市川市八幡

梨物語

ー梨祖 川上善六ー

              

伊藤 三平

はじめに

同期の皆様には同報メールでも近況報告をしましたが、現在、隣地のマンション建設問題で、地域で動きまわっています。

この活動の中で、ご近所に伺うと「自分の家はこれで八代目だ」とか「隣の家の十八代には負けるけど、うちは十四代、ここに住んでいる」などのお話を伺う。この地に住んで四十七年程度の伊藤は新参者である。

市川市八幡の新参者ではあるが、この機会に、居住地の葛飾八幡宮近辺の地で活躍した偉人(梨祖と言われている川上善六翁)の物語を紹介したい。
なお、この話は甲田正二郎君の雑誌『医心伝心』の為に書き、その後『船橋葛城会20周年記念誌』にも掲載したものを、写真も入れて改定したものである。

1.八幡の藪知らず

国道14号を千葉から来て市川市役所を通り過ぎると、左側一角に茂みが見える。これが「八幡の藪知らず」で有名な「八幡の藪」である。

 

「八幡の藪しらず」は昔は有名な比喩だったようで『広辞苑−第五版−』にも次のように載っている。

「やわた ー中略ーやわたのやぶしらず【八幡の不知藪】千葉県市川市八幡にある藪。八幡不知森(しらずのもり)ともいい、ここに入れば再び出ることができないとか、祟りがあるとかいわれる。転じて、出口のわからないこと、迷うことなどにたとえ」とある。

私も卒業した明治6年創立の八幡小学校の校歌は折口信夫の作詞であるが、この一節にも「八幡の八幡の藪のごと、才量り無き身とならむ」と歌われている。出口に迷うほど奥が深い藪を、才能が計り知れないことに喩えている。

言い伝えのもとになったいくつかの伝説があるが、私は「平将門を討った平貞盛が、八門遁甲の陣をひき、乱の平定後もここにだけ秘陣を残しておいた」との言い伝えが気に入っている。

今は、往時の繁茂は想像もできない貧弱な茂みになっている。私の家は、ここから国道14号を挟んで100b近く離れているが、私がこの地に移ってきた45年以上前には、我が家にも竹が生えていたという記憶がある。藪の残骸であったのであろうか。

2.葛飾八幡宮

そこから国道14号を更に東京方面に50b行ったところの右側に、葛飾八幡宮へ向かう参道があり、入り口には鳥居が立っている。そして京成線の踏切を超えて神域が広がっている。

この葛飾八幡宮は、寛平年間(889〜898)に宇多天皇の勅願によって勧請された社である。治承4年(1180)に源頼朝は安房国から下総国府へ入ると、自ら参拝して、源氏の武運を祈願し、建久年間(1190〜1199) には千葉常胤に命じて、社殿を修復させたという。境内には頼朝の駒止め石なるものも存在している。

下総国総鎮守として信仰が篤く、最近は新年の参拝客が長蛇の列を作っている。我が家は、私の七五三から、結婚式、厄落とし、地鎮祭も八幡大神様(はちまんおおがみさま)にお世話になっている。もちろん子供達の初宮詣、七五三、合格祈願も葛飾八幡宮である。

この神社の境内や参道では、9月15日から20日に、ボロ市と呼ばれている農具市が行われる。俗に「八幡のぼろ市」は近郷に名高い農具市として、一時は関東一とまでいわれたそうである。

小さい時は、これが楽しかった。瀬戸物売りの口上に聞き惚れ、堺の包丁売りが包丁で木を切り、次いで新聞を切る手先に見惚れていた。キビ鉄砲を買い、金魚すくいをやり、ケバケバしい色に着色された飴を食べ、氷水を飲み、ハッカパイプを吸っていた。綿アメ、カルメは美味しかった。かぶと虫やひよこも銭亀も買った。

今は、芸と一緒にモノを売る店はなくなり、食い物屋ばかりが多くなっている。ただ、いつの時代でも子供達には楽しいらしく、うちの子供達も大好きである。

このボロ市の期間は必ずと言っていいほど雨が降る。この為、地元の人はボロ市=雨と連想し、八幡様は雨神様と思っている人も多い。科学的に言えば、9月15日から20日は、関東地方では夏から秋への変わり目で、秋雨前線が通過する時期にあたっていると言うことになる。

また近年、しばらく中断されていた千貫御輿の巡航が3年に1度、「やわたまつり」として開催されている。残念なことに千貫御輿をかつぐのは、地元民は少なく、各地からの同好者が多くなっている。子供御輿、子供山車も、期をずらして3年ごとに「八幡ふれあい祭り」として巡航しており、私も子供会を通してお手伝いをしている。

3.千本公孫樹

神社の本殿の横には、国の天然記念物になっている千本公孫樹という目通り10.8bを超える銀杏の巨樹がある。都市部にある巨樹は珍しい。

写真にあるように多数の銀杏の樹が寄り集まったような不思議な木で、小学生の頃、隠れて登ったことがあるが主幹がどうなっていたか記憶にない。

『江戸名所図会』には「神前右脇に銀杏の大樹あり神木とす。此樹のうつろの中に小蛇栖めり、毎年八月十五日祭礼のとき、音楽を奏す。其の時数万の小蛇枝上に顕れ出ず。衆人見てこれを奇なりとす」とある。

地元では「白蛇が住んでいて、祭りの囃子にあわせて姿を見せ、それを見た者は長寿になる」という言い伝えがあるが、私も含めて白蛇を見たという話は聞かない。

巨樹があることは、この土地に天変地異がおこらなかった証左であり、感謝して暮らしている。

神社本殿の横に鐘撞堂がある。神社に鐘撞堂とは珍しいと思っていたが、これは明治維新の廃仏毀釈で取り壊されるまで神仏混淆で存在していた法漸寺の遺構とのことである。

4.農業技術が花開いた時代

この境内に一つの碑が立てられている。大正四年に建てられた「川上翁遺徳碑」で、これは梨祖と呼ばれる川上善六翁(1742年生まれ)の事績を顕彰したものである。

 現在、皆様が食べている梨の栽培が、東国では、この市川市八幡から広まったことを知っている人は少ない。また梨と言えば鳥取の「二十世紀」が高名だが、この鳥取の梨のルーツも市川市八幡の葛飾八幡宮なのである。これから梨祖川上善六の功績を紹介したい。

川上善六の偉業を紹介する前に、その時代背景をまず見ていきたい。

江戸時代は農村にも偉大な人物が出現した。江戸時代の前期から中期にかけての農村の偉人は、困難な土木工事を成し遂げて新田を開拓したり、用水路を掘削した人物が中心である。各地にその人物を冠して○○新田、△△堀と呼ばれる地名が残っている。

江戸時代後期になると、農業経営とでも言うべき分野にも偉大な人物が出現する。関東地方の農村建て直しに尽力をした二宮金次郎(1787〜1850頃)、下総国香取郡を中心にして農民の心構えから説いて農村を立て直した大原幽学(1797〜1858)などである。

また農産物に目を向けた研究も進展している。サツマイモの栽培を奨励した青木昆陽はご存知であろうが、宮崎安貞(1623〜97)の『農業全書』は百五十種の農産物を取りあげている。

宮負定雄(下総香取郡)は50種以上の作物の栽培法などを記した『農業要集』(1826刊行)や、植物の雌雄を図示した『草木撰種記』(1828刊行)を刊行している。特に高名な人物は大蔵永常(1768〜?)であり、生涯に渡って多くの農業技術書、農業啓蒙書を書いた。代表作の『広益国産考』は1844年より刊行されている。

このように江戸時代後期の日本は世界でも最も進んだ農業先進国であり、代表的な蚕書はフランスに輸出され、その生糸生産に影響を与えているほどである。

5.市川市八幡の土

農業で大切になるのは土質である。次に市川八幡の土地という地域背景も説明しておきたい。

市川市にはご承知のように総武線の北側に黒松の巨木が多い。「市の木」も黒松である。昔は多く生えており、大きな松を敷地に囲い込んだお屋敷も多く見られた。相続税対策の為か、お屋敷は分割されてミニ開発となって、大きな松もかなり切り倒されている。また全国の松と同様に、大気汚染に弱ったり、松喰い虫の被害にあっている。昔に比べると松の木は減少して、風情がなくなりつつある。

黒松が多かったということは、三保の松原を思い浮かべるまでもなく、その土地が砂地であったことを示している。

葛飾八幡宮の境内も、昔に比べると黒松は少なくなった。今は銀杏とクスノキの大木が目に付く。私はクスノキが好きで、新緑の時期に天に突き出た枝先から朱が噴くような若芽は本当に美しいと思う。クスノキは暖地の海岸近くに自生するそうで、松の木が多いことと併せて、往古、ここが海岸であったことを示している。

すなわち、総武線、国道14号、京成線が通っているところは地質学的に言うと市川砂州と言われているところである。前に海(東京湾)、後ろにも真間の入り江につながる入り江が入り込んでいたところである。

(注)市川市の地質、地勢については、市川市立市川自然博物館のホームページを参考にしていただきたい。

寛政5年(1793)1月19日、葛飾八幡宮社殿西側にあったケヤキの枯木が大風で倒れ、その根元から一つの梵鐘が掘り出された。

総高117.2cm、口径66.7cmの梵鐘で、現在は県指定文化財になっている。これにある陰刻銘の一節「前横巨海後連遠村魚虫性動」により、元享元年(1321)のこの地の様子が理解できる。前の巨海が東京湾、横の巨海が真間の入り江に連なる海である。後ろに村が連なっている状況が目に浮かぶのは漢字の力である。

このような土地柄を反映して、「大芝原」(今は自治会名に残っている)や「菅野」という背の低い草が生えていたことを想像される地名や、「須和田」、「平田」、「真間」(窪地を意味する)、「富貴島」など湿地を連想する地名が続いている。

すなわち、市川八幡の土地は作物が作り難い砂地であったのである。

6.川上善六翁

さて川上善六の事績を紹介したい。

川上善六は寛保二年(1742)に八幡村大芝原(現在の八幡2、3丁目)に生まれた。

彼の家は祖父の代からかなりの借財を抱えており、貧乏な生活の中で、祖父を助け、父に仕え農業に励んでいたと伝えられている。

また彼は、小さい時から学問を好み、農耕の暇を見ては読書に耽ったそうである。

善六は一生懸命に農業に取り組んだ。この「砂地」という地質にふさわしい農産物の栽培を、試行錯誤を繰り返しながら工夫していた。
しかし、成果が得られず、このような状況では借財の返済は難しいことを悟らざるを得なかった。

その彼に転機が訪れたのは、明和九年(1770)である。この年の八月十五日からの葛飾八幡宮の祭礼のおりに、彼は境内に店を出していた古本屋から一冊の詩集を入手した。この詩集の一節が梨栽培に没頭したきっかけとなったと言われている。28歳の時である。

この詩集は中国の漢詩を集めたもので、その中にあって、彼の梨栽培に啓示を与えたのは、李白の「梨花白雪香」の五字と伝えている。

旧暦八月十五日の祭礼とは今に続くボロ市であろう。現在でも多くの出店で賑わっており、当地に住む私には実感できるエピソードである。
ただし私は川上善六が購入したのは、詩集というより、前述した時代背景にも見られるような農業書ではなかったかとも考えている。でも言い伝えのように詩集としておいた方がロマンがある。

ともかくそれ以降寝食を忘れて梨栽培に没頭したそうである。当時の善六に対しては村人は協力するどころか「梨気違い」といってさげすんだと伝えられている。

なかなか成果が上がらない中、彼は尾張・美濃の地方で梨の栽培が盛んであることを知る。そして寛政年中(1789〜1801)に同地方を視察・研究の為に訪れた。生年から算出すると47歳頃である。

彼は尾張・美濃地方の土質が濃尾平野を流れる木曽川、長良川、揖斐川の沖積地として、八幡と同じ砂地であったことに意を強くしたと伝えられている。

善六は尾張藩の許可を得て、強壮な梨の接ぎ穂を購入して帰路についた。この時のエピソードも印象深い。今日と違って交通不便な当時であり、枯らさずに持ち帰るために、彼は接ぎ穂をダイコンに挿して、道中の村々で新しいダイコンを求めては挿し替え、挿し替えて、水分を絶やさぬようにしながら、やっと八幡に持ち帰ったと伝えている。

そして、その接ぎ穂を葛飾八幡宮の別当寺である法漸寺の境内の梅に接ぎ木をして育てた。数年後には立派な果実をつけるようになり、その後川上善六は法漸寺の境内2000坪を借りて、梨園を開くに至る。

川上善六が梨祖とまで言われて尊敬されているのは、本人が梨栽培に成功しただけでなく、その梨栽培の秘訣を村人にも教え、梨栽培だけでも生計を立てていくことが出来ることを説いたことにある。当時の職人の世界などでは通常であった「師匠の技を盗んで覚えろ」と言う慣習を考えると、このノウハウの公開はなかなかできることではない。

このお陰で、八幡を中心としてこの地に梨栽培が広まり、「八幡梨」は江戸市場を賑わすようになる。
江戸時代の末には「八幡梨」は日に3000籠(1籠6貫=22.5sであり、6.75d/日となる)も江戸に出荷され、将軍家にも献上されるようになっている。当時の江戸周辺では他に栽培している所がなく、高値で売買された。栽培農家の生活が楽になったことも言うまでもない。

なお川上善六は接ぎ穂の藩外持ち出しを許可してくれた尾張藩主に対して、梨を毎年献上することも忘れなかったそうである。

川上善六は梨の栽培によって祖父以来の借財を返済し、なおかつ財をなしたが、決して奢らず、しかも温恭直実に世を送った。享和元年(1801)には当時の代官から孝養と勤勉を賞されて金千匹を賜り、苗字帯刀を許されている。

彼は孟慶と号して漢学を学び、村人の教育に当たり、文政十二年(1829)八月九日、八十七歳でこの世を去った。見事な人生である。

7.その後の梨栽培の広がり

八幡に始まった梨栽培はやがて菅野、平田、真間、鬼越、中山、宮久保と市川市北部に広まり、市川の梨として有名になる。さらに大柏、松戸、鎌ヶ谷、船橋と葛飾地区一帯に広まっていった。

明治二十六,二十七年ごろには川崎市の当麻長十郎の梨園で「長十郎」が作られたりして品種改良がすすんだ。

明治二十一年に松戸市八柱村の松戸覚之助が新種を発見し、それが明治三十七年に東京渋谷の果樹苗木販売業の渡瀬寅次郎と東京帝国大学助教授の池田伴親の両氏によって「二十世紀」と命名される。

この年に鳥取県の北脇永治という青年が松戸覚之助を尋ね、「二十世紀」梨の苗木十本を購入して持ち帰ったのが、鳥取の「二十世紀」梨の起こりである。

次いで大正五年に市川大野の石井兼吉が「二十世紀」と「独逸」を掛け合わせて早生品種を作り出し、大正十年には「石井早生」と命名される。8月頃から美味しい梨が食べられるようになったのは、このお陰である。

品種改良以外にも、大正中期の板橋勘次郎の小袋掛けの考案、昭和二年の板橋義雄の人工交配の導入など特筆される技術改良が進められてきて現在に至っている。

市川市八幡が栽培梨のルーツであることがご理解頂けたであろうか。

川上さん、石井さん、板橋さんという苗字は、この地区に多い。これらの方の子孫であろう。

8.往古の梨栽培の様子

なお当地方の梨栽培の様子は各種記録、文学にも紹介されている。

『江戸名所図会』には、当地の梨園の図を載せて「梨園、真間より八幡への行道の間にあり、二月の花盛は雪を欺くに似たり、李太白の詩に梨花白雪香と賦したるも諾なりかし」とある。李白の詩に啓発されたと言う川上善六にとっては最上の賛辞である。もって瞑すべし。

文化八年(1811)年に十方庵主と称した津田大浄が江戸付近の名勝古跡を遊歴した紀行文をまとめ『十方庵遊歴雑記』とした。その中に「下総梨林淡雪の号」として次のような紀行文がまとめられている。

「下総葛飾郡市川の渡しを越えてより、東の方船橋の駅まで三里余の間、通りの筋の村々農家の庭背戸、または畑山間等一面みな棚を拵え、梨の樹を植えて造りだすこと多し、−中略ーこの辺の梨は淡雪と称して、風味また格別なり、既に八幡の駅橋際、川島屋十平が宅に旅泊せしに、庭の外の空地百四五十坪の内、みな梨の棚なり、是程の地所に梨を作りていか程の要脚を得るやと問うに年々百弐参拾金内外は取揚ぐるなりと物語りぬ、一軒の家すらかくの如し、三里に余る道路の人家おや−中略−甲州の外江戸近辺にては、下総を第一とし梨に又数品あるが中にも、水梨淡雪などもっとも上品にして、此の土地の名産たるべし。」(注)『市川文学散歩』より、仮名ずかいを現代風に改めている。

当時の品種名は「淡雪」と言ったらしい。今は8月の終わりから「幸水」、次いで「豊水」、そして「新高」が代表的な品種である。この中でも「幸水」は本当に美味しい。もう10年近く前になるが、9月4日になくなった祖母の葬式の時に、京都から来ていた伯父が「幸水」の味にいたく感激して「うまいなぁ〜。こんなうまいのはじめてや」と感嘆していたのを思い出す。

明治の頃には梨と共に桃の栽培も盛んになり、東京から桃や梨の花見に多くの人が来訪したそうである。万葉集時代の美人として高名な真間の手児奈にゆかりのある真間山弘法寺にも次の歌碑が存在する。

 「梨咲くとかづしかの野はとの曇り」水原秋桜子

おわりに

6月15日、妻と一緒に栃木県の葛生に出向き、葛生町立吉澤記念美術館で伊藤若冲の晩年期の傑作「菜蟲譜」を拝見しました。野菜、果物と昆虫、小動物が書かれた12b余の巻物です。写実を突き詰めた末のユーモアを感じるような作品でした。この中にも立派な梨が描かれておりました。伊藤若沖が見て、描いた梨は関西の梨でしょうが、江戸末期の農産物の事情も知ることができて興味深かった。豊かな国、日本である。

また当日、拝聴した講演会で、吉澤家をはじめとする地方の素封家、篤志家と渡辺華山などの文人との交流など、江戸末期の地方文化の担い手の懐の深さを再認識いたしました。

それぞれの分野、それぞれの地方で、川上善六のような偉人がいたのであろう。その努力で、各地方が豊かになり、豊かになった素封家の中から、文化の担い手が出てきたのが江戸末期である。

こうした歴史を持つ町、郷土の偉人を、マンション建設業者は知らないであろう。また知ったとしても一顧だにしないに違いない。こうして豊かな日本の文化は破壊されていく。

参考文献


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