50歳、思い切って取ったリフレッシュ休暇

伊原 昭男

 1999年7〜8月にかけ、会社から50歳記念のリフレッシュ休暇をいただいたので、思い切って3匹の子供を残し、かつて4年間駐在をしていたジュネーブを中心にイタリア、スイス、フランスを10年ぶりに訪ねました。
 以下は、その備忘録を兼ねた私のメモですが、伊藤三平君の説得に合い、恥ずかしさを省みず、そのまま掲載させていただきます。

はじめに

Bonjour, Mesdames, Mesdemoiselles et Messieurs.

 ただいま。


 リフレッシュ休暇からもどり、暑い暑い大阪に復帰しました。
ヨーロッパにいる間に日本の暑さのピークは通り過ぎたものと期待しつつ帰国しましたが、大阪入りしたところ、まだまだピークの真っ只中でした。 今日の最高気温は36℃、これがこれから1週間続くそうです。 


 ジュネーヴでは、昼間25℃で、ホテルにはエアコンがないことも忘れ、ついついエアコンのスイッチはどこかとレセプションに聞いてしまったが、夜は窓を開けると寒いぐらいでした。 


 今回の旅行に際して家内は、3匹の子供達、特に一番下の中二の女の子のことをとても心配し、二の足を踏んでいましたが、結果は3人でとても仲良く助け合って、洗濯、掃除、買い物、料理、片づけ、布団干し、2匹の犬の散歩(3回/日)等々を分担し、この17日間を切り抜けたようです。 


 特に、一番下の女の子にとっては、この期間中にバトミントンの大会が4・5回あって、その日は朝5時半に起きて自分でお弁当を作って行かなければならず、我々の出発前は「べそ」をかいておりましたが、なんと実際は前の日にお兄ちゃんが「お弁当」になる食材を買い込んできてくれるなど、本当に感激するような協力をしたようです。
 お兄ちゃん達のこのような行為は、家内がいると、まず見られません。 

 さて今回の旅は15泊17日で、まず Venezia(ベニス)で3泊したあと目的のジュネーブに入りました。 そこで13日間レンタカーを借り、ジュネーブを中心に高級ワインで有名な Bourgogne(ブルゴーニュ)や古城群で有名な Loire(ロワール)の旅に遠出をしました。 

 ジュネーブと言っても、ジュネーブ市内はホテルが高いため、国境を越えたフランス側のとなり町、Ferney(フェルネイ)という町に(キッチン・食器付き)住居を借り、ジュネーブには毎日 国境を越えて出入りしました。(ジュネーブまでは車で2分、バスも走っています。 言葉も同じフランス語なので、国が違うという意識はありません。 ただ、お金が違うのだけは面倒です。)

 では、それぞれ旅の一部を紹介させていただきます。

 

1.    Venezia(ベニス)の旅 (3泊)

 イタリアの観光地はSicily(シシリー島)を始めいろいろ訪ねたことがあるが、「まだ一度も行っていないベニスに是非行ってみたい」との家内の希望を入れ、立ち寄った。 

 ベニスも、観光地の例に漏れず、物価は高いし観光スポットでのレストランは旨くないが、庶民が集まる「朝市」には新鮮な野菜、果物、魚介類が山積みされ、その種類の豊富さと安さは昔どおりで、「太陽の国」イタリアは今も健在であることを再確認した。

ベニスの朝市


 今回の発見、Suchette(シュケッテ)という果物は、チュニジアのバザールで、そのドライフルーツを食べたことがあるが、生のまま食べたのは初めてであった。 葡萄のようなプルーンのような、甘くて歯ごたえがあって「やめられない、止まらない」、ふたりで歩きながら半キロをペロリと平らげた。

 また、魚介類では皮を剥いた小「サメ」が、よく売れていた。 (私目はどこに行っても、市場とか朝市とかバザールとかが大好きである。 一般庶民の素顔の生活が覗けるような気がしてね。) 

混み合った水上バスの中で家内が「スリ」を撃退するという武勇伝はあったものの、そのほかは比較的安全で、治安の悪さは南イタリア Napoli(ナポリ)や Roma(ローマ)ほどではない。 
さすが北イタリアは、今でも南ほど汚染されていないようである。

 観光第1日目は96mの鐘楼にのぼり、上からベニスの町を眺め下ろす。
(これは我々夫婦のいつものパターン。 高いところから見て、まず土地感を慣らすのである。) そのあと1日半をかけて、San Marco(サンマルコ)寺院、Murano(ムラノ)島等をゆっくり見学し、買い物した。

長男(大学3年)に頼まれた Maschera(ムシケラじゃあなくって「マスケラ」:仮装用の仮面)を探し回り、最終日に、ねらい定めた店に行こうしたが、「細い路地」と「高い石の壁」に阻まれ、なんとほとんど迷子状態になってしまった。 たどり着いた時は30分差で閉店となってしまい、あわてて他の店に飛び込もうとしたがどこも店じまい。 最後の最後の1軒、閉店直後の店を叩き、事情を話し頼み込んで開けてもらった。 (こんな土壇場でも英語よりフランス語が通じるとは…。 語源が近いため一般庶民には英語よりフランス語の方が通じ易い。)

 購入したマスケラは、満足度100%ではないものの、店を開けてくれた「若くて、美しくて、優しい」女性の手作り作品(仮面)であった。 もちろん、この「記念の土産」に対する「記念」に、とその女性の写真を撮らせてもらった。

 ベニスからジュネーブへの移動は、張り込んで、Milano(ミラノ)経由の「特急列車の旅」とした。 シーズン中であるにもかかわらず、国際特急の1等コンパートメント席を、結果的に夫婦で占有することになった。

 列車が Simplon(サンプロン)峠のトンネルを抜け、いよいよスイスの見慣れた Valee(ヴァレー)の谷を進むにつれ、家内の目には涙。  
 あれあれ!?!  
それはジュネーブに赴任した当初、7才、3才、3ヶ月の子供を、海外でただひたすら育て、守り抜いた当時の苦労を思い出したためであった。

 

2.    Bourgogne(ブルゴーニュ)の旅 (1泊)

 ジュネーブ到着後3泊して Bourgogne(ブルゴーニュ)の旅に出た。
 4年間のジュネーブ駐在や出張の週末等で幾度となく走った Route des Grans Crus(ルート・デ・グラン・クリュ)「高級ワイン街道」であるが、一度も行ったことがない家内を連れてのんびりと走ることにした。

 主だったところでは、Bourgogne(ブルゴーニュ)公国の都 Dijon(ディジョン)をはじめ、北から[Fixin](フィクサン), Gevrey-Chambertin(ジュヴレィ・シャンベルタン), [Morey-St-Denis](モレィ・サン・ドゥニ), [Chamballe-Musigny](シャンボール・ミュジニー), Clos-de-Vougeot(クロ・ドゥ・ヴジョ), Nuits-St.-George(ニュイ・サン・ジョルジュ), Vosne-Romanee(ヴォーヌ・ロマネ), Beaune(ボーヌ), Pommard(ポマール)等々である。
(括弧[ ]は通過した村名)、 これらの村々は、聞くべき人が聞いたら「よだれ」が出そうな、高級ブランドの村名である。
「あーあ」、ワイン派には何度通っても感激が新たに高まるのである。 

ヴォーヌ・ロマネのぶどう畑

 今まで、ジュネーブからの日帰り旅行ではいつも北から攻めていたので、どんなに早朝早くジュネーブを出発してもBeaune(ボーヌ)で夕刻になり、Pommard(ポマール)では夜になってしまい、Chateau de Pommard(ポマール城)には一度も入ったことがなかった。それでもジュネーブの帰着は毎回シンデレラであった。

 今回は Gevrey-Chambertin(ジュヴレィ・シャンベルタン)で、飛び込みであったが、小奇麗なホテルに泊まり、2日間を割いて回ったので、全て日中に訪問することができた。

 ジュネーブの友人に紹介された Chateau de Gilly(ジリー城)も今回初めて訪問したが、この庭の美しさは絶句ものである。ついつい幾度もシャッターを切ってしまった。 

 日本にワインを送ろうと村ごとにCave(カーヴ)と交渉したが、どこもフランスからの送料が非常に高いので、結局Bourgogneから送るのを断念し、後日ジュネーブの専門店から送った。 

カーヴの壁沿いにはワイン瓶が並ぶ

薬剤師の家内は、途中で立ち寄った Arbois(アルボア)村の「Pasteur(パスツール)の家」や Beaune(ボーヌ)の「 Hopital Dieu(ホピタル・デュー:昔の病院)」に大いに興味を示していた。 「 Pasteurization(低温殺菌法)」という専門用語の語源が「 Pasteur(パスツール)」であったとは、家内はガイドの話しを聞くまで想像だにしなかったようである。

 

3.    Loire川流域の古城めぐり (3泊)

フランス史というと、ついついパリやヴェルサイユを中心に栄えた Bourbon (ブルボン王朝)、すなわち Luis ]W(ルイ14世)で頂点をきわめ、1789年のフランス革命で断頭台の露と消えた Luis ]Y(ルイ16世)を最後に滅びた Bourbon(ブルボン)王朝を連想しがちである。 

 しかし、Loire川流域を中心に栄えた王朝は、その前の Valois(ヴァロワ)王朝で、今回その歴史を、それも学校で習う政治史でなく、生活・文化・人の愛憎・陰謀・策略等、政治史の舞台裏の面白い人間模様に触れられたのは実に興味深いものであった。 

 時期的にも日本の室町後期から戦国時代で、背景的にもよく似た戦国の世で、英国と英国に組した Bourgogne(ブルゴーニュ公国)とを相手に戦った「100年戦争」頃からの王朝である。 

 主だった登場人物としてはCharles Z(シャルル7世)、Jeanne d
Arc(ジャンヌ・ダルク)、Charles [(シャルル8世)、Luis ]U(ルイ12世)、Francois T(フランソワ1世)、Henri U(アンリ2世)、Henri V(アンリ3世)等々が登場し、この旅はその一大絵巻き物語の舞台となった古城群を巡る旅である。  
たとえば、そのいくつかを紹介すると…

 

@ Chateau de Chinon(シノン城): 

 まだ王子であった Charles Z(シャルル7世)は、神の予言を受けたという田舎娘Jeanne d
Arc(ジャンヌ・ダルク)を試すため、この城で、自分は群衆に紛れ「替え玉」に謁見させようと図ったところ、Jeanne dArc(ジャンヌ・ダルク)は「替え玉」には目もくれず真の王子の前にひざまずいて「貴方こそ真の王子です。 王位継承を受けるべき方です。」と進言したという(1429年3月)。

シノン城

 これ以降 Jeanne dArcは Orlean(オルレアン)の町を英国と Bourgogne(ブルゴーニュ)公国の連合軍支配から開放するなど、連戦連勝の快進撃を続け、同年末 Reims(ランス)においてCharles Z(シャルル7世)の戴冠式を実現するのである。

 

A Chateau de Blois(ブロワ城): 

 (Valois(ヴァロア)王朝のLuis]U(ルイ12世)以降 Henri V(アンリ3世)まで6代の王が棲んでいた城。)
 Charles [(シャルル8世)の妻として Bretagne(ブルターニュ)から政略的に結婚させられた Anne de Bretagne(アンヌ・ドゥ・ブルターニュ)は、夫 Charles [が Chateau d
Amboise(アンボワーズ城)の鴨居に頭を打ちつけて他界するや、涙の乾かぬ間に夫の親戚で王位を継承した Luis ]Uに、これまた政略的に「再婚」させられ、夫婦揃ってこの城に棲むことになった。(1498) (この時 Luis ]Uはすでに既婚の身であったが、こちらの方は強制的に離婚させられた。)
洋の東西を問わず、戦国時代の「結婚」は政略・策略の手段である。

さらに、時代が下って1588年、Valois(ヴァロア)王朝最後の Henri V(アンリ3世)は、母方の実家Guise家(ギーズ公)が貴族と図り王の権威を失墜させようとしたため、この城でギーズ公を自分の寝室に呼び出し、寄って集って滅多切りに暗殺した。 
(翌年1589年、このHenri V自身が暗殺され、Valois王朝は幕を閉じることとなる。 代わってBourbon(ブルボン)朝の出であるHenri W(アンリ4世)が即位し、都をパリに移したのである。[ Bourbon(ブルボン)王朝の始まり。])

 

B Chateau de Chenonceau(シュノンソー城): 

 (Cher(シェール)川をまたがるように建てられた美しい城)

 Luis ]Uの息子 Francois T(フランソワ1世)は数々の業績を積んだ王であるが、政略結婚等で満たされない心を、絶世の美女 Dianne de Poitier(ディアンヌ・ドゥ・ポワティエ)との愛にいやし、彼女をこの城に囲って安らぎを得ていた。

 さらにその息子 Henri U(アンリ2世)も、父親の死後、同じDianne de Poitierに心をよせ、父親と同様この城を「愛の巣」とした。
父・子揃って絶世の美女を「心の糧」としたわけである。

 さて、さて、息子 Henri Uが騎乗試合の傷で他界するや、その正妻 Cathrine de Medicis(カトリーヌ・ドゥ・メディシス)は、早速この美しい城を自分の Chateau de Chaumon(ショーモン城)と強制的に交換させ、Dianne de Poitierを追い出してこの城を「乗っ取り」、今までの辱めと惨めさに対する復讐を果したのである。(1559)

 正妻 Cathrineの寝室はもちろん、Cathrineが一度も足を踏み入れなかったというDianneの寝室も、今でもそのまま保存されており、この二女性が造園した庭が城の左右に「張り合う」ように配置されているのはおもしろい。 
 結局この城は歴代6人の女性城主を戴くことになるのである。

 

C Chateau dAmboise(アンボワーズ城):

 Charles [(シャルル8世)がこの城の建設を命じたのは1492年のことである。 その Charles [は、先の記述のとおり、馬上のままこの城の塔に登ろうとして、入り口の鴨居に頭を打ちつけて他界するのである。(1498) 
(確かに、塔の中は、天井が高く螺旋状のスロープになっていて、騎乗したまま塔に駆け登れるように設計されているが、入り口は確かに低い。)

 さらに、1560年、Henri U(アンリ2世)は、妻の実家Guise家(ギーズ公)[前述]とともにカトリック教徒であるが、当時台頭しつつあったユグノー(新教徒農民)の勃興に対抗し、Chateau de Blois(ブロア城)から一時この安全な城に避難し、ここで策略を練ってユグノーを罠に落とし入れ、大量のユグノーを虐殺した。 

 「むしろ詰め」のユグノーをLoire川に投げ込んだり、斬首の遺体を放りこんだので、Loire川は血で真っ赤に染まったという。
(この手の話はジュネーブにもあって、Rhone(ローヌ)川を血で染めたその日は、ジュネーブがフランスのSavoy(サボア)公国の攻撃に対し独立を守った日で、今では子供たちが、「マスケラ」で仮装して町中をパレードする、冬のお祭りである。)

 

Loire川流域には大小併せて500余りの Chateau(シャトー)が点在すると言われているが、2日半の短い日程であったが欲張らず、7つの古城をゆっくり訪ねた。 

 歴史的事件の舞台となった上記城のほか、Indre(アンドル)川に浮かぶように建てられた美しい D Chateau d
Azey le Rideau(アゼ・ル・リドー城)、フランス式庭園が美しい E Chateau de Villandery(ヴィランドリー城)や FrancoisTが狩猟の時に用いた、「広大な城」というより「宮殿」という方がピッタリの F Chateau de Chambord (シャンボール城)などである。

シャンボール城の中庭で

 特に、この古城めぐりの宿泊、2泊分は、奮発して古城に泊まり、夕食には夫婦「おめかし」してディナーに臨んだ。

 驚いたことは、Chateau de Chinonの英語の案内に「Joan of Arc」という表現があって、「これは何者ぞ」と思い、隣のフランス語の案内文を見るや、「なに! Jeanne d
Arcのことか!!」と驚きあきれたものである。 これはひどいね。 英国人(または米国人)の横暴だよ。 日本語でも「ジャンヌ・ダルク」と原語を尊重して呼んでいるのに、英語は想像もつかない名前にかえてしまうなんてひどい話だ。「山田さん」を「 Mr. Mountain-Field」と呼ぶようなもの。フランス人じゃなくたって腹が立つ。

 残念なことは、Loire(ロワール)からの帰り、是非 Limoge(リモージュ)に立ち寄って「磁器」を見たかったが、午前中いっぱいを Chateau de Chinonの見学に費やしたため時間がなくなり、急ぎジュネーブに帰らざるを得なくなってしまったことである。
(家内はリモージュを楽しみにし、Dijon(ディジョン)でも「 Limoge焼き 」ばかりをウィンドウ・ショッピングしていたのに悪いことをした。)

 Tour(ツール)で Auto-route(高速道路)に乗ったのが午後2時、それからは一路Auto-routeをジュネーブに向け突っ走ることになった。 フランスの Auto-routeはその多くがパリに繋がっているので、距離的にはかなりロスになるものの「遅くなった時は Auto-routeに限る」との大先輩の言葉を思い出し、ただ Auto-routeをひた走った。 

 ジュネーブまで840km、到着が午後10時過ぎで、給油のための休憩が2回(計1時間)、走行時間が7時間余りなので、結局、平均120km/hということになる。 これは感覚的には、通常走行はフランスの制限速度の130km/h、追い越しは150km/hというテンポであった。  

 Renault Megane scenic 1.6L(ルノー・メガンヌ・セーニック 1600)は、長男の雑学知識のとおり、エンジン音は多少高めであるが、安定した高速性を保持し、好調そのものであった。 「ルノー」を見直した。
(ニッサンのゴーン氏がかつて「ルノー」を立て直すことができたのは、この車がヒットした恩恵に浴するところが多い。 ニッサンにもこの手のヒットがほしいところであろう。)

4.  Vin et Fromage(ヴァン・エ・フロマージュ:[ワインとチーズ])

今回の旅行におけるもう一つのテーマ、「 Vin et Fromage 」(ワインとチーズ)についても、それぞれの場所でいろいろ試みることとした。 赤ワインについては、今回の旅で特に目新しいものとの遭遇はなかったように思うが、その場その場で赤を楽しんだ。 私が、好きなBourgogne(ブルゴーニュ)の高級ワインを、家内の顔色をうかがいながら、ジュネーブから送ったことは先に述べた。 また、白については、さほど関心がないが、 LoireのSancerre(サンセール)は、なかなかいけたので記憶に残っている。

チーズはいろいろ試した。 ベニスでは、有名な Mozzarella (モツァレラ)、Gorgonzola (ゴルゴンゾーラ)、Parmigiano-reggiano (パルミジアノ・レジアノ)等は、日本のスーパーでも手に入るし味も変わらないが、この地方特有の Montasio (モンタジオ)は脂肪分が多く美味しかった。 人のいい愉快なチーズ屋のおじさんの推薦であった。 「ベニスのチーズはこれに限る。とにかく試してごらん。」と言われ、購入した。

 フランス(含ジュネーブ)のチーズには様々なタイプがあり、500種類とも1,000種類と言われている。 

 柔らかい系統としては、日本でも製造している Camembert (カマンベール)はもとより Brie(ブリ)、Reblochon (ルブロッション)等は代り映えしないが、今回、あるご家庭で出していただいた Coeur de Lion(ケゥール・ドゥ・リオン)が美味しく記憶に残っている。

 青かびの系統では、Morbier(モルビエ)というチーズ、これが旨かった。 有名な Roquefort(ロックフォール)ほど青かびと塩分の含有量が多くなくて、Fourme d
Ambert(フルム・ダンベール)に近い味だか、中に青かびの薄い層が一筋走っているチーズで、元々ジュネーブ郊外の Jura(ジュラ)のものだそうだ。 多分、以前からジュネーブでも入手可能であったようだが、私自身が今まで気がつかなかったのである。

 また堅い系統では、Tomme de Savoy(トム・ドゥ・サヴォア), Mimolette(ミモレット), Gruyere(グリエール), Emmentale(エメンタール)等々を懐かしくいただいた。 

 特に、かつて何度も足を運んだ Gruyere(グリエール)村の懐かしいレストランで、本場 Gruyereチーズを Raclette(ラクレット)で食べた。 これぞスイスの素朴な味。 飽きない旨さ。

 そのほか、Bourgogne(ブルゴーニュ)で食べた Ami du Chambertin(アミ・デュ・シャンベルタン), Soumaintrain(スマントラン), St.Maure(サン・モール)や、Loire(ロワール)で食べた Crottin de Touraine(クロッタン・ドゥ・トゥレーヌ), Lingot de Chevre(ランゴ・ドゥ・シェーヴル)等々、その土地その土地のものを赤ワインとともに美味しく味わった。

5.    ジュネーブ滞在 (2度に分けて8泊)

 途中、Bourgogne(ブルゴーニュ)と Loire(ロワール)の旅に出かけたため、3泊と5泊に分けて滞在した。 先にも紹介したが、ジュネーブといってもフランスの小さな隣町、Ferney(フェルネイ)である。 ジュネーブへの出入りは車で2・3分だが、ちょいと国境を越えるだけで、野菜も果物も魚介類もジュネーブよりずっと新鮮で安くなる。 なんせ、嘘みたいな話しだが、パンの味が、国境をさかいに全く違うのは昔も今も同じである。
(どっちが旨いって? そりゃあ、戦争に備えて、新しい小麦を備蓄し、1年前の古い小麦を使ってパンを作っているスイスの方が圧倒的に「まずい」のである。 )
この Ferneyで13日間レンタカーを借り、動き回ったのである。

 今回のジュネーブ滞在中は、いわゆる日本のツアーで有名な観光地、Mont. Blanc(モンブラン)のChamonix(シャモニ)、 Matterhorn(マッターホルン)の Zermatt(ツェルマット)、Jungfrau(ユングフラウ)の Wengen(ウェンゲン)等には敢えて出かけなかった。 

 遠乗りといえば、22年ぶりの祭「 Vevey(ヴヴェイ)ワイン祭」や、Leysin(レザン)/Chateau d
Oex(シャトー・デ)/Gruyere(グリエール)等へのドライブや, ヨーロッパのMIT、Ecole Polytechnique Federale de Lausanne (EPFL : ローザンヌ工科大学)の見学で、そのほかは、できる限りジュネーヴの友人に会うことに努めた。 

22年振りのヴヴェイのワイン祭

 3人の子供がそれぞれにお世話になった地元のスイス人家族では、男の子たちは皆、180cmを超える巨漢に、女の子は金髪の美人に成長していた。

 特に、我々の帰国後も長男が世話になり、毎年のように夏の1ヶ月間ホームステイさせていただいた家族に対し、夫婦揃ってお礼を言えたことはとても有意義であったし、心のモヤモヤが吹っ飛んだ思いである。 

 また、ある家族は、ヴァカンス中でやっと連絡が取れた時には我々のジュネーブ滞在時間がほとんどなく、「遅くなってもいいから今日いらっしゃい」と言われ、ある夕食のお招きのあと、非常識とは知りつつ、夜の11時に訪問した家庭もあった。
 
 また今回の旅行の準備で全面的にお世話になり、ホテルやレンタカーの予約や変更等、親身になってアレンジしていただいたばかりでなく、現地ではEPFLや最近の穴場(故Audrey Hepburn(オードリー・ヘップバーン)の家など)を案内して下さった地元のご家族、地元で国際機関(ITU、WHO等)に勤め頑張っておられる多くのご家族、日本語補習校の運営委員会メンバとしてボランティアでいろいろ苦労をともにした友人等々、ほとんど毎日のように多くの方々にお会いさせていただいたり、昼食・夕食に招いていただいたり、本当に有意義なジュネーブ滞在でありました。 

 心より感謝いたします。 

 それでも、一部の方には直接お会いできず、電話だけで失礼をしてしまったのは、本当に申し訳なく、心なごりで、いまでも残念でなりません。

おわりに


 最後になりますが、多少「お茶」をたしなむ家内が楽しみにしていた、Geneve市内の新しい陶磁器の美術館、「アリアナ」美術館を滞在最終日に訪ねたところ週休日で入れず、これには家内も しばし沈黙してしまう程「こたえ」ていましたが、結局、「また、ジュネーブにいらっしゃい、とのメッセージね。」と自分で自分を慰めておりました。
 
 今まさに、この「アリアナ美術館」ばかりでなく、今回お会いできなかったお友達や失礼をしたお友達こそ、神様がわれわれをまたジュネーブに招待するためのメッセージと思い、必ず再会してお礼を述べたいと思います。

  みなさん、本当にありがとうございました。

以上


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