです。父と祖父と叔父(父の弟)を中心とした典型的な町工場。我が家は一時は祖母、父の妹2人も含めた10人家族で、私たちは小さいころから、若い叔母たちを含め一家を挙げて働く姿を見て育ちました。
- 子供の私たちもよく手伝わされたものです。製品の蝶番や小さな止め金具などを10個ずつ数えてビニールの袋に入れ、ホッチキスでとめて、それをまた10個ずつ数えて箱詰めする。なぜか手伝うことが苦痛ではなく、作業台に山のように積まれてあったものがすっかり片づくときのすがすがしさ、子供心にも労働の歓びのようなものを感じていたのかもしれません。
- さて、高2の私の上には障害児教育の道を選んで教育大に進んだ姉が、下には家業を継ぐことを期待されている中2の弟がいました。次女の私が確とした目的もなく大学進学を、まして私大をと口に出せば父母を困らせることになる。我が家にそんな経済的余裕がないことは両親に聞くまでもないことでした。大学のことはとりあえず脇に置き、進路を、自分にとっての自立の道を、だんだんと考え始めました。
- いつのころからか、姉の影響か、私には自分の将来について一つだけ決心していることがありました。それは、働いて自分の力で生きていくこと。生活の糧は自分で得ること。男なら当たり前、しかし女にとっては貫くことが難しいそのことを、ずっと手放さずに生きていきたいと思っていたのです。社会に出て、いつか結婚するかもしれない、子供を生むかもしれない、この先に何が待っているかはわからない。そうした状況の変化があっても、どこまでも自分の二本の足で歩いていきたい、それが私の決心でした。遠い東北から一人出てきて、大家族の中で苦労した母の姿を見てきたからかもしれません。
- 30年前のことです。憲法に男女平等とうたわれていても、女子の就職差別や若年定年制が当たり前のように行われていた時代でした。社会に出れば遅かれ早かれ現実の壁にぶつかるでしょう。将来、できれば女性であることがハンディにならない仕事につきたい。一生続けられ、女性ということで理不尽な扱いを受けない職業。その目的を達成するための勉強だったら、自分でもきっと真剣に取り組めるだろう。そのための進学なら、両親もきっと援助してくれるだろう。一体、私に手の届くそんな仕事があるだろうか。
- 漠然とこんなふうに考え始めていたころ、進路に関する担任との面談がありました。2Aの担任はアボガドロ、いえ、化学の松原洋一先生でした。こうした面談で他の人はどんな話をしていたのでしょうか。松原先生に私は自分のありのままの考えをぶつけてみました。
- 先生、進路について今こんなことを考えています、女性が一生続けられる職業にはどんなものがあるでしょうか、私に合いそうな職業を何か御存じだったら教えてください。松原先生はあの独特の表情で、にやりと笑いました。「職業というなら、人間を相手にする教師というのは最高の職業だと僕は思っているんだよ」と、御自身の職業観、目指す教師像を話してくださったのです。
- 「どうだろう、教師にならないか」
「教師というのは、ちょっと。仕事にのめり込み過ぎて身がもたなくなる気がします。私にはとても勤まりそうにありません」
「そうか、残念だね。じゃあ、千葉高の栄養士に会ってみたらどうかね。定時制高校の給食を担当している。彼女も君の言う資格を持って働いている女性の一人だ。紹介してあげよう」
- 投げかけた問いが真っすぐに受けとめられたことで、私の気持ちはうんと楽になりました。しばらくして、学校近くに住む栄養士さんの家を一人で訪ねると、保健婦であるお姉さんも一緒に待っていてくれました。お姉さんの方はお子さんもいらっしゃるとのことで、きさくで朗らかな姉妹でした。いろいろな体験談とともに、「結婚しても子供を産んでも続けられる仕事を選ぶことは大事ね」「先に何があっても、いざというとき職業を持っている女性は強いのよ」と励ましてくれ、人生の先輩には言葉だけでない逞しさと余裕が感じられました。
- 帰り道、目の前が明るく開けていました。君は君のやり方で進んでごらんと背中を押してくださった松原先生。あなたもがんばってねと見送ってくれた2人の大人の女性。大いに悩み、回り道をしよう、そして必ず自分の道をみつけよう。目の前の扉が一つ開いたのです。
2. 1967年 冬
- 3年からは文科と理科にコースが分かれる。3月までに志望先を決めなければ。千葉駅ビル3階のキディランド書店、学校帰りに何度も立ち寄っては「女子職業ガイドブック」「大学・各種学校案内」の類いを立ち読み。まず職業資格に結びつく大学を探す。理科系は不得意なので、化学が必須の栄養士や薬剤師は無理。英語も苦手。手先は不器用だし、クリエイティブな才能なんてない。世の中に職種はたくさんあっても、こんな自分に向いていそうなものはそうそう見つからない。その中で、変わった学校が目にとまりました。
- 「衆議院速記者養成所」
- (沿革)
- 大正7年に設立、50年の歴史を持つ衆議院速記者の養成機関。
- (修業年限)
- 本科2年。成績優秀者は研修科(6カ月)に進む。
- (授業内容)
- 全日制で、月〜土の毎日、週33時間、年40週以上の授業。専攻科目は速記、初歩から教える。教養科目として、国語学、言語学、法律学、経済学、英語、フランス語、体育その他。
- (卒業後の進路)
- 研修科を卒業した者は、採用試験を経て、衆議院事務局職員(国家公務員)に採用。それ以外の本科卒業者は、都道府県議会、新聞社等の報道機関へ就職している。
速記符号例
- こんな職業があったんだ。その当時、雑誌や新聞で早稲田速記の通信教育の広告はよく見かけた。ミミズの踊っているような符号を覚えればメモに役立つという程度の知識しかなく、速記者というプロの職業があることをそのとき初めて知りました。国立の養成機関があるということは、特殊な技能の専門職らしい。女子には狭き門のマスコミにも進めると書いてある。雑誌などのインタビューや座談会の記録をまとめる速記というのはおもしろいかもしれない。
- (待遇)
- 学費は不要。教科書、学用品を支給。生徒手当を支給。
- (募集内容)
- 募集人員 15名(うち女子若干名)
- 受験資格 高等学校卒業又は本年3月卒業見込みの者で、20歳未満の者(女子は本年3月卒業見込みの者に限る)
- (入所試験)
- 第1次試験(学科) 国語、英語、政治経済、適性(速記の知識は不要)
- 第2次試験(身体検査及び面接)
- 受験料 無料
- 募集人員が15名と少ない上、女子は若干名、受験できるのは現役だけ。参議院にもほとんど同内容の速記者養成所があったが、こちらは男子のみ募集で、女子には門が閉ざされていた。男子なら一浪も可、その気になれば衆参合わせて4回のチャンスが与えられる。女子には衆議院でのワンチャンス、狭き門なのだ。
- 速記者養成所は気になる存在でしたが、情報が余りに少なく、ここに入るのは難しいに違いないと、避けて考えないようにした。しかし、依然これと思う職業は見つからず、足踏みしているころ、受験雑誌の進路特集だったか、女性の国会速記者が取り上げられているのを見ました。落ち着いた感じの女性速記者の写真と、男女平等の職場で誇りを持って働いていますというようなコメント。そして、速記者養成所が詳しく紹介されています。
- 国権の最高機関、言論の府である国会での発言は、明治23年の帝国議会開設以来、すべて国会速記者により会議録として作成されている。衆議院規則に「議事は、速記法によつてこれを速記する」と定められ、公正不偏の立場を貫く速記者の「人間の耳と目」による正確な会議録は、厚い信頼を得ている。今日、内外の諸情勢を反映して国会審議の内容は一段と複雑かつ専門的になり、高度の知識と技能を有する速記者の養成が一層求められている。また、本養成所卒業生は、在学中に一級速記士の検定試験に合格し、地方議会や報道機関などの各分野でも活躍している。(多分こんな説明です)
- 私は目をそらすことができなくなりました。人に知られていない速記者という職業、特殊な技能と高い専門性。女性でも対等に仕事ができ、マスコミでも活躍しているとあります。もしかしたらこれが私の探していた道かもしれない。1学年15名と少数精鋭で、学費は無料、手当まで出る。授業は速記ばかりでなくフランス語や法律、経済、体育まである、名前は養成所と堅いが中身は短大のようなユニークさ。関心が膨らんでいきました。
- しかし、女子の募集若干名というのが気になる。若干名とは2、3人かしら。そもそもなぜ女子は若干名なのか。年を越してしばらくたち、私は養成所に電話をかけました。
- 「来年そちらを受験したいと思うのですが、女子の実際の合格者は何人ぐらいでしょうか」
「合格者の人数は15名を基準としていますが、その年の受験者の試験成績を見て決めるので、あらかじめ何名と言うことはできません。女子の人数に関しても同じです。」
「若干名、現役のみと、男子に比べ女子に条件が厳しいのはなぜでしょうか」
「労働基準法によって、女子には深夜勤務をさせてはいけないことになっています。深夜国会に備え、男子を一定の比率で確保しておく必要があるからです」
- 「学費は本当に払わなくてよいのですか」
「国に必要な速記者を養成するのですから、学費は取りません。学習に必要な教科書や学用品も支給します」
「手当支給とありますが」
「生徒手当というものを全員に支給しています。月額1年生3千円、2年生4千円、研修生8千円です(昭42年当時)。生活費には足りないでしょうが、多少の足しにはなるでしょう」
- 「過去の試験問題を見ることができますか」
「養成所の同窓会誌に掲載されています。希望者には実費で頒布します」
「ぜひ郵送して下さい」
- 昭和42年の募集要項と、試験問題の載っている同窓会誌「衆友」3年分(3冊)が送られてきました。
- 「衆友」を読んで、速記という世界で働く人々の日常がわかってきました。衆議院はもちろん、全国の県議会、市議会で働くOB。女性が多いこともわかりました。朝日、日経など新聞社や、時事、共同など通信社からも卒業生が近況を寄せています。養成所生徒の入所の感想文、練習日誌。厳しい成績主義、練習に明け暮れる毎日のようです。これまで全く未知の世界のことですが、いつしか自分に引き寄せて読んでいました。
- 「衆友」には知りたかった受験に関する情報も載っていました。前回(昭41)は418名受験して合格者19名、うち女子は11名。前々回(昭40)は331名受験して合格者18名、女子は13名。この3年間、女子の合格者はいずれも10名を超えていました。定員も15名より若干多めにとっています。大学とのかけ持ち受験で、合格しても入所しない人がいるからなのでしょう。
- 「衆友」に掲載されている過去の試験問題をやってみる。国、英、政経の出題は、ひねったものはなく、ストレートで傾向がつかみやすかった。四字熟語、故事成語、時事用語、英略語(今ならAPECなど)の知識が特に求められている。適性試験の方は、句読点なしの片仮名で書かれている電報文のような文章を漢字仮名混じりの日本文に直したり、文章的センスを見るもので、落ち着いて問題に向かえば大丈夫そう。ここにあらわれている出題傾向に沿って準備すれば、それなりの点数はとれると思った。受験倍率も大学に比べてそう高いわけではなさそうです。不安材料は、受験者のレベルが全くわからないことでした。
- 未知のベールに包まれていることが魅力に思えた。衆議院速記者の中に千葉高出身者はいないという。過去に受験した人がいたかどうか、名前を聞いたこともないから多分いなかったのでしょう。目標として不足はないとも思った。ここを受けよう、大学は受けず、ここ一本に賭けてみよう。ワンチャンスに失敗したら、民間の速記学校に行って速記者になろう。その道に進んで自分に適性がなければ、そのときに方向転回すればよいのだ。私の心は決まって、以後迷うことはありませんでした。
- 〜〜ちょっと解説〜〜
- まず、私を悩ませた募集要項の「うち女子は若干名」という記述について。
- 衆議院の速記という仕事は、国会開会中は退庁時間が不規則な上、長時間拘束される職場です。残業は午後10時までという労働基準法上の母性保護規定(当時)があるとはいえ、女性にとっては一般に比べきつい労働となります。男女平等とは男性と対等に仕事をこなして初めて得られるものと個々人は自覚していても、子供を育てながら働くには当時の社会的環境は厳しく、保育所や学童保育なども十分ではありませんでした。
- 衆議院としては、せっかく国の費用で時間をかけて一人前の速記者に育てても、結婚、出産等による中途退職者が女子にはどうしても出てしまうので、できることなら男子を多く確保したい。しかし、速記者になりたいという男子は絶対数が少ない。むしろ国会速記者になりたくて養成所の門をたたくのは女子だ。男子には受験資格を緩和し、女子には若干名と縛りをかけて別枠としても、試験で優秀な女子が多ければ結果として女子の合格者が多くなる。実は、若干名というこの縛りは、昭和30年代後半からは有名無実になっていたのです。
- 「女子若干名」は、男女雇用機会均等法の施行を前に、昭和60年度の募集要項から削除されました。受験資格も「入所する年の4月1日現在において20歳未満の者」と、今では男女同一になりました。
- なお、午後10時以降の深夜勤務については、平成6年1月より、男性速記者の人数が全体の40%を割って、男子だけでは深夜業務に対応し切れないとの判断から、妊産婦等の一部を除き女性も男性と同じく深夜勤務を行うことになった。ただ、会議が深夜に至ることは、そうしばしばあることではありません。
- 生徒の待遇で当時と大きく違うところは、研修生の職員化が実現したことです。昭和54年4月より、研修生は衆議院の臨時職員となり、給与が支給されることになりました。平成10年度の研修生の給与は168,560円、生徒手当は、1年生が25,500円、2年生が28,100円です。
- 現在、養成所の悩みは受験者数の激減で、昭和40年代後半から減り始め、昭和63年度からはずっと100人を割っています。男女とも全寮制(個室)とし、入試科目から政経をなくすなど、養成所としても対応策をとってきたが、目に見える成果は得られていません。受験者の減少は速記者のレベルの低下につながることであり、頭の痛い問題です。
3. 1968年 春
- 1月8日 受験手続
43年度の受験受付開始。渋谷駅からバスで30分、世田谷の馬事公苑に近い住宅地の中に養成所はあった。まだ総武線の快速もないころで、家からは2時間以上かかる。二階建てで教室が6つあるという校舎は、生徒数三十何人にしては大きい。玄関にある生徒の下駄箱の数は少ない。2階にはテラスがあり、新しくきれいな建物だった。芝の広いグラウンドはテニスコートつき。私の受験番号は14番だった。
- 3月14日 養成所一次試験(学科)
養成所に到着すると、既に大勢の受験生が校舎の前に並んでいた。上級生と思われる人たちの引率で、受験会場の東京農大に並んで移動する。試験は出題傾向が変わっていなかったので、落ちついて答案に向かえたと記憶する。不思議に印象に残っているのは、帰りの渋谷行きのバスに、同世代のとてもきれいな人が乗っていたこと。整った顔立ち、長い黒髪。あの人もここを受験したのだろうか。(その日の受験者は348人)
- 3月15日 千葉高卒業式
- 3月21日 早稲田速記学校一次試験
当時、民間速記学校の大手としては中根速記と早稲田速記があり、こちらを受けた。早稲田の商店街の細い路地を入った所に小さな学校があった。修業年限2年で、プロ速記者として通用する検定1級合格を目標に掲げていた。その上には速記の指導者コースというのもあった。
- 3月22日 早稲田速記二次発表 養成所一次発表
雨が降る寒い日、朝9時から早稲田速記の一次発表、続いて二次の面接。女性の試験官は、第一志望の衆議院がもしだめだったらぜひうちへいらっしゃい、指導者コースに進んでほしいと言ってくれた。
正午、養成所一次発表。地下鉄で国会議事堂前まで行った。事務局の受付の細長い窓口の上に張られた白い紙に、合格者の受験番号と名前が掲示されている。見て帰りかけ、もう一度引き返して確かめた。14番、確かに私の名はあった。
- 3月23日 早稲田速記二次発表(合格)
- 3月25日 養成所二次試験(面接、身体検査)
二次試験は衆議院で行われた。面接では志望の動機を聞かれ、将来長く続けられる仕事として速記者になりたいこと、養成所が第一志望であり、他に大学は受験していないことなどを話した。二次に残ったのは30人ほどで、長い待ち時間に互いに言葉を交わした。驚いたことに、一次試験の帰りのバスで目をとめた美しい人も来ていた。Tさんといい、話してみると気が合いそうで、一緒に合格しましょうねと言って別れた。
- 3月28日
明日が発表。合格者にだけ電報が来るという。この日は、高校同期の佐久間憲子さん、馬場教子さんと一緒に映画「若者たち」を見たと手帳にある。
- 3月29日 養成所二次発表
正午、合格の電報が届く。両親の喜ぶ顔にほっとする。
- 4月8日 衆議院速記者養成所(第52期生)入所式
養成所の庭のか細い桜の木が初々しく咲いていた。姉のスーツを借りて、父と共に式に臨んだ。私たち52期は16人、男女8名ずつだった。かのTさんとも再会を果たした。お弁当持参で、その日のうちに入学の諸手続とオリエンテーションを済ませ、翌日から直ちに授業に入るとのこと。何はともあれ、その日の写真の私は笑っている。
4. 速記という仕事
- 養成所に入って、マスコミに進みたいという淡い希望はほどなく消えました。女子の募集はなく、同期の男子2人が日本経済新聞に行きました。養成所の空気の中で、衆議院で働きたいという気持ちが自然に芽生えました。1969年(昭44)12月に速記検定試験1級に合格。そして、幸い研修科に残ることができ、採用試験を経て、1970年(昭45)10月、衆議院に速記士補として採用されました。同期16名中、衆議院への採用は7名、うち女子は4名。その後女子2名が退職し、現在残っている同期は5名です。
速記者に成り立て時に委員会で速記する著者
- 衆議院記録部という160人ほどの速記者集団、採用から定年まで異動のない職場で、人並みに壁にぶつかったり、人並み以上に悩んだり、さまざまに紆余曲折がありましたが、目の前の仕事を追いかけているうちに28年が過ぎました。72年(昭47)に結婚。3歳年上の夫は穏やかでおおらかな人で、物の見方、感じ方が私と似かよっていました。75年に長男、78年に長女が生まれ、育児の時期をこのパートナーに支えられて何とか乗り切り、現在に至っています。この春、長男は社会人になります。長女は大学3年に進み、あのころの私のように将来について考え始めています。
- さて、長く勤めたいという意思はあっても、実際にそうできるかはやってみなければわからないことです。ここまで持続できたのは、速記という仕事が私にはおもしろかったからです。物をつくる仕事、人に直接かかわる仕事、世の中にあまたある職種の中で、速記という仕事は結果的に私の身の丈に合った仕事だったのだと思います。
- 国会で取り上げられる問題は、政治という世界でその問題がどう取り扱われるかを含めて、丸ごと日本の現実の姿です。1回5分なり10分で交代する細切れの時間の中でも、それまで知らなかった世界が見えてきます。また、世の動きとともに言葉の世界も動いていきます。新しい言葉、初めて聞く表現、何年この仕事をやっていても勉強させられることばかり、飽きるということがありませんでした。
- 録音機がなかった時代ならいざ知らず、今の時代になぜ速記者が必要ですか、テープで保存すればいいじゃないですかとよく質問されます。だれもが思う疑問かも知れません。
- 速記者は、常に二人一組で会議の場に立ち会い、発言者を目で見て確認し、話し言葉を瞬時に聞き分け、符号化する。現場での速記は同時通訳と似た感覚かもしれません。事務室に戻り、符号をもとに「反訳」という原稿作成作業を行う。
- 原稿を書くのは以前は全部手書きで、鉛筆(シャープ)と消しゴムの世界でした。中身によりますが、10分の速記で字数は3400字前後。それを二人で半分ずつ反訳する。一字一字正確に書かなければいけません。ちなみに私は筆圧が低く、字が薄いと注意されたことがあり、官給品ではない6Bの鉛筆を使っていました。今はパソコンが導入されて、手書きからは解放されました。
- 反訳は意外に時間がかかる仕事です。発言を趣旨に即して注意深く日本語に固定する。内容の事実関係を確認し、固有名詞を調べ、資料が引用されれば入手して照合する。不明の点、疑問の点があれば発言者に確認する。それらの調査の時間も含めると、10分の速記を1号の完成原稿に仕上げるのに3時間ほど要します。正確な会議録とは、こうした慎重なプロセスを経てつくられています。常に二人一組で行うのも、正確性と迅速性を担保するためです。
- 私が役所に入ったころ、録音がつくのは、本会議、予算委員会と参考人出席の委員会など一部だけでした。録音機もオープンリールの大型のもので、便利なリピート機能などもちろんついていません。古い議事堂本館の常任委員会室はマイク施設も十分でなく、速記者用のイヤホンさえついていない部屋もあって、隅の方で聞き取れないような小さな声でぼそぼそと答弁されるときには、背中を向けていては聞き取れないので、首を曲げて口元を見つめながら速記することもよくありました。まさに毎回、自分の耳と目と腕だけが頼り、瞬時に消えてしまう音との格闘でした。
- 全委員室をカバーするイヤホンと録音設備の導入は長い間の職場の要求でしたが、1973年(昭48)、田中内閣のときのロングラン審議(通年国会化)により多数の病休者(職業性頸肩腕症候群)を出した苦い経験から、速記者の現場での緊張緩和のためにやっと実現されたという経緯があります。現在ではすべての委員会に拡声用、録音用のマイクと速記者用のイヤホンが設置されています。また、今日では院内テレビ放送も開始され、これまでのNHKの中継だけでなく、ケーブルテレビやインターネットによる映像中継も開始されました。
- さて、録音や映像は会議録にかわるものとなり得るでしょうか。
- まず、人の話す言葉を一語一語文字で固定する作業は、現段階において機械はやってくれません。録音や映像は、その場の雰囲気をリアルに再現しますが、機械には限界があります。まず、そばにいる人のクシャミや咳、コップの触れ合う音、みんな拾ってしまう。機械の故障、テープ操作の間違いも起こります。人間の話す言葉に限って言えば、機械は、音としてあいまいなものはあいまいなままに再現します。聞きようによってどうにも聞こえてしまうものです。また、例えば人名等の固有名詞をどう書きあらわすか、人間ならまず固有名詞と認識して、調べて、そこに正確な字を当てはめます。機械は音としてしかあらわしません。どんなに精密な機械ができても、前述した総合的な会議録の正確性をカバーするものにはなり得ないでしょう。
- いずれ音声入力装置が実用にたえるものとなるでしょうが、日本語の記録として完成させるにはどこかの段階で人間の介在が求められるはずです。国会会議録のような公式な記録の場合は、何よりもまして正確性や公平性、様式や表記の統一性が重視されますから、速記符号を用いるかどうかは別として、中立的立場でそれらを点検、校閲する専門職の存在がなくなることはないだろうと思います。
- 私がこの仕事をおもしろいと感じる理由をもう一つ言えば、話し言葉を書き言葉に、正確な日本語の文章に書きあらわすというのは、本質的に受け身のことではありますが、意外に日本語の表現能力が試されると感じるからです。
- 一例として方言でいえば、関西弁などはバイタリティーにあふれていて聞いている分には楽しいものですが、例えば河内弁でまくしたてられたとします。録音機を何度もリピートして、それをまさにリアリズムで一語一語書き写すことも時間をかければ可能でしょうが、それでは会議録にふさわしくありません。吉本の台本を書いているわけではないのですから。かといって、全部標準語に直してしまったのでは、発言者の個性も感じられず、血の通ったものになりません。会議録としてふさわしく抑制をきかせながら、方言の持つ生き生きとしたリズムが伝わるように、ここが速記者の腕の見せどころだと私は思っているのです。
- 不鮮明な音からぴたりと当てはまる日本語をたぐりよせる。調査資料の山の中から該当の事実関係を探し当てる。まるで推理のようでもあり、ぴたりと当たったときのうれしさ。文脈があちこちに飛び、そのまま訳したのでは到底意味が通じないそれが、ちょっとした整理によって、すっきりと文意が立ち上がる。そんなとき、だれに褒められなくとも、二人一組の速記者が分かち合う一種の職人的な喜びがあります。その積み重ねが、ここまでの年月を連れてきてくれたのだと思います。
- 1994年(平6)7月、私は、議院運営委員会担当の速記者を最後に現場での速記から離れました。以後は速記監督として、昨年からは商工委員会(通産省、経済企画庁分野)を担当しています。
著者の本会議での最後の速記状況
- 部内で「校閲」と呼ぶこのポジションは、原則として一つの担当委員会を一人で受け持ちます。そして、その委員会にかかわる記録部の対外的な窓口として、議員や各省庁、他部課との折衝に当たるとともに、速記者の指導も行う実務上の責任者です。管理職ではなく、現場監督のようなものです。具体的には、担当委員会の理事会に出席して日程や各会派の状況をつかむ。委員会当日は議事を通聴してメモをとり、会議の流れを全体として把握する。委員会が終了して速記者から原稿が提出されると、全部を精読して校正し、完全な会議録にし上げ、大蔵省印刷局に送付する。こうした一連の校閲編集業務を行います。速記者としての経験が生きるやりがいのある仕事です。
- 今後は、速記監督として残りの期間を過ごすことになります。この職場は夜遅くなることが多く、特に開会中は体力勝負になります。そのせいもあり、60歳の定年まで勤めた女性はこれまで数えるほどです。目標としていた先輩女性が、思いを残しつつ、いろいろな事情で定年を前に去っていくのを見るのは残念なことでした。
- 失敗や経験から学び、あつれきを回避する知恵も身についた50代こそ楽しく働けるはずです。子供たちも巣立って、これからが自分のために働く期間、そして学んだものを次の世代の速記者たちに引き継いでいく期間だと思っています。公務員の定年延長もあるかもしれませんが、60歳までは働く、それを目標に、今後も元気に働いていきたいと思います。
(おわりに)
- 自宅のワープロに向かえるのは土日だけという制約があったにせよ、たったこれだけの文章に何カ月もかかって、事務局をお待たせしてしまいました。
- 押し入れや引き出しの奥を探すと、あのころの手帳、養成所の受験票や成績表、衆議院の採用通知、懐かしいものが次々見つかって、意識の底に沈んでいた30年前の記憶がよみがえってきました。本当はいつかあのころのことを書いてみたかった、そんな気さえして、だんだんとワープロに向かうのが楽しくなっていました。
- 味をしめて続編を書いてみましょうか。養成所時代の、美しいTさんのその後など。もういい、ほどほどにしておけという声がどこかから聞こえます。ではまたいつか、そのうちに。ここまで読んでくださってありがとうございました。
※参考文献として「衆議院速記者養成所八十年史」を使用しました。