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伊藤 三平
【この絵を観ていて】…大きさ23×32㎝ この絵を観ると、自分も”清く正しく生きなくては”と言う気になる。内面の美しさまで表現できている。画いている舟越保武はカトリックの洗礼を受けており、そのように生きようとして生きた人なのだろう。 目の前にいるモデルを描いたものではない。作者の心から生まれた女性像である。 彫刻家のデッサンには良いものがあると言われるが、この作品など最たるものである。作者に『素描 女の顔』という画集(1985年)があるが、そこに所載されている多くの女性のデッサンよりも、私のこの作品(1960年)は勝ると自負している。 【作者略歴】 彫刻家である。1912年に岩手県一戸町で生まれ、2002年に89歳で逝去。父は熱心なカトリック教徒で、本人も家族も長男の死去を期にカトリックの洗礼を受ける。盛岡中学では松本竣介と同期で彼の死去まで親交が続く。 代表作は「長崎26殉教者記念像」や「原の城」などである。数々の賞を受け、1967年東京芸術大学教授となる。1987年に脳梗塞を患い、右手が不自由になるも、以降も制作を続けて新境地を開く。 国立近代美術館に「原の城」が展示されているが、前に立つと「大変な戦、ご苦労なさいましたね」と頭を下げてしまうような老武者の立像である。 文筆の分野でも、1983年に『巨岩と花びら』で日本エッセイスト・クラブ賞を受賞している。子息に、すえもりブックス社長の末盛千枝子、彫刻家の舟越桂などがいる。 |
【この絵を観ていて】…大きさ8号F(人物用)縦45.5×横38㎝ この絵は、刀装具の方の知人で、骨董商になった人から購入した。店に出向くと、この絵が飾ってある。「いい絵ですね」「わかる?先日、バスに乗っていて、車中から店の中のこの絵を観たという画商が来て、価格交渉をしていったよ」と言う。だから強気であり、たまたま持参していた刀装具2点に現金を足して購入したものである。 同じような構図で「白い帽子」(1947年)というタイトルの絵があり、この絵も奥さんをモデルにして、帽子に興味を持って同時期に描いたのかもしれない。対象モデル(妻)に愛情を感じて、それを包み込むように描き、不思議な量感を感じさせられる。 私は、他に「花瓶に入った枯れた蓮を描いたデッサン」も所有しているが、こちらは洲之内徹の現代画廊が販売し、目黒区美術館で「古茂田守介展」に出品され、図録にも所載されているものである。 【作者略歴】 1918年に現在の愛媛県松山市に町会議員の家に生まれる。幼少の頃から喘息に悩まされ、この持病で1960年に42歳で逝去する。兄が猪熊弦一郎に師事しており、中央大学法科(夜間)時代に兄が引き合わせ、才能を認められ、後に脇田和に師事する。大学を中退し、大蔵省に勤めながら描き、岡田謙三に師事していた涌井美津子と結婚する。いくつかの展覧会で賞をとり地歩を固めていくが42歳で死去。酒も大好きだった。 |
【この絵を観ていて】…大きさ0号F(18×14㎝) このヌードには生命が宿り、生気が溢れている。色は実際にはもう少し暗いが、生き生きした弾力のある肌を上手に配色して描き、観ていると豊かな気分となる。 原精一は裸婦を多く描くが、いくら画いても描ききれない魅力を見出していたのだと思う。それは女の魅力(色気)では無く、女体のもつ生気の方を強く感じていたからではなかろうか。 従軍経験で死を身近に感じた画家、住職の出の画家が、女体を描くことで生命の讃歌を詠じて、戦友を供養していたとも感じる。 【作者略歴】 1908年、藤沢の名刹:遊行寺内の真浄院の住職の息子として生まれ、中学校時代に萬鉄五郎に師事し、川端画学校にも通う。中学の先輩:鳥海青児に兄事して春陽会に出品していく。1936年に春陽会賞を受賞。 戦争中は召集を受け、中国、ビルマに従軍画家と言うか紙切れと鉛筆を忘れない兵士して出向く。インパールにも従軍し、画いていて死ねば本望として腹をくくり、スケッチをし続けて生還する。 戦後は各種展覧会に出品して活躍し、それだけ多作であり、その分評価を下げている。画家らしい風貌・豪放磊落さに加え、座談の名手として「最期の画家」として文士などからも慕われた。1975年に女子美術大学教授となり、1986年に78歳で死去。 デッサンの名手で戦時中のデッサンなども評価が高い。 |
【この絵を観ていて】…大きさ16×18.5㎝ 鉛筆画の名手の作品である。モデルを凝視する画家の目は髪の毛一本一本まで精密に描き分け、輪郭の遠近感も出ているし、髪の毛の艶まで感じる。全体の量感も見事であり、驚きを感じるデッサンである。若い女性の髪の毛を画きたかったのであろうか。怨念も感じるような絵である。 モデルが下方を見詰めているが、見詰める先には何があるのだろう。自分の人生の行く先を思い描いているのではなかろうか。 画家がモデルを凝視し、モデルも何かを凝視しているこの絵は、惰性で観ている私にモノを観ることの奥深さを教えてくれる。 人間、見ているようで観ていないのだ。観ることの凄みも感じる。 【作者略歴】 1947年に冨山市に生まれる。 作家自身のエッセイと画をまとめた『ペンシルワーク 生の深い淵から』を読むと、幼少期は極貧とも言える生活だったことが理解できる。 16歳時に自由美術協会展にクレヨン画が入選して注目される。木内克、麻生三郎に師事。9Hから9Bの鉛筆を駆使して細密なモノクロームの表現を確立する。 洲之内徹の紹介で最期の瞽女と言われる小林ハルに出会い、老女の皺一本ずつまでも年輪のように描き、驚嘆される。老人の絵、猫の絵などもあり、私は猫を描いたデッサンも所有している。 |
【この絵を観ていて】 売却したので画像は削除。 【作者略歴】 |
【この絵を観ていて】…大きさ24×33㎝ この版画は、ここに取り上げた画像は小さいが、それほど小さいものではない。78年の作品である。 作者は女の一瞬の表情を切り取りたかったのだと思う。その表情も、顔の左半分と右半分に違いがあると感じる。右は疑惑が生まれた瞬間ではなかろうか。左は諦めと悲しさも交じりながら強さを秘めている。肌も左側は傷つけられているような表現だ。 版画の技法は詳しくないが、頭髪はボリューム感に溢れる線の集積だ。綺麗・上手・美しいという線ではなく、不思議な線の集まりだが魅力がある。眉と鼻筋の線で立体感を表現し、目には力がある。 【作者略歴】 1934年に満州国奉天で生まれ、1997年に63歳で逝去。彫刻や陶芸も行い、『エーゲ海に捧ぐ』で77年に芥川賞を獲り、同名の映画作品も手がけるなど多彩な活躍をする。66年にヴェネツィア・ビエンナーレで版画部門の国際大賞。この作品は78年制作である。 この人はテレビにも出演するなど、多方面に活躍するが故に、美術界においては正当に評価されていないきらいがある。エロスの作家と片付ける人もいるが、私は線の表現=無造作な引っ掻くような線(版画の技法から来るのか)の集積なのだが惹きつけられる。。 |
【この絵を観ていて】 売却したので画像は削除 【作者略歴】 1914年に中国安東県(現・遼寧省丹東市)に生まれ、1991年に逝去。父は三井物産社員、親戚の日本画家小堀鞆音に透明水彩を学び、帝国美術学校(現・武蔵野美術大学)を中退し、自由美術協会に属す。 不気味なものを画いたりして、不安とか心の奥底の不条理、人間の醜さなどを暴くようなシュールレアリスムの画家と見なされる。一方で、この絵のような弱者で身近な対象物への慈愛に満ちた水彩画を残している。 戦後、脚光を浴び、サンパウロ・ビエンナーレなど各種の国際展に出品を重ねる。 小山田二郎は、幼いころの病で顔がただれたように損傷してしまっていて、そのことで学校でずいぶんからかわれたそうだ。こんな小山田の元に来てくれて、生活費を稼いでもらっていた奥さんと一人娘を置いて、ある日、若い女の元に出奔してしまい、死ぬまで戻ってこなかったという世間的には不道徳なことを行う。画家本人にしてみれば、そちらの方が自分の気持ちに素直な生き方だったのだろう。 |
【この絵を観ていて】…大きさ16.5×23㎝ 好きなデッサンである。スピード感溢れるデッサンだ。モデルを目の前にして描いたと思うが、外国人女性であり、ハルピン時代に恋をしたというロシア人女性の面影を後になって描いたのかもしれない。 モデルの女性の凛とした美しさを捉えている。美しい女性だが、か弱い女性では無い。意志が強いというか芯がしっかりした女性と思える。自分で運命を切り開く気概まで感じる。私よりも逞しいだろう。 キチンと狂いの無い線を描いていくのも大変な才能だと思うが、このように早描きで輪郭を捉え、加えて質感を把握し、表情に加えて内面まで描き込めるは凄いと思う。 右肩の線は落ち過ぎていると思う。また襟元の濃い黒の塊(現代ではピンマイクのようなもの)は何なのかと思うが、画家は顔・表情・性格・感情を描いたのだ。あるいは画家本人の内面を出しただけなのかもしれない。 【作者略歴】 1915年に現在の世田谷区柏谷に生まれ、1956年に踏切で国電に触れ死去した。自殺ともいわれる。享年40歳。出生の秘密があったとも伝わるが不明である。 東京美術学校西洋画科に入学したが、両親や親戚の反対で断念。その後、川端画学校に学んだのち満州に渡り、さらに聖ウラヂミール専門学校に学んだ。ハルピンに約7年滞在、昭和15年帰国した。帰国後は独立展に出品し、18年第13回展では「母子」で独立美術協会賞をうける。戦線の急迫とともに、ジャワ方面に従軍し、同地で住民の文化指導にも従事していた。現在のジャワ美術学校創設の基礎は、当時の彼の努力によるところが大きかったといわれる。 戦後は独立美術協会会員となり、同展で活躍するほか、日本国際美術展、アンデパンダン展にも作品を発表していた。 |
【この絵を観ていて】…大きさ22.5×16㎝、サインと1935.7.5の制作日 観ていると、清らかな気持ちになってくる。そして少年には凜とした強さがある。 ルンペンのような生活の中で気が向けば何にでも画いたとされ、簡単な絵も多いが、これは気合いを入れてモデルに向かい合った絵であり、タッチが力強い名作である。中学時代に少年に恋をしたとも伝わるが、その少年を彷彿させるような綺麗で両性的な雰囲気を持つ少年である。カタログの一冊には「少女像」として掲載しているものもある。 昭和51年2月の「長谷川利行展」(主催毎日新聞社、後援文化庁・東京都教育委員会)の出品シールが貼付されていて、同展のカタログに収録されている。 板橋区立美術館が1988年に開催した『東京の落書き 1930’s 長谷川利行と小熊秀雄の時代』展にも出品され図録にも掲載。 【作者略歴】 京都の淀で1891年に生まれ、淀の小学校から、兄が進んだ和歌山の中学に学ぶ。水彩画、文学、詩作に親しむ。中学を中退して29歳に上京するまでが謎に満ちた青年時代である。短歌に親しみ、小説も書く。32歳で絵が入選する。昭和2年の第14回二科展で樗牛賞を受賞する。強く推奨したのは正宗得三郎や有島生馬などである。なお当時の画壇の中では里見勝蔵や熊谷守一は利行の才能を認めるが、梅原龍三郎、安田靫彦などの多くの画家は嫌っていた。 貧困と無頼に流れ、酒乱と奇行の13年の画家人生が始まる。1930年協会奨励賞を受賞する。絵の押し売りをするなどの悪評も立つ。昭和15年に東京市養育院に収容され、逝去する。享年49歳。 |
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