日本における旅行業の嚆矢

伊藤 三平

はじめに−祖父の旅行記をきっかけに−

去年、祖父の50回忌の法要を京都の仏光寺の久遠院で行った。この時に、祖父の思い出につながるものを親戚が持ち寄り、資料集を作成して参加者に配布した。
その中に祖父が大正6年にアメリカ、カナダに出かけた時の旅行記(自費出版したもの)のコピーがあった。この旅行記の冒頭にカナダのバンクーバーのスタンレーパーク公園での写真があった。当地には私も2度訪れていたが、祖父が行っていたことを知っていたら、また違った感懐を持ったと思う。
私も海外旅行をした時に、見聞したことを旅行記的にまとめたことがあるが、異体験を日記に残しておくのは、古今東西に変わらない傾向のようである。そしてこの性癖は、多くの人が持っているようで、文学のジャンルとしても紀行文というものが確立されている。日本においても10世紀に書かれた紀貫之の『土佐日記』などが有名である。
中国では5世紀の法顕の『仏国記』、7世紀の玄奘三蔵の『大唐西域記』などはインド旅行記でもある。
今回は祖父の旅行記を契機として、日本における旅行業の成り立ちについて考えてみたい。

 

1.旅行業の祖トーマス・クック

なお旅行業は、イギリスのトーマス・クックが最初と言われている。クックの本職は木材加工の職人であった。彼は非常にまじめな禁欲主義的キリスト教徒であり、とりわけ酒とタバコを目の敵にしていたと言われている。1841年6月にルーボローで禁酒運動の大会が開かれることになり、クックは自分の住んでいたライセスターから同志を募って大会に出席しようと思いつく。そして鉄道会社と交渉して臨時列車を割安で運行させることに成功する。これがチャーター制度のはじまりとされている。
彼の成功を聞いた人から、同じように団体旅行を編成してくれないかとの相談が持ち込まれるようになり、トーマス・クックは旅行業の先駆者としての地位を確立するに至る。

 

2.熊野詣と十字軍

トーマス・クックの旅行の動機が宗教であることに注目したい。私は去年、趣味の刀剣分野で白山権現に関係する刀剣の由来に関する論文を取りまとめた。その時に資料を通じて、11世紀から13世紀にかけての熊野信仰、白山信仰の全国的な広がりに驚いた経験を持っている。
歴史書も「蟻の熊野詣」という表題をつけて、この時期の全国的な規模での信仰を取り上げている。
「南海の霊場、熊野三山を詣でる人びとの長い行列が見られるようになったのは、院政期に入るあたりからのことである。列島の全域にわたる交通ネットワークの発達は、荘園の群立をもたらしたばかりではない。霊場を詣でる巡礼の旅が成立する条件をもたらすことになったのである。―中略―
巡礼者は死装束で御山に登り、そして蘇ってくる。新たなる生命のエネルギーを与えられて蘇ってくる。そこに巡礼の本旨があったのだ。―中略―
みちのくの名取の里に住む一人の女人があった。若年のころより毎年の熊野詣を欠かさずにきたが、老年のいまは長途の旅に耐えず、熊野の三社を勧請して、地元の社殿に手を合わせる毎日であった。ある日、この里にたどりついた一人の山伏があった。山伏の手には、熊野の本宮で通夜の最中に、神から託されたという一本の梛の枝が握られていた。その肉厚の梛の葉には、虫食いの跡があって、文字のように見えた。老眼の女人にかわって山伏が読みあげたその文字は。「道遠し年もやうやう老いにけり、思いおこせよ我も忘れじ」というものであった。このありがたい神歌のメッセージに、老女が感涙を催したことはいうまでもない。
この名取老女の物語は京都にまで伝えられて人びとの評判になった。『袋草紙』『新古今和歌集』などに、それが見えている。院政期における熊野信仰の広がりは列島の全域にわたり、ついには奥州にまで及んだ。この老女の物語は、そのなによりもの証明であったか。」(『集英社版 日本の歴史F 武者の世に』入間田宣夫著)
また白山信仰の隆盛に関しても「白山衆徒三千人を数う」とか、「上り千人、下り千人、坊に千人」という言葉も残されている。「蟻の熊野詣」と同様に当時の信仰の隆盛振りを表す言葉である。
なお修験道の修行者・山伏は登山家としての先駆者でもある。何かの本で、ある登山パーティが日本の未踏と思われる山に登ったら錫杖が残されており、驚いたとの逸話を読んだことがある。
日本で修験道が盛んとなった同じ頃に、西洋では巡礼に異教徒討伐の気持ちが混じった十字軍がエルサレムをめがけて進軍している。
十字軍は「広義には中世ヨーロッパにおけるキリスト教徒の異教徒・異端者との戦い。狭義には、11〜13世紀にヨーロッパ諸国民がキリスト教徒発祥の聖地パレスティナをセルジューク・トルコの占領下から解放するためおこなった遠征をさす。−以下略−」(『世界史事典』平凡社より)と記されている。
十字軍については、ある歴史家が述べた「信仰と愚かさ、勇気と強欲、希望と幻滅」の物語と言うコメントが一番ふさわしいようである。私が小さい頃に「信仰心に篤い騎士が貴婦人の祝福を受けて聖戦を勇敢に戦った」物語を聞かされたことがあるが、確かに現実は「光りあれば影あり」との言葉通りのことであったのだと考えられる。いずれにしても信仰が遠路を克服する大きな力となっていたことは間違いがない。

 

3.伊勢講

宗教に根ざした行動を、物見遊山の旅行と一緒にするのはどうかという意見もあろうが、江戸時代になると宗教・信仰を名目にして、実質は物見遊山ということが主流になってくる。すなわち伊勢講、冨士講というものが各地に生まれ、大いに発展したのである。
講の仕組みには、いくつかの種類があるようであるが、わかりやすく説明すると次のようになる。
まず講に参加する人を集める。参加する人は一定の会費を毎年納める。一人の金額は小さいが、講中の金額を全部集めるとまとまった金額になり、一人、二人が伊勢神宮にお参りする旅費が捻出できるようになる。そこで講で籤を引き、籤に当たった代表者が講を代表して伊勢神宮に参詣することになる。講は続くわけであり、当たらなかった人は次年度以降に当選する可能性があるのである。また今年、運良く当たった人も講に参加している訳であり、来年以降も会費を払う必要がある。すなわち、講が続いている限り、参加者全員が公平に伊勢詣ができる制度である。
籤に当たった人は、講を代表しての参加であり、餞別をもらうこともあったであろう。また伊勢神宮に参詣できなかった講中の人に、参詣のお土産も必要になったであろう。この習慣が今に続いている「旅行におけるお土産」の原点と思われる。
参詣(旅行)に来てもらう伊勢神宮や富士山の浅間神社の方も、全国的な集客システムを作っていたのである。すなわち伊勢神宮から各地に「先達」(ガイド、添乗員)を派遣して、講の組織作りを奨める。地域別営業担当でもある。そして「先達」が各地の講の代表者を伊勢神宮に引率してくるのである。伊勢神宮に着くと今度は「御師」(宿坊経営者)が待っている。「御師」も地域別の担当ができていたようである。例えば三河の講中は「三河屋」に宿泊するような仕組みである。この「御師」における”もてなし”は凄いものだったようである。山海の珍味が豪勢に出され、伊勢神宮の参拝における案内はもちろんのこと、周辺の観光ガイドもいたれりつくせりで、寝具は家では使ったこともないようなものと言った具合だったそうである。当然に、参加した講の代表者は感激して家路につくことになる。この評判が伊勢神宮への旅行熱をさらに煽り、講の参加者を増やしたことは言うまでもない。中には「抜け参り」をした者も出てきた。このような伊勢参拝における楽しい思い出が「ええじゃないか」騒動を引き起こす心理を醸成していたのではなかろうか。
伊勢講、冨士講などの仕組みは見事な旅行業システムである。名は伝わっていないが、トーマス・クックとは別の旅行業者の先駆者が日本にいたのである。
現在の伊勢神宮は神の鎮座される場所として清澄な雰囲気であるが、当時は旅行につきものの女郎屋なども軒を連ねていたそうである。(伊勢神宮は明治になって国家神道の中枢になり、これら施設は除去されたとのことである)
もちろん御師、先達はこれら悪所にも講の参加者を案内したことは当然である。「精進落とし」と言う言葉もあるが、考えて見ると落差の大きさを正当化するような言葉である。

 

おわりに

日本人の海外旅行はエイズが騒がれる前は買春旅行と悪評が高かった。土産話の一つは必ずこの種の話であったという伝統も、この影響かもしれない。私が学生時代の最後の1973年にヨーロッパに行った時は、現代の先達である添乗員(大手旅行会社の添乗員)が、すすんでこれら場所を案内し、このような場所における価格とかマナーを親切に教えていたのを思い出す。添乗員の立場から言えば「すすんで案内」というよりは「旅行参加者のニーズを先取りして」ということになるのであろう。
エイズは恐い病気であるが、この悪習を断ち切ったという点は評価しても良いのかもしれない。

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