3800年前の縄文式土器片

伊藤 三平

日本における貝塚史跡は約2500箇所発見されており、その4分の1近くが東京湾の東沿岸一帯。中でも千葉県下に集中している。
千葉市にも加曽利貝塚という有名な史跡があるが、市川市にも堀之内、曽谷、姥山という名高い貝塚が国史跡として存在している。
私が書くのは、小学校の時に市川市の曽谷台で拾い、今も手元にある縄文式土器のかけらのことである。

1.手元に残る縄文式土器片

小学校の3、4年の頃の話だから、今から50年近くも前のことになる。クラスに少し大人びた級友がいた。親しくはなかったのだが、今、私の手元にある縄文式土器のかけらは、彼に誘われて出向いた市川市立第三中学校(市川市曽谷3−2−1)の先(北側)の畑の中から拾ったものである。彼とは小学校5、6年になってクラスも別れたので、彼の中学進学先や、いつ引っ越したのかも不明(家もなくなっている)である。彼の土器の知識は豊富で、今の言葉で言えば考古学オタクであり、集めていた土器も見せてもらった記憶もかすかにあるが今は霧の中である。

私は昔から歴史好きであり、クラスの中で彼の縄文の知識に関心を持った少ない人間だったことが契機であったに違いない。もっとも、縄文土器片の採取はたった1度だけのことであり、人生における点としての出来事である。点の出来事と書いたが、一期一会という言葉があるように、人生に生ずる全てのことも点の出来事には違いないのだが。

市川三中は本八幡駅から北(松戸方面)へ伸びる大通り(中央通り)をまっすぐ約2q程度行った台地の上(左地図では宮久保坂上バス停)を約150b程左(西)に入った崖の先端部にある。
中央通りに沿って北へ地名を列挙すると、「八幡」、「東菅野」、それから真間川を超えて「宮久保」、坂を登った台地が「曽谷」となる。(「曽谷」の右隣が「下貝塚」)
葛飾八幡宮からの地名の八幡は別だが、野・窪(久保)・谷の字から地形が想像されよう。真間川の「まま」という言葉は古語で崖下を意味すると聞いた。

市川三中は私の家からも約2qで、中学生時代は自転車通学をした距離であり、10歳前後の子供にとっては大旅行だったはずだ。バスで行ったのかもしれない。
余談になるが、台地の上にある中学への自転車通学では毎日、坂道で苦労をした。標高差は20bも無いと思うが、急に立ち上がっている坂道だ。当時は変速ギアがない重たい自転車だ。逆に帰りは、この坂道をブレーキを掛けずにどこまでスピードに乗って降りて来られるかなどの小さな冒険をしたものだ。信号のタイミングや、自動車混雑度合い、風などの状況によるが真間川の橋(宮久保橋)まで自転車を漕がず行けたくらいだから、その高低差の程度を想像してもらいたい。 

手元にある縄文土器片を拾った地点は、市川三中の校門を右(北)に行ったところであったのは間違いがないが、どのくらい行ったかなどは忘却している(左の地図では蓮生寺、安国寺あたり、後述するが、専門家の鑑定では安国寺あたりだろうとのこと)。中学時代にも再訪もしていない。そこには畑の作物が植わっていたような記憶がある。また畑の土にはたくさんの貝殻片が混じっていたことは明確に覚えており、「貝塚は本当に貝殻だらけだ」と認識を新たにしたことを記憶している。発掘したというより、そこらに落ちていたのを拾ったり、簡単に掘って拾ったと言うのが実情である。農家の人に挨拶をしたという記憶も、逆にコソコソと拾ったという記憶もない。

ちなみに市川三中も寺山貝塚の一部とも言われている。校歌の一節「遙かに霞む富士峰(ふじがね)を低く見下ろす曽谷台」を記憶しており、確かに富士山も見えたから、縄文人も同じように、この高台から富士山(この頃は活火山か?)を見ていたのだろう。

今、私の手元に残っている縄文土器のかけらの裏には拙い数字が書いてあるから12個程度は拾ったようだ。現存するのは7個である。

2.昔、拾った縄文式土器に関心を持った契機

今年、『戦国仏教』(湯浅治久著)という本を読んだら、市川市の北にある大野地区のことが非常に詳しく書かれていて驚いた。松戸にある日蓮宗寺院の本土寺の「本土寺過去帳」という貴重な資料が、市川市大野(当時は下総国八幡庄大野郷)のことを浮かび上がらせていたわけだ。

この過去帳によって応永初年(1394年)から年次別の死亡者の数が調査されていて、死亡者が多い年は別の資料から飢饉の年だったこともわかっていて驚く。豊饒な縄文時代とは違う、餓えに苦しむ凄惨な中世が浮き上がる。

江戸時代の大野郷の地図も詳しく掲載されており、今は私の家の菩提寺になっている寺のことも出ている。昔の地図と今の地図を同じ縮尺にして、自転車で確認して回ったが参考になった。

下総台地の西の端だが、北総地区によく見る台地と谷津(やつ)が連なる地形である。要は昔は台地の裾に集落があって、谷津の田を耕していたのが基本である。今は谷津が平坦で開発しやすいから、そこに道路ができて、その周りに住宅が密集しているわけだ。台地の上で、昔、城や寺社があって、道路が四方八方につながっていたところは、今も交通の要所になり、人家が密集している。

そのようなことで、この本は興味深かったが、この著者が市川歴史博物館の学芸員であることを巻末の著者紹介で知った。

このことが、50年前に拾った縄文土器のことを思い出すきっかけになった。ここの学芸員に観てもらえば、拾った縄文土器の製作年代がわかるのではないかと。
電話をしたら、市川市には考古学博物館もあり、鎌倉時代以前はこちらが担当しているとのことであった。(両施設とも堀之内貝塚内にある)

3.縄文式土器片の時代

事前に電話した時は、「市川三中の先で拾ったと言うのなら向台貝塚ではないかと思います」とのことだったが、持参して見てもらうと、次のようなことであった。

(1)縄文式土器の時代と形式

「この土器から判断すると、拾った貝塚は、向台貝塚ではなく、その少し先の明神前貝塚と思われます。土器は堀之内式土器(約3800年前)が6つ、それに安行式土器(約3200年前)が1つです。いずれも縄文時代後期のものです」とのことだった。

いくつか図示すると次の通りである。はじめの3つが堀之内式(約3800年前)縄文土器である。(堀之内貝塚ではじめて発見された土器のタイプ))

左の土器は、3つに割れていたのを、少年時代の私が接着剤でつけたもの。その汚れが出ている。こんなことも熱中してやったのだろうか。

以下は安行式(約3200年前)縄文土器片である。 川口市の安行(あんぎょう)領家猿貝貝塚ではじめて発見された土器のタイプを言う。


もちろん、私は、どこで、どのように、このように簡単に鑑定できるのかはわからない。専門家にとってはすぐに判るというわけだ。
(以上の鑑定や、以下のお話を伺った学芸員のお名前を出そうかとも考えたが、私が正確に聞き取っているか自信がないので、ご迷惑がかかることを怖れて匿名とさせていただく)

(2)土器のタイプ

堀之内式、安行式の土器のタイプはそれぞれにおいてT式、U式とかあって、一つではないようだが、その時に説明して、図示していただいたものを提示した。(HPとか、資料にも出ているが、学芸員さんの肉筆が私にはシンプルでわかりやすい。この堀之内式はU式土器のタイプのようだ)


土器の模様とか、色で判別するわけではないようで形状での判別が基本のようである。安行式は縁のところの厚さが厚いと教わった。
市川市考古博物館には模様の描き方の陳列もされており、縄を巻いた棒を転がしたり、貝で描いたものなどがあった。
色は煮炊きなどの使われ方で変わるらしい。

(3)縄文時代の区分

この時に伺ったお話だと、縄文時代は次のように区分されるとのこと。
草創期 12,000年前〜9,500年前
早期    9,500年前〜6,000年前
前期    6,000年前〜5,000年前
中期    5,000年前〜4,000年前
後期    4,000年前〜3,000年前 ★私の縄文土器片の時代
晩期    3,000年前〜2,500年前

堀之内式は3800年前だから、縄文後期の前葉で、安行式は3200年前だから縄文後期の後葉というわけである。

曽谷の向台貝塚は縄文前期と縄文中期の遺跡だから、出土品である私の土器片とは時代が合わないから、近くにある縄文後期の明神前貝塚ではないかと推論されたわけである。

なお、千葉市の加曽利貝塚は北と南に別れているが、北貝塚は縄文中期(約5000〜4000年前)、南貝塚は縄文後期(約4000〜3000年前)で最も栄えたのが縄文後期の3500年前とのこと、姥山貝塚も縄文中期と縄文後期の遺跡であり、ほぼ同じような時期に全盛期を迎えたわけである。当時の千葉県の居住環境の良さが偲ばれる。(ある調査によれば縄文後期の日本の人口は160,300人。内、関東地方が51,600人とのこと。その中でも千葉県北総台地が日本の中心地だったのだ)

(4)明神前遺跡の位置と縄文時代の市川市

『市川市縄文貝塚データブック』(市立市川考古博物館 平成20年2月刊)から、当時の市川市の地図(地形図)と明神下貝塚等の位置を図示すると次の通りである。
市川砂洲の海岸線が
今の総武線の少し上。

市川砂洲上に千葉街
道(国道14号)、京成
本線が通る。

市川砂洲の北へ一番
出っ張った所の延長
の曽谷台の25が、市
川三中の少し手前の
寺山貝塚。

明神前貝塚は22、向
台が23、曽谷は15。

堀之内は左の国分台
の9。
姥山は右の柏井台の
48。

 

 

(5)貝塚は遠浅の海岸がある台地上

図の曽谷台の遺跡を見ると、左側の国分谷側に●印の貝塚遺跡、右側の大柏谷側は○印の縄文遺跡はあるが貝塚遺跡はないことがわかる。これは大柏谷側が切り立っていて、遠浅の海岸(貝が採取可能)が無かったことによるとのことで「なるほど」と思った。

(6)曽谷台の貝塚の北進

基本的には曽谷台にある貝塚は、南側(海側)の寺山(25)、宮久保(27)、菅原(28)が縄文前期で、北に上がるにつれて向台(23)、根古谷(21)が縄文前期・中期、平作(24)が縄文中期、そして明神下(22)が縄文後期と時代が下がってくる傾向があるとのこと。(曽谷(15)は前期と後期の遺跡)

曽谷台の貝塚遺跡の変遷を上記のように教えていただいたが、『市川市縄文貝塚データブック』を読むと、曽谷台の各遺跡は調査も十分にできない内に、都市開発の波に飲み込まれてしまったようで、きちんとしたデータが残っていない所も多いようだ。掘ればどこからでも出てきそうな場所である。

(7)大貝塚は、深い入江(縄文人の生活)

私が、「そのような遺跡の変遷傾向は貝が取れなくなってきたからですか?」と聞くと「縄文時代の主食は木の実で、貝や魚は副食。だからそういうことではないです。」とのことであった。
縄文人は、春から夏に貝を採取し、夏に前の海で魚を捕り、秋は木の実を集め、サケやマスを捕まえ、秋から冬は鹿やイノシシの中型獣を弓矢で採ったり、罠を使っての狩猟をやっていたようだ。(寒冷期でマンモスなどの大型獣がいた時は、槍での狩猟が中心だったようだ)

このことは学芸員に教えていただいたわけではないが、図を見ると、堀之内(9)、姥山(48)、曽谷(15)の国史跡になっている大貝塚は、深い入江に面した所にある。当然、波も静かと考えられ、舟を繋留するのにも便利そうな所である。貝は自分たちだけで消費せず、加工して物々交換にも使ったようであり、舟を使った交易まで考えられる。

ちなみに向台遺跡(23)から黒曜石の石器が出土しており、これを理化学的な方法で調べると、伊豆諸島の神津島産が大半で、わずかに長野県の霧ヶ峰産が混じることが判明している。想像以上に広範囲に活動していたようだ。これらの大貝塚=貝の大加工場というのも理解できる。

「縄文時代は集落間でのあまり大きな争いはなかったようです」と述べられていた。「人骨のDNAなどが調べられると、遺跡間の交流などもわかるのですが、遺跡間の交流は当然にあったと思います」とも述べられていた。モノの交流があれば、当然にヒトの交流もあったと思われる。
人間のやること、考えることなど、今と大差ないのであろう。

(8)市川砂洲の形成

拙宅は市川砂洲の上にある。市川砂洲は前述した古代の地形図に見るように、千葉街道(国道14号)、京成本線が通っている所である。本八幡駅付近では総武線は砂洲上ではなく海の中だと思う。ほんの少し北側に海岸と思える段差がある。

平安・鎌倉期には東海道が、この上を通っていたという説もある。砂浜には船着き場もいくつかあり、舟で鎌倉へ行くルートもあったようだ。日蓮上人はこの浜から舟で鎌倉を目指したこともあったようだ。

今はそうでもないが、市川には松が多くあり、市の木も黒松である。「三本松」、「一本松」の地名も残っている。松が多かったこと自体が砂洲であったことの証明でもある。家の近くの葛飾八幡宮の入口、京成の踏切のところに昭和30年代の初めには直径5bはあろうかと思われる大きな松の切り株が残っていた。先年、マンション建設反対時に地元の古老の話を聞いていたら、その松の巨木は、東京湾を通る船の目印になっていたそうだ。

『更級日記』の作者が通った「まつさと」は松戸との説があるが、ルートを追っていくと文字通りに「松の里」の市川ではないかとの説もあるそうだ。
市川砂洲の内、江戸川寄りの地点が最後まで海に口を開けていたようで、それが万葉時代の美女、手児奈の伝説で名高い真間の入江(真間山弘法寺の下)である。

なぜ、このような砂洲が出来たかについて伺うと、国分谷、大柏谷の川から海に流れ込む土砂が多く、その中でも重たい砂が、東京湾の寄せる波とぶつかって、途中に堆積した為と教えていただいた。

終わりに−土器片を調べてみて−

自宅は市川砂洲の上、そして墓所は曽谷台の奥の大野は殿台(34)遺跡の近くである。私も、いつかは曽谷台に眠るわけだ。
自分の持ち物の縄文土器のかけらの素性調査を通して、この地域を知ることができて面白かった。学芸員は明神前遺跡(現在の安国寺周辺)の出土だろうと推測されたが、今、現地を確認すると、当時、ここまで行ったとは考えられず、もう少し市川三中に近かったような気もしているから、都市開発の中で、知られずに消滅した遺跡の一つかもしれない。しかし、私の記憶より、専門家の判断を大事にしておきたい。

縄文海進の時代は、暖かな時代で、今より海面が3b以上高かったようである。当時は堆積物も少なく、市川砂洲も海中に水没して、貝塚がある台地の際が海岸線であったわけである。
現在、地球温暖化=北極・南極・氷河の氷が溶けての海進が問題になっているが、往古を知ると、地球の気候変動の大きな動きの一環で、元に戻るだけなのかなとも感じてくる。
私は環境を大事にすることに異論はないが、環境問題にはいい加減な根拠の論説もあると批判する人もいるが、一理あると思う。

前述したが、今の人家は開発がしやすかった市川砂洲上や、国分谷、大柏谷の低地に圧倒的に密集している。国分谷、大柏谷に該当する地区は古代の地形にもあるように海や湿地帯であり、海から遠いと言えども地盤は悪いのだ。
市川砂洲は早くから陸になり、重たい砂だから意外に地盤が安定しているとか、関東大震災の時はあまり揺れなかったとも聞いたことがある。平安時代からこの地に葛飾八幡宮が鎮座されているから地盤は大丈夫と言う人がいるが、気休めであろう。来たるべく大地震でどうなるのであろうか。
ちなみに市川砂洲の南側(総武線の南側)などは、私が少年の頃は鷺がいて、ザリガニを採った水田が東京湾まで続くような場所であり、地盤を論ずること自体が意味のない地域であるが、そこにも住宅が北側以上に密集している。地下鉄東西線や、さらにその先には京葉線も通って開発されている。怖いことだと思う。

学芸員の方に「今、土器のかけらなどを拾ってはいけないのですか?」と伺うと、「遺跡にもランクがあり、国史跡のように拾うこともいけない場所から、地主に許可を得れば可能な場所まであります。私自身は縄文土器片を拾ったことで興味を持ち、その興味が大人になっても続いている人間なんです。だいたい、子供が拾ってきてもお母さんが捨ててしまうのですが、伊藤さんが50年近く持っているのは珍しい方ですよ。こういうものを拾うことで、考古学に興味を持つ子供も生まれるのですが」と。
高校時代の同期生の一人は千葉の加曽利貝塚の発掘現場で、掘っている人から土器片を秘密裏にたくさんもらい、それを郷土史研究会の級友にあげたら、「これだけあると復元できるかな」と喜んでいたそうである。今とは時代が違うのであろう。
3800年前の、当時は日本全体で約16万人しかいなかった内の誰かが、作り、使っていたもののかけらである。理科離れ対策と同様に、考古学・歴史好きを育てる為にも、小学生にも掘らせて、大して価値のない土器片などはあげたらどうであろうか。
インターネットで検索すると、私の所持している土器片程度のものを地方の博物館が展示しているのもあり、息子が興味がなければどこかの学校に寄贈することも考えたい。

流通業で出店に際して、そこが遺跡調査が必要と指定されている地域だと、開発業者の費用での発掘調査が義務づけられる。この費用は軽く1000万円を超えることもあり、加えて調査期間も馬鹿にならず、出店を断念することも多い。縄文時代における伊藤家程度の家があった所など掘っても大したものも出ないと思うが、そうもいかないようだ。北関東のある行政では、発掘した土器片などの保管も馬鹿にならず、困っていると聞いたこともある。難しい問題だ。(開発の途中で遺跡が出て、それを届け出ることもなく潰して、工事を進めた会社のことも聞いたことがある。これは犯罪だ。)
 一方で、天皇陵とされている古墳は宮内庁が発掘させない。今の皇太子殿下は日本史を研究されているのだから、御英断で発掘を認められたら、日本史が変わるような大発見もあるのではなかろうか。発掘作業という雇用も生むから、税金のバラマキよりも意義があると思う。そんなことまで考えた。

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