古山明男「A君の投稿を読んで−当時の思いと黒須先生のトニオクレーゲル−」2000/1/30
A君、「菊地先生の思いで」を書いてくれたことに感謝。私には「そういうことだったのか」の連続でした。まるで、菊地先生とA君の二人一組で、30年以上の年月をかけて、とびきり立派な文学の授業を仕組んでくれたような気がします。
菊地先生の朗読の時間は、私はただ「そんなものか」と聞いていました。「感動させてやろう」というのにいささかの反発はあったけど、聞いていればそれなり面白い、といったところでした。
ところが私の友人の一人に、「キュージが、キュージが‥‥」と、菊地先生の言葉や仕草を真似して馬鹿にする奴がいました。あのイントネーションとか、ときどきちょっとムキになった感じでしゃべる様子とか、歩き方とか、あざ笑う種にはことかかないのです。
彼が菊地先生を馬鹿にすると、いっしょにいる周りが同調する。それが、私にはひどく嫌でした。と言って「そういう下品な笑いはやめよう」と言うこともできず、けっきょくは妥協して、「〜だか?」という語尾を上げる言い方を私も真似していました。その苦い思いが、強く残っています。菊地先生が、授業中にときどき窓の外や教室の後ろの壁をじっと無表情で見ていたことは覚えています。
十年ほど前の私の体験ですが、専門学校の教室で「印象深い授業をやってやろう」としたのが裏目に出て、学生に「変なやつだ」と思われてしまいました。私も言葉につまっては、教室の後ろの壁をじっと見ていました。「トニオ・クレーゲル」で他にも思い出があります。
国語の黒須先生が「トニオ・クレーゲル」を読んでこいと、3年生の冬休みの宿題として出したことがあった。
「読んだものは手を挙げて」と先生が言うと、パラパラとしか手が挙がらない。なにせ、受験直前です。すると普段は叱ることもない黒須先生が猛然と怒りだした。「きみたち、目先の受験などにとらわれて、まともに生きることを考えることはないのかね」というような趣旨だった。私は「あんたらが受験に追い込んでおいて、それにさらに文句を付けるなんてないぜ」という気分だった。でも、そんな十把ひとからげに「あんたら」と言ってはいけなかったのでしょう。黒須先生がなぜあんなにムキになったのかは、10年もたったらわかりました。黒須先生の表現はわかりやすかった。直木賞の候補になったこともあるという噂を聞いたことがあります。
でも、菊地先生の表現はわかりにくかった。諸兄の注釈を得て、やっと行間が読めた次第です。
佐藤仁子「『施餓鬼舟』発見」2000/1/25(渡邊君コメント)
★佐藤仁子
Show渡邉君
A君
皆様きょう、インターネット検索で「施餓鬼舟」を見つけました。
http://www.vill.yamanakako.yamanashi.jp/bungaku/mishima/nenpu/19521957/52-57.html三島由紀夫の「施餓鬼舟」は確かにありました。
1956年10月に「群像」の創刊10周年記念号で発表されているとあります。昭和31年にそこに一度載っただけなので、当時だれも見つけることができなかったのでしょう。折りを見て、国会図書館へ行って探してみます。
見つかってコピーが取れたら、回覧に供します。
★渡邊章
ネットの力だね。>JInkoさん
とっておけばよかったのだけれど,あの当時,30年以上すぎても記憶に残るとは思っていなかったし,まして,受験には役に立たないので・・・
★佐藤仁子
図書館で「施餓鬼舟」と対面し、コピーを入手しました。
パソコン検索の一般図書名では出てきませんでしたので、単行本にはなっていない模様です。全集には入っているのでしょうが、データがなく、確認できませんでした。
やはり、「群像」1956年10月号の中にありました。3分の2ほど読みましたが、どうも私は書き取りはやらされなかったようです。全然記憶にありません。その日たまたま学校を休んだ可能性もありますが。
渡邉君にFAXを送ります。
同じく書き取りをやったという佐久間憲子さんにも。
伊藤三平さんにも送っておきます。A君への送付をお願いします。読んでみたい方は、伊藤さんに連絡すればきっと大丈夫。
甲田正二郎「A君の投稿を読んで−トニオクレーゲルに魅せられて−」2000/1/23
つい最近になってA君の文章を読み同期の中に私と同じ様な気持ちの人がいたのを知りました。伊藤三平君に私信で伝えたのですが、菊地劇場の「トニオクレーゲル」から文学の愉しさにひきいれられ、大学ではドイツ語を真面目にやりある程度の初歩文法を終えると辞書をひきながら「トニオクレーゲル」を原書で読みました。
東京農工大学の獣医科を卒業してそのまま東邦大学医学部に再入学したので大森のドイツ学園の夜間講座に通ったりしてドイツ語は学ぶ機会に恵まれていたと思います。
40歳になって国際癌学会での発表でハンブルグを訪れたおりにトーマスマンのゆかりの土地であるリューベックまで足を伸ばしました。友人のドイツ人医師の運転で辿りついてみると、現実には何もないところでトニオもハンスもインゲもいなくてトーマスマンの生家は小さな銀行になっておりました。
文学に対する菊地先生の情熱をもっと我々は(全員とまでは言わなくとも)あの時点でもっと評価すべきだったと思います。
と言うわけで、千葉高で一人だけ恩師を選べと言われたら私には菊地先生しかいませんし、いやな教師を挙げろと言えば数多いです(半分冗談)。
それから、千葉高時代を思い出して寂しいのは受験競争の空気の中で本当の友達を見つけにくかった事です。お互いに自分をさらけだせなっかたせいもあると思います。
年月を経て同窓会で会ってみると皆、実は同じ様な悩みを持っていたように思え、あらためてつき合い出すようになった人もいます。そういう意味で、同窓会幹事やホームページを設けてくれている伊藤三平君に感謝しております。
中台孝雄「A君の投稿を読んで−高瀬舟−」2000/1/22
いつもモグラを決め込んで、読むだけの中台です。
管理人の伊藤君へのメールにも書いたのですが・・・ちょうど仕事に疲れた夕暮れでしたから、A君の文章、一気に読みました。 まあ、よくいろいろなことを細かく覚えているな、と感心しました。
感動もしました。私も菊地先生のことは、あれは何だったんだろうか、といまだに記憶に残っています。
ただ、生徒会の決議や校庭でのお別れの場面はまったく記憶になく、記憶に残っているのは、ただただ教室の中でのことです。あれは1年の時だったのでしょうか。
私の記憶では2年の時だったような気がしますが。 校舎2階の一番端にあった私たちのクラス(A君の記憶違いで、2年の時のことだったら、同じクラスかな?)がいちばんタチが悪く、菊地先生の朗読や口述筆記にクラス皆して反発して、先生をついに追い出してしまった、という風に私の記憶は残っています。菊地先生が他のクラスに行って「あのクラスは最低だ」と口になさった、とか。
千葉高をやめて、どこぞの大学院に戻った、といったような消息を聞いたように記憶しているのですが・・・
「高瀬舟」とその続編の朗読はよく覚えています。
確か「暗闇の中から声がする」で始まる続編がどこにあるのかと、友人たちと本屋を探し回ったものでした。
やがてだれかが「あれは、先生の創作だよ」と。三島由紀夫の小品(はたしてこれも本当に三島のだったのか、当時探し回って、分からなかった記憶があります。)は、一言一句、ノートに口述筆記させられました。
漢字と作文の練習になりました。
今考えれば、ストーリーテリングと書き取り。
国語教育の基本だったのですね。断片的な記憶ですが、幾つかの場面を鮮明に覚えていて、今振り返ると、やはり、その後の人生に影響を残す、思春期の一つの大きな出会いだったのでしょうか。
A君がどなたか分かりませんが、貴重なものを読ませていただきました。
貴重な思い出をよみがえらせていただきました。
また、貴重な背景を教えていただきました。感謝します。(きっと、私のような日頃モグラを決め込んでいる人たちが 幾人も反応してくるのではないでしょうか。)
佐藤仁子「A君の投稿を読んで−菊地久治先生は伝説になった−」2000/1/20
これは本当のこと?
まるで小説のようなリアルさ。生徒会でそういうことがあったのだろうか。そんな馬鹿げた動きが。
そして、レコードプレーヤーは、本当に川に投げ込まれたのだろうか。それにしても、うーん、参った。
こんなすごい大作を書き上げたA君、あなたは立派な久治先生の弟子ですね。前段の千葉高生に関する鋭い観察と批評。
ふーん、千葉高ってスゴイところだったんですねえ。こちらはというと、塾といったらソロバン塾しか知らず、英語塾なんて遠い世界のこと。東アチ50位どころの話ではなく。
ぼんやりな私から見ると、このA君も、登場するだれもがスゴイ。大人だ。参る。
ああ、30年も過去のことでよかった。菊地先生の授業は風変わりだったけれど、それを邪魔に思う人は私の周りにはいなかった。私もワクワクしながら目をつぶって聞いていた。
感想を聞かれると困った。どんな感想も先生から見れば子供じみているだろうと。そうだ。文学の世界に進まれたなら、別の名であっと驚く作品を既に発表されているのかもしれない。
おぼろげな記憶の中から、紫の風呂敷包みを抱えた久治先生の姿がすっくりと立ち上がる。ついについに、菊地久治先生は伝説になった!
山本渡「A君の投稿を読んで−修学旅行での先生の占い−」2000/1/19
A君の投稿に久しぶりにあの時代の香りを感じ、とても懐かしく思えました。
千葉高は毎年クラス替えがありましたが、私は偶々2年間菊地先生のクラスでした。先生の醸し出す雰囲気はA君の投稿の通りでしたね。でも生徒会の動きや、都川の話は全く知りませんでした。
高2から高3になる春休み直前に関西への修学旅行がありました。菊地先生は千葉高を離れることが決まっていました。先生は旅行の行きの車中の時間を利用して、自分のクラスの生徒をひとりひとり自分の座席に呼んで話をされました。
私は、何と先生に「君は文学をやったら」と言われたのです。うーん、お眼鏡違いで申し訳ありません。全く縁遠い人生を送ってきてしまいました。
もうひとつその時の話でいまだに記憶に残っているのは、「もっと覇気をもって人生を歩んでいきなさい」という言葉です。多分当時私はクラスの中でちょっと幼い感じでもあったのでしょうか。別にその後の人生で「人の上に立とう」という意味でこの言葉を意識したことはありませんが、ちょっとひるむような場面に出あった時、勇気を出せ、という意味合いで、このときの「覇気」という言葉を思い出します。
ちょっとだけ自信をつけさせてくれた、背中をとんと押してくれた言葉であ りました。先生は文学にもっと時間をさきたいとおっしゃって、定時制の高校教師に転じられたと記憶しています。船橋高校の定時制に行かれたと思っていたのですが、私の記憶違いかもしれません。
渡邊章「A君の投稿を読んで−三島由紀夫の『施餓鬼舟』−」2000/1/19
感動を持って読ませてもらいました。
僕も,菊地先生はもっとも印象深い先生です。
僕らが在校中に転任されたんでしたね。記憶の底からうっすらと浮かんできました。投稿を読みながら,紫の風呂敷が目に浮かびました。
僕らのクラスでは朗読中は「目を閉じなさい」と言われていました。そしてうっすら目を開けて先生を盗み見しました。先生の様子はA君の投稿のとおりです。僕が印象に残っているのは,「トニオ・クレーゲル」と「憂国」です。
「憂国」は当時の僕には早すぎたのかも知れませんが,その後,三島にはまったのは明らかに菊地先生の影響です。
「憂国」の入っている本を買ってきて,何度も何度も読み返し,その部分だけが手垢で汚れて,すぐにそのページが開けるような状態でした。その本は今でもわが家の天袋にあるはずです。トニオ→北杜夫 もそうかもしれません。
ときどきおかしな冗談をおっしゃいましたね。鮮明に覚えているのは,三島の「施餓鬼舟」という短編を,先生が朗読され,それを生徒がノートに書き取る授業でした。何回か続いたと思います。
その「施餓鬼舟」の中で,ある小説の名前が出てくるのですが,その小説について,先生が,「これを読んだ人はいますか?」と質問しました。
生徒たち 沈黙先生は,しばらくして,「そんな小説はないのです。」「そんな小説は……」 のタイミングとイントネーションが抜群なんですね。
ポータブルプレーヤーを川に捨てたことは知りませんでした。
1浪して神楽坂の大学に行きました。2年生のときだったか,昼,学生食堂に上がっていこうとするとき,同級生が「今,市谷で三島が割腹した」と教えてくれました。
「施餓鬼舟」は,いまだにこの小説が実在するのかどうか確認できていません。収録されている本をご存知の方は教えてください。30何年読みたいと思いつつ読めないでいます。
神保公子「『ひとふさの葡萄』続編」98/12/3
Q治先生の「ひとふさのぶどう」、確か2EではQ治先生執筆による続編が、あの読書会形式でご披露されたように記憶していますが………。
私は、続編なんかない方がいい、と思ったように覚えていますが、内容はすっかり忘れました。
伊藤三平「読書会と『ひとふさの葡萄』」98/11/13
菊地先生は風貌から菊地Q治先生と呼んでいた。国語の先生であったが、本当に変わった先生で、特に読書会が印象に残っている。
読書会の時は、唐草の風呂敷に包んだ蓄音機(レコードプレイヤー)とレコードを持参される。そして「今日は読書会を開きます。窓側のみんな、カーテンを閉めて下さい。」と指示されて、部屋を暗くする。
そして静かにするように言われ、おもむろに「今日は谷崎潤一郎の”刺青”を読みます。」
レコードがかかる。このバックグラウンドミュージックの元で朗読が始まる。登場人物になりきって朗読される様は印象的で筆舌に尽くし難い。”刺青”で「親方おやめになって下さい」などと女性が叫ぶ場面などは女性になりきっておられた。”刺青”以外にも何冊かの読書会を開いていただいた。ある時、私は何かの件で菊地先生に怒られた。その時「伊藤、君は高校生らしくないのだよ。後で職員室に来なさい。」と言われ、恐る恐る職員室に出向くと「これを読みなさい」と言われて岩波文庫を1冊与えられた。何だと思いますか。有島武郎の「ひとふさの葡萄」でした。
菊地先生のお名前自体が千葉高の同窓会名簿にも掲載されていない。同期会にお誘いして、もう一度読書会を聞きたいと思っている。
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