「窓からネッカーが見える」
堀田 泉

 

[同期の皆さんへの前書き]

19歳のときに千葉を離れた。4年のつもりの名古屋の暮らしは3倍の12年に及んだ。

その後奈良に移り住み、気がつけば18年が過ぎ去ろうとしている。昔、新幹線の「ひかりは西へ」というコピーがあったけれど、それをもじれば「堀田は西へ」で、さらに極端に西のドイツで暮らしたこともある。

もともと軽い性格なので、「骨を埋める」とか「根を下ろす」といった生き方は性に合わない。中高生の時代に自分がどんな大人になるのか見当もつかずに夢中に過ごしていたように、明日の自分には別の場所で別の世界が開けている、といった思いでいまだに暮らしている。現実はなかなかそうはいかないけれど、常に身軽でありたいという準備には心がけているつもりだ。人生の岐路は、すくなくとも計画的では全くなくほとんどその場の消去法で通過してきた。だからあとは帳尻合わせに腐心してきたように思う。ときどき帳尻を合わせそこねてぶざまなことにもなる。でも、だからといってその場の対応がなげやりであったというわけでもない。むしろそれぞれの環境では、苦労したという覚えはそれほどないが結構ねちっこくやってきたので、齢を重ねるにしたがい、しがらみも多くなってきてはいる。

そんなわけで、千葉を出たきり高校の同期会にはずっとご無沙汰のままである。実家はあるし、仕事で年に最低5回は東海道を往復してはいるが、今後もそうならざるをえない。
このホームページはそういう者にとってはありがたい。幹事さんの努力により名簿も送られてきた。目を通していてこたえるのは私よりも遥かに西方の浄土に往かれてしまった方々のことである。私自身、毎年の健康診断で「このようなでたらめな生活を続けていれば60歳前に脳の血管がぶち切れますよ」と医者にきつくいわれて、現在高脂血症治療中のていたらくなのだが(単なる飲み過ぎと運動不足です)、上のような事情でまだ人生の半分にもきていないと思っているので、彼/彼女らの無念の思いはいかばかりかと思うと胸ふさがれる思いがする。数年間とはいえ同じ場所でともに過ごしたのだから。

さて、そのような意味でもとりあえず元気です、という身辺報告をしたいと思うのだが、勤務先の大学(研究と教育)のことやら、私の住む町の奈良については次回以降としよう。そのかわりに先ほどにもちょっと触れた1989年のドイツ(当時は西ドイツ)での在外研究を終えた後、大学の雑誌に一般向けに書いたものがテクストファイルのかたちで残っているので、以下に転載したい。同期のなかには長い外国暮らしの人もいて、こんなことは当たり前と思う人もいると思うが、私としては提携大学のルートに乗らずに外国の「普通の市民」になりきることを心がけて単身乗り込み、日本も大学もすべて忘れて動き回った数年分にも値する忘れ難い1年間であった。おりしも日本ではバブル真っ盛り、ドイツはベルリンの壁の崩壊のただ中で(11月1日から4日にかけてに私は東ベルリンに旅行中だった)、今からすればかなりの事態の変化はあるがここで遭遇した教育問題は、私の専門分野ではないにしても、その後の自分自身の仕事や子供の教育方針などに大きく影響を与えることとなった。その意味で近況報告になっていると思う。後日譚は現在進行中で、数年後に答えらしきものが出ると思うが、それまで私が医者の無理難題に耐え、かつ、このページが健在であることを願っている。

(ただし長文なので暇があれば読んでください。幹事さん、ページを重たくしてすみません。)

 

窓からネッカーが見える

―初等教育からみた西ドイツ社会―

「高速道路にて]

ハイデルベルクからフランクフルト空港に向うアオトバーン5号線がダルムシュタットの交差点を過ぎると、17kmあまりの間、上下合わせて8車線の直線になる。追い越しもせず、されもしない私のフォルクスワーゲン・ポロのメーターは140kmを越えている。排気量1リットルという「車格」からすると、第3車線と第4車線がおのずと安全かつ快適に走行できる指定席である。すぐ左の車線ではゴルフやアウディが、さらに左には200kmを越えるスピードでメルツェデス(日本でいうベンツのこと)やポルシェが疾走していく。時速60km以上の差があるから、流れ去る窓の風景がなければまるでこちらが止まっているかのようだ。その風景は、山あり谷ありの日本の高速道路に慣れた目から見るといささか単調である。どこまで続くかと思われるライン平野の畑の間に、ブナやアカマツの林が次々に現れては消えていく。
語学練習のためにつけっぱなしにしているカーラジオは、北京天安門事件の続報を伝えている。時は1989年6月22日午後5時。まだ太陽は真昼の明るさである。ハイデルベルクで暮らし始めて3カ月半。今日は空港へ日本からやってくる家族の出迎えである。慣れない言葉や習慣のなかで、それなりに自分の生活を築き、家族を迎える準備をしてきたが、小学校3年の娘と、1年の息子をこちらの小学校に入れるという懸案が現実のものとなりつつある。

期待と不安がよぎる。

フランクフルト空港の駐車場ビルにはアオトバーンから直接に進入できる。市電も国鉄も空港地下に駅がある。路線バスも空港ビルに横付けになる。いずれも下車してから空港ロビーまで3分とはかからない。日本の空港とは雲泥の差としかいいようがない。ハイデルベルクの借家から空港まで80kmというところだが、所要時間は1時間ほどである。駐車料金は1時間1マルク(この時点で1マルクは72円ほど)、1日17マルクである。嬉しいことに高速道路の料金は一切かからない。しかも事故以外の渋滞にはまず出会わない。とにかく車を運転するものにとってドイツは天国である。
新聞の広告で円換算してみると、新車・中古車の値段は安いし、車検・保険・修理・税金なども安い。日本と同じく石油の大部分を輸入に頼る国でありながら、ガソリン価格も安い(但し、自分で給油する)。日本の損保会社の自動車保険の無事故割り引きはこちらで継続可能だが、逆は不可である。このため私は1年以上も乗りもしない日本の車の保険代金を支払ってきた。GNPや名目の所得で豊かさをはかることのおろかさが実感される‥‥などど思っているうちに到着ボードにgelandet(着陸)の表示が出た。さすがにほっとする。10時間以上の長旅の疲れも感じさせないほど元気よく子供たちと妻が税関ゲートをくぐりぬけてきた。

[アルト・ハイデルベルクの現在]

私の留学先、ハイデルベルクは日本人にはとりわけ有名である。訪れる年間観光客数はアメリカを抜き、トップである。古城とネッカー川にかかる橋、14世紀に創建された聖霊教会と大学がネッカーに沿った細長い旧市街の中心をなしている。川の両岸にはオーデンワルトの山が迫り、ハイデルベルクを過ぎるとライン平野に落ち込む。対岸の山の中腹には「哲学者の道」があり、旧市街と川が季節の花や木々の間から見おろせ、城の威容もあらわになる。ドイツを紹介する観光写真に必ずといっていいほど登場する景色だ。しかしそのままに美しい。旧市街の中央通りは歩行者天国になり、内装は新しくても、外は建て替えを禁じられた古い建築様式の建物がデパートや商店としてびっしり並んでいる。
それらの間に大学の文科系のInstitut(学科)の建物や図書館がある。川べりにある学生食堂は昔の城の厩舎である。こうして街の中に大学があるのである。大学の学生総数は約2万7千人。ここには約3千人の外国人留学生が含まれる。私のような外国からの研究者も多い。それ以外の大学関係者は約2万人といわれ、ハイデルベルク総人口が13万人だから、半数近くが大学になんらかの関係を持っているのである。

「インテリと観光客の街だから物価は高い。車を持っているのなら生活用品の買い物は隣町のマンハイムでしなさい。」というのが、私の社会学のInstitutの事務職員シャルッパさんの最初のアドヴァイスであった。マンハイムも広い宮殿のある街だが、重厚長大産業をもっぱらとし、現在は不況をかこっている。

ライン平野に向かって街の郊外に出ると、西ドイツがいまだに占領下にあることを改めて認識させる米軍やNATO軍の基地や付帯施設が鉄条網を隔てて存在している。駅には米軍専用の切符売り場があり、戦闘服姿の兵隊さんたちがたむろしている。白昼に演習用の戦闘機が金属音をたてて街の上空を通過することもよくある。これらがなくなる日もそう遠いことではないだろう。
その他、市当局は流入を拒んでいるが、中近東からの、いわゆる外国人移民労働者もいる。というわけで、ここの人たちにとっては外国人というのは、東洋系も含めてけっして珍しい存在でも特別な存在でもない。

 

[子供たちと犬と]

街路を歩いていると子供の少なさと、犬の糞の多さに気づく。どちらもハイデルベルクが頭を抱えている問題だそうである。出生率の低さは西ドイツ社会全体の問題でもあり、この背景には女性の社会的地位の変化や社会福祉の充実、生活水準の向上などの要因が複雑にからまりあっている。一人のドイツ人女性が一生に産む子供の数は1.3人程度である。ドイツ人の散歩好きはよく知られているが、公園や森でよくでくわしたのが、一人の子供供に数人の大人と犬がくっついて歩いている、という光景であった。ドイツでは別表(省略)からもわかるように一足先に高齢化社会を迎えている。小学校の児童数も非常に少ない。このような状態に対して西ドイツ政府は手をこまねいているわけではない。たとえば西ドイツ国内で出産する場合、全費用に健康保険が適用されるし、出産後六カ月にわたって月600マルクの養育手当が出る。7カ月目からは所得に応じて支給される。また、子供が16才になるまで支給される児童手当も1人目は月50マルクと少ないが、子供の数が増えるにしたがって累積的に増額され、子だくさんならば、食っていけるともいわれている。所得が低ければもちろん割り増される。これらの手当は国籍にかかわりなく支給されるので、もっぱら外国人労働者が最大の恩恵にあずかっているそうである。
また、モータリゼイションのあおりをもろにくらっている国鉄は、数々の割り引きを行って顧客確保に努めているが、その中に家族パスというのがある。家族2名以上で国鉄を使えば特別料金を除いてすべて半額というものであって、私の家庭もこれをフルに利用した。1人で行くよりも子供を1人連れていったほうが安いのである。このパスは一年間有効で130マルクで購入するが、3人以上子供のいる家庭は無料になる。ハイデルベルクの市内交通も子供3人以上の家庭には半額パスが与えられる。そうであっても、道路で走り回るドイツ人の子供たちの数は少ない。
子供を学校に行かせるようになってわかったことだが、子供たちは学校で予約をしたり電話で連絡を取り合ったりして車で親が送迎して家の中で遊ばせることが多いようだ。家がまばらで遠く、しかも家屋も庭も広ければなにも道で遊ばせることもないわけである。子供に対する犯罪も多少ある、とのことである。こうして道ばたを走り回っているのはドイツ人ではない子供たち、という現象が生じる。

犬は好んで飼われる。飼い主のない犬はいない。私の家主ゲーリンクさんは猫を飼っていて、日本の団地では規則で飼えない子供たちは大喜びだったが、これは少数派である。飼われる犬は駄犬ではまったくなく、皆、毛並みのいい立派な犬である。そしてよくしつけられている。電車やバスにも乗り込んでくるが、そこで人にほえつきでもしようものなら大変である。飼い主は犬をなぐりつけるし、ほえられた人は真っ赤になって何という育て方をしているのだ、と抗議する。飼い主は、それだけ気をつかいながらも糞の始末は一切しない。日本ではシャベルを持ち歩いている飼い主もいる、というのに。だから考え事をしたり、聖霊教会のドームなどを見上げながら歩いていると、靴の裏ににちゃっとした感覚が走る。しまった、と思ったときはもう遅い。そのような靴でドイツ人たちは平気で家にあがりこむ。
ドイツ人が清潔好きで、家や家具をピカピカに磨きたてる、ということはよく知られているが、こういうアンバランスなことはいたるところにころがっている。異なる文化とはそもそもこうしたものなのだ、そして自分の文化もそういった例にもれないのだ、という感覚を持たないとよそでは暮らしていけない。
結構な料金を払って、日常的に渋滞に巻き込まれても革命も起こさない日本の高速道路ドライバーは、にもかかわらずドイツ人よりも遥かに熱心に自分の車を磨きたてる。向こうから見ればおかしいに違いない。

 

[州の権限]

さて、7月5日にシュリアバッハ小学校に子供たちを連れて入学手続きに出向いた。シュリアバッハというのは私の住む集落一帯をさし、ハイデルベルクの旧市街からは2kmほどネッカーをさかのぼったところにある。川沿いのこの国道37号線は古城街道(ブルゲンシュトラッセ)とよばれ、ハイルブロンを経由してローテンブルクやアウグスブルクに続く道路である。川に向かって両岸に山が迫っているのはハイデルベルク旧市街以上で、家は山の斜面に点在し、坂道を登って行く。適当に登れば下にネッカーが見渡せる。坂道は泉(ヴォルフスブルンネン)や森を抜けて城の裏手まで続く。坂の上り口に国道と平行して国鉄の線路が走っており、この間に小学校や中華料理店「新苑酒楼」がある。小さなガードをくぐり抜けて坂道を行くと、途中にビア樽のようにふとったヘルティンクおじさんの経営する食料品店があり、それらがこの集落の商業施設のすべてである。更に急な坂を登ると教会があって1年中時を刻んでいる。その前の家が私の借家である。小学校まで坂道を5分というところである。

夏の休暇、すなわち学年末まであと数日である。西ドイツでは州によって休暇の時期が違い、早いところでは6月はじめから、遅いところでは8月のはじめから2カ月弱の休みに順繰りに入る。バカンスでアオトバーンや宿泊施設が混雑しないためである。そうでなくとも休日が多いから、日本の盆、正月のような混雑はおこらない。休暇がいつ始まるかは、州による不公平が生じないように毎年固定されていない。祭日もほとんどが移動祝祭日だが、カトリック勢力の強い州では特別の祭日があったりする。ドイツで暮らすためには、まず、その年の正確なカレンダーを手に入れることが必須である。休日を知らないでいると、店が全部閉まってしまうので買い物ができなくなる。

小学校を週休2日にするかしないかも州にまかせられる。トータルで年間授業時間を合わせるのである。転校でもしようものなら進度の違いで苦労することになる。
ここ、バーデン・ビュルテンブルク州は隔週二日になっていた。教員免許もその州にしか通用しない、ということも聞いた。このように教育行政における州の権限は絶大である。だから州政権をどの政党が取るかで大きな違いが出る。後で触れるゲザムトシューレの創設にSPD(社会民主党)は力をいれていて、同政権下の州ではこの学校の比率が多くなってきている。

 この点は大学でも同じであって、大学運営は州の予算に制約される。バーデン・ビュルテンブルク州はハイデルベルク、チュービンゲン、フライブルクなどの歴史のある大きな大学を擁するのだが、予算は潤沢なほうである。
州を南北に横断してスイスのバーゼルに抜けるアオトバーン五号線の沿線は、ドイツのシリコン・バレーといわれて先端産業の盛んなところである。また、州都シュトゥットガルトはダイムラー・ベンツ社のお膝もとである。そういうわけかどうか知らないが、私はInstitutでは立派な個室の研究室を与えられた。かつての鉄と石炭のルール工業地帯のあたりは現在は不況で、客員研究員の待遇はよくない、ということを聞いた。

国家レベルでも分権化は西ドイツの特徴である。政治の中心はボンだが、金融はフランクフルト、貿易はハンブルク、最高裁判所の所在地はカールスルーエというように分散されている。人口は50万もあれば大都市である。まさに連邦共和国なのであり、一極点集中の日本やフランスとは著しい対照をなしている。

 

[宗教教育]

小学校は教室が6つほどの2階建校舎1棟だけである。運動場はなく、ベンチを10も並べればもういっぱいといったコンクリート敷きの小さな中庭があるだけである。隣接する体育館も小さいものだが、地域のホールとなっていて、昼は子供が、夜は大人が利用する。通された校長室は、あとで考えると職員室も兼ねていたのかもしれないが、日本の校長室のようないかめしさはまるでなく、子供や担任の先生たちがひきもきらず出入りする。
校長先生は女の先生で赤い縁どりの逆三角形の蝶々メガネをかけている。背は高くないが、がっしりしていて貫禄はある。ものの本には日本の小学校の成績証明書の翻訳があると手続きがスムーズだとか書いてあり、用意していったのだが、白い紙に住所氏名電話番号、それと生年月日を記入するだけである。国籍さえも問われなかった。しかし2点ほど相談すべきことがあった。

まず娘の学年である。ドイツ語能力皆無、ということで1年生への編入を勧められた。本人は弟と同じ学年になる、ということで面白くないようだったが、これは指示にしたがった。もうひとつは週2時間の宗教の時間をどうするか、という問題である。これにはドイツ社会におけるキリスト教という大きなテーマがあり、ここで論じつくせることではないが、おおよそ次のようなことである。

まず、指摘しておきたいのは西ドイツは、いわゆる政教分離という言葉自体が問題にもならないところである、ということである。ここで住民登録をするとき、宗教籍を書き入れる欄がある。キリスト教のどの宗派に属しているかを記入するのである。これは教会税の源泉徴収にかかわってくるのである。現在の国家の政権政党はご存じCDU(キリスト教民主同盟)だが、この政党から無神論者が立候補することが可能かどうか聞いてみたことがある。答えは否であるどころか、議員にそのような事実があってスキャンダルに発展した例もあるそうである。公教育においても宗教の時間が設けられているのは右のとおりである。その実質的内容はキリスト教教育である。ハイデルベルク大学も日本風にいえば国公立大学であるが、ペーター教会という大学教会を持っている。

そのような事実があるからといって、人々が特別に信仰深いというわけでもないし、宗教行事と国家行事の意識的・無意識的な混同があるわけでもない。ここには市民的諸権利の発達とキリスト教の長い歴史とのせめぎあいと協力関係が積み重ねられているのであって、社会における宗教の定位のしかたが、本質的に日本とは異なる、という印象を受ける。しかもキリスト教はどこかで、自分がそれを信ずるということを意識的に表示しなければならないところがあり、墓は寺、結婚式は教会、正月には神社に、といった八百万(やおよろづ)的な宗教とのかかわりは通じないのであろう。形式的な仏教徒という言葉は理解してもらえなかった。無神論者でもさしつかえないのだが、この社会ではただちにその理由を質されそうである。

さて、小学校における宗教の時間は近くの教会から牧師さんが来ておこない、担任の先生はノータッチである。生徒数が多いと、カトリックとエヴァンゲリッシュ(プロテスタント諸宗派の総称としてこの言葉が使われている)に別れて授業を受けるが、この小学校では学区に後者の教会(家の真ん前にある)しかないので、1クラスで実施する(後でわかったことだが、この州は、北の諸州に比較してカトリックがさかんなところにもかかわらず、25人のクラスで1人だった)。子供を参加させたくなければそのような子供たちを小グループにまとめてほかのことをさせるので、どうするかということなのである。とりあえず、キリスト教徒ではないので、イランの子などが属する小グループの方にいれることにして、この問題は決着した。この授業は何をするのか興味があったので子供が学校に行くようになってから子供に尋ねてみた。キリストに関係のある絵などを書いている、とのことだった。やはりイスラムや仏教は無理なようである。入学式は8月26日で、1時間ほど教会で牧師さんの話を聞き、その後学校に移動して簡単なセレモニーをするという。これも教会のほうは出席自由である。子供たちの希望により今回は欠席したが、クリスマス休暇明けの始業式のときは参加した。校長先生も担任の先生も来ないそうである。

 

[いざ入学]

8月26日。親子ともども不安いっぱいで学校に向かう。土曜日なので両親そろってカメラ持参で来ている家族が多い。どの親も子供が学校に行くまでに無事育った、という喜びの表情があるのは日本の入学式風景と変わらない。
ただ、セレモニーは極めて簡単で、大きめの教室に全員が集められ、校長先生の挨拶、上級生の劇、担任の紹介、連絡事項など全部で一時間ほどだった。夏で窓をあけているために、南側の線路を列車が通過するたびに劇が中断する。反対側の窓からは青い山を背景にネッカーが道路越しに見える。クリスマス前には、今度は私の子供もせりふを貰い、ゲーリンクさんの協力も得て衣装も整え、キリスト生誕劇に加わったが、その時は紅葉も終わりかけた山のネッカーだった。
担任の先生はフラウ・ゲプハルト。早口で歯切れの良いドイツ語が次々に飛び出す。この日にはドイツでは子供たちは両手を広げたくらいの円錐形のボール紙製の筒にお菓子やおもちゃを詰めてやってくる。何でも初めて学校にくるのでさみしくならないように、との趣旨だそうだがこれがカラフルである。デパートで売っているのだが、自家製ものもあり、このほうが容量が多いようである。これを持ってこれるのは入学式当日と数日後の記念写真撮影の日だけだが、お菓子やおもちゃはいつでも持ち込み自由である。娘の話によればずっとペンギンのぬいぐるみを手放さなかった子もいるそうである。ペンギンにも勉強させましょう、といって担任の先生はの椅子に座らせていたそうである。3限目がすむと30分たらずの休憩時間があり、ミルクやジュース、パンなど各自持ってきたものをを食べる。このため、朝のヘルティンク商店は子供たちの社交場である。先生も休憩に加わる時があり、先生はおやつに生ニンジンをかじっていた、と子供たちが報告したこともある。

写真を部屋に飾るのはドイツ人のたいそう好むところで、記念写真は個人のもクラスのもたいへん立派なものだった。キーホルダーに加工できるように小さいのもある。シャルッパさんは私とほぼ同年代の子供がいるのだがこのキーホルダーをさげてInstitutにやってくる。写真と円錐形の筒は日本に帰った今も大事に保存してある。

こうして1学年25人の学校が始まった。人口13万人の都市の中心部から2km離れた住宅地でこの少なさである。外国人はイラン1名、フランス1名、南アフリカ連邦1名、日本2名。
このような環境で言葉も不自由な自分の子供たちを学校に入れるにあたっては、さまざまな意見が周囲から聞こえてきた。子供は大人よりもすばやく言葉を覚えるから心配無用、とか、ドイツに暮らしている日本人のなかには、子供に想像以上の精神的負担がかかる、と忠告してくれた人もいる。今、日本に帰ってきていえるのは、どれも正しく、またどれも正しくない、という感想である。やはりそれぞれの子供の性格や置かれた環境に違いがあり、一般化はできない。したがって私の子供の場合に限っていえば、まずまずの成功だったように思う。これには姉弟で同じクラスの1年生になった、ということが大きい。他の子供たちも、不安を持って初めて学校に入学してくる。幼稚園の発祥の地はドイツで、この小学校の近くにもあるのだが、聞くところによればクラスの半数ぐらいしか行っていないのだそうである。幼稚園組は小学校でもグループを作っているようだったが、そんなところで兄弟がいるのはおおいに心強い。それだけで多数派である。子供たちは始めは教室の中でも日本語でやりとりをしていたようだし、学校から持ち帰るノートや紙にも日本語が並べてあることが多かった。しかし慣れるにしたがってこのことはなくなっていった。
また、姉は日本で2年以上学校へ行っている。これから述べるように小学校教育の社会的意味は日独間でかなりの相違はあるが、教えられることの内容自体や仕方にそうそう違いがあるわけではない。そういう点では言葉は不自由でも、一年生の内容ならおおよその見当ははずさないで対応できる。弟は3カ月しか日本の小学校に行っていないが、それだけに流儀の違うものを柔軟に受け入れる余地がある。性格的にも姉を漫才のツッコミとするならば完全にボケのほうだから、ドイツ人の子供のなかには入っていきやすい。ドイツ語に対する抵抗感もあまりない。ふだんは特別仲がいいというわけではないが、どうやら役割を分担しあっていたようだ。外国人ということでの特別扱いは良い意味でも悪い意味でも一切なかった。ただ、学区に大学のゲストハウスがあり、この小学校としては、私の子供たちのような存在には慣れているようだ。

時間割は図1のとおりだが、午前中五時限で一年生は一時間目がない。午後がないのは小学校だけではなく、上級の学校に行ってもそうである。

図1シュリアバッハ小学校1989年冬学期時間表 

ドイツ人家庭では父親も昼に帰ってきて、一家団欒の食事が昼食というのも珍しくない。夕食は、階下に住んでいる私の大家のゲーリンクさん一家もそうであるが、カルトエッセンといって主婦はあまり手のこんだ暖かい食事を作らない。黒パンにハムにチーズにワインくらいで済ませ、子供を寝かせて着飾ってオペラに行ったりする。父親が昼食に帰ってくるためには職場が満員電車で1時間半以上などというのではだめである。
ちなみに私のInstitutでは約30人の教職員スタッフがいる。名簿を貰って驚いたが、ハイデルベルク以外から通っているのはたった1人で、しかもマンハイムからである。東京の大学の学部に30人のスタッフがいて、29人が都区内に住んでいる、などどいうことがありえようか。
昼に帰ってきて食べながら一杯やってしまうお父さんは、再び職場に戻るのが面倒臭くなるそうである。シャルッパさんはお母さんだが、9時前にはInstitutに出勤する。3人いる事務職員は秘書も兼ね、結構忙しそうにコンピューターをたたいている。学生のために窓口が開いて(といってもドアだけだが)いて、応対しなければならないのは10時から12時まで。それから2時までは昼休みである。たいがいは通りのデパートへ買い物に出る。2時に戻り、それからが午後の仕事で4時には自転車で家に帰っていく。そして3人が全員揃っている、ということはまずない。常に誰かが休暇をとっている。年平均労働時間は日本では2100時間、ドイツでは1600時間、などと統計を出されてもピンとこないが、いっしょに生活してみると、その違いはまさに実感される。
教授先生は自分の生活時間に合わせて、夜6時半からゼミを始めたりするので、大学にいる時間は長い。偉い先生ほど講義やゼミの数は多い。

話を小学校1年の時間割に戻すと、国語・算数といったふうな課目わけがないのに気がつく、理科・社会の一部も含めてこれらはSache−あえて訳せば「勉強」か―となっており、具体的に何をするかは担任の先生にまかせられる。
あとは宗教と体育と補習である。宗教は前述のとおりだが、この時間は担任の先生は空いているので、保護者との面談にあてている。相談があればいつでも来校してほしい、とのことであった。体育は体育館でのボール・ゲーム・体操などであるが、その際に女の子は色とりどりのレオタードを着用し、うちの子供たちは目を白黒させていた。補習は学習進度についていけなくなった子供のために設ける時間であって、学習が始まっていないのだから、1年生の最初の段階でははありえない。
このように担任の権限は絶大で校長先生といえども担任の許可なしには授業中の教室には立ち入れない。3時限目が終わると中庭へ出て休み時間となるが、担任の先生の休憩時間でもある。先生はすべての生徒を教室の外に出し、鍵をかけてしまう。けんかや事故で怪我をすることもあるので保険に入っておくよう勧められた。
学校と家庭の役割ははっきり別れていて、いわゆるしつけの類は学校では一切行わない。担任は原則的に学年持ち上がりで、4年の卒業時には、後で述べる子供の上級学校への進学の推薦をおこなう。のりとハサミを持参しろとか、宿題はどうしたのかといった担任からの細かい連絡は日本の小学校と同じく連絡ノートを使う。25名分の共通の連絡は上級生が文字の練習のために代筆させられている。

朝は1時限間目がないのでのんびり登校だが、校舎の戸口は開いていないので子供たちは2時限目の開始のベルまで中庭で待っている。これは大学でも同じことだが、施設にかんしては教職員とは全く別の、校舎の管理人が一切の権限を握っているからである。校舎の戸口はかっこうの掲示板でもある。入学式で猿のぬいぐるみをなくしたゲオルグ・ガーデンマン君は、写真付きでだれか知りませんか、とやっていたし、フラウ・ゲプハルトは、住居求む、当方夫と幼稚園の子供1人の3人暮らし、と貼っていた。

 

[両親の夕べ]

11月になって「両親の夕べElternabend」、日本風にいうと父兄会の案内が来た。差出人は入学後数日たって投票で選んだ保護者代表2名、メッサーシュミットさんとガーデンマンさんである。日本では父兄の学級役員の選出は大問題のようだが、ここは人数も少なくお互いに顔見知りも多いようなので、兄弟が多いとか、仕事にでているからなどと言い訳はせずに、話し合いでなんとなく4名の候補を出す。それから実にてきぱきと2名連記の投票である。日本では正の字を黒板に書き込んでいくが、4本の線を縦に引き、5票目が中央に横で1ユニットなのが面白い。そして偶然にも先の2名が同票で、しかも他の2名とは一票差で決まったのである。そのときの保護者代表の主な仕事は年2回のこの会合を計画することで、ほかにはほとんどないのとのことであった。
場所は新苑酒楼で、開始時間は両親が揃って出席できるように午後8時からである。父と兄はまず出ない日本の父兄会とはかなり隔たりがある。内容は担任の先生を囲んでの要望や学校生活に関する諸問題の話し合いである。

会費はなく、出席した30名ほどの親たちがめいめいに好きなものを注文する。先生は話に忙しいからビールだけである。帰り際にウェイトレス―ドイツ語ではフロイラインが、最後にそれぞれに何を食べましたか、と聞いて各自から徴収する割り勘方式である。
たまたまその日は私はInstitutでゼミがあり、遅れて行ったが、先に家内が定刻に行ったときはまだ担任の先生しか来ておらず、子供たちについての話をしたそうだ。来独後ずっと市内の語学学校に通っていた家内は、この時点ではドイツ語をかなり解するようになっていた。娘のほうは、たいがいのことは理解はしているが、あまりドイツ語を話そうとしないということ、算数などは物足りないだろうから、年齢にあった程度のものを課そうかという提案、息子についてはたいへん元気がよくて結構とのことであった。ほっとする。親たちが集まってくるとがぜん席は白熱してくる、たとえばネッカー対岸のツィーゲルハウゼン(ここはブラームスが住んでいたところ)の小学校では音楽を教えているが、どうしてしないのか、などという質問が出る。
日本の小学校の場合、親から教育内容について何か注文が出ると、教師は逃げ腰になる傾向があるようだが、フラウ・ゲプハルトは実に毅然と、しかも多弁に応対する。それにかわるこれこれのことに私は力を入れており、2年生からは器楽もやるつもりである、それ以上のことを今したいのなら、街の音楽学校に行ってくれ、等。私たちにも他の親からいろいろ質問が出る。「日本の小学校は詰め込み主義だと聞いているが、ドイツと比較して、どうか」とか、はては「うちのおじいさんはヨコハマに行ったことがある」などということも。こちらも機会だと思ってふだん疑問に思っていることを聞いてみる。「どうして子供たちは外で遊ばないのか」「あなたがたは、いつからこの住宅地に住んでいるのか。先祖代々なのか」などとこの文章を草するにあたって参考になる返事も多く得た。
そして何よりも良かったのはこの両親の会をきっかけにして、子供には遊びの、家内には買い物やお茶などの誘いがかかるようになったことである。息子は念願のメルツェデスでの迎えに大満足だったし、家内は家内でドイツの主婦たちの日常や考え方に接することできた。これだけでもここで暮らした値打ちはかれらにはあったように思う。

 

[競争なき学歴社会]

「両親の夕べ」の帰り道でガーデンマンさんの奥さんが「この小学校はギムナジウムへの進学率があまり良くない」といった言葉が心にひっかかった。この問題は日本とドイツの社会の相違を考えるときに重要である。まず、ドイツの教育体系は図3のようになっている。 ドイツでは小学校4年で、主として担任の判断によりギムナジウム、レアルシューレ、ハウプトシューレと進学先が振り分けられる。そしてほぼ、一生の大枠が決められてしまう。それではあまりに早い、というわけで、最近、この決定を先延ばしにし、いずれのコースにも進める機能を持つゲザムトシューレが設置されている。進学先の決定は小学校の担任が推薦し、親が納得できない場合は州の試験を受ける。進学後に、成績に応じて学校をかわるケースも多い。大学にはギムナジウムの卒業試験(アビトゥーア)を通ればどこの大学でも入学できる。しかし、アビトゥーアに臨む者の数は最近増加の傾向にあるとはいうものの20%を越えるにすぎない。つまり、だれもが大学へと殺到する、という日本におけるような現象は起きていないのである。大学はほとんど公立で授業料は無料、しかも社会のエリートとして数々の特権(安い学生食堂だけでも十分、その他学生としての保険が完備していて、メガネにまで適用される)があるにもかかわらず、である。

この説明には次のことが不可欠である。まず、エリートにふさわしい職業の絶対数が少ない、ということである。すなわち、大卒ということと就職難ということが同義である。日本なら大卒が会社に入って営業に走り回ったり、工場勤務をするなどというのはごく当然のことだが、ドイツの企業ではそれは大卒の仕事ではないのである。それから昔ながらのマイスター制度が社会にはりめぐらされていて、大学では得られない数多くの資格が収入と高い社会的地位の源泉になっていることである。髪結いから大工、旋盤工、裁縫職人、パン職人などなどあらゆるマイスター資格があり、これを獲得すれば一国一城のあるじである。このマイスター制度は近代的工場のなかにも、それぞれの職種に対して存在し、多能工への道を阻み、いわゆる日本的経営に特徴的な工場内のローティションをさせにくくしている。そしてこのマイスターへの道をひらくのが職業教育を施すハウプトシューレやレアルシューレのコースなのである。ここでは、いかに自分に向いた職業を見つけるか、ということが最大のテーマとなる。
他方、大学は学問の修得という本来の目的以外のものが入る余地がなくなる。ゲーリンクさんはマインツ大学教授で、私の滞独中にも日本に何度目かの旅行をして、ドイツ人にはめずらしく日本のことを知っているのだが、同年代の40%以上が大学に進学するという日本の事態を理解不可能なものとしている。「学問に向いた人間がそんなにいるとはとても考えられない、大部分の学生が不適応を起こしているに違いない」と。
「日本の大学の大部分は勉強をするところではありません。卒業して企業にはいると、極端に自由時間が少なくなるので、学生たちは気楽に遊ぶ最後のチャンスととらえて生活しております。職業教育も企業が入社後に独自に施しますので、大学はおろか中等教育さえ職業教育を顧慮しません。中等教育は大学に入るための試験を通る訓練の場です」とは、事実であっても日本の大学教員としてはいいにくい。
ドイツでは比較的少数の大卒者が役所や企業に入って管理職となる(その労働時間の長さときびしさは日本以上かも知れない)。大卒以外の者はいくら努力しても管理職へと上昇することはできない。物価水準も低く社会保障も整っているからそのようなエリートでない大部分の人間の関心は仕事でなく余暇へと向かう。(たとえば、家族旅行の計画書を雇用主に提出し、実行すればそれに対する手当が出るのである)。このことは年間平均労働時間の短さを説明する要因のひとつである。そしてこれを学歴社会といわずして何といおうか。しかし競争は生じないのである。
日本の場合は、入学試験を通った大学名が将来の大部分をを決定するからもちろんここに競争が集中する。しかし、ここで実質的に問われているのは、ある共通の自明の価値観のもとで、その人間がどれだけ努力できるかという資質なのであり、同質の競争は企業をはじめとして、社会のどの次元でも行われて、一生続いているのである。だから中卒であってもおのれの努力と才覚によって社長になる道が閉ざされているわけではない。そして競争の条件を平等にするために中初等教育の内容ははどの学校でもほぼ同一になっており、違いは序列化された偏差値という量的なものになる。こうしないと競争の結果が意味を持たなくなる。ここで競争というのは価値の一元化と同義なのだが、この前提からはずれると即、落ちこぼれとなる。
ドイツでは知能の発達や体力があきらかに他人に劣る、ということならば、本人が必要以上の苦労をするから、という理由で簡単に小学校1年生の入学を1年遅らす。日本ではこのように「他人と違うことをする」というのが一番の悪になっている。

このへんはドイツ人も心得ていて、インテリの好む「シュピーゲル誌」は日本の管理教育を好んで取り上げる。黒づくめの制服、揃いのイガグリ頭が並んで朝礼をしている写真入りで。こういった外面的なところから「他人と違うことをする」のが悪であるという意識を植えつけるのである、といわんばかりである。日本の高校や中学では髪の毛が生れつき赤かったり、天然パーマであったりすると教師がその旨の証明を提出させることもあるそうである。あるいは長いとバリカンをふりまわしたりする。私の子供たちのあの立派な入学写真を見れば、うちの娘が一番体が大きいだろうという予想はみごとにはずれて、大きい子はもっと大きい。髪の毛は赤あり、金色あり、ちぢれあり、そして純正の黒はうちの子供ふたりだけである。もしもフラウ・ゲプハルトが髪の毛が黒いという理由で上のような行為に及んだとしたなら、私は即座に子供たちを日本に帰すだろう。そしてドイツの初等教育は悪質な人種差別をしている、と声高にいいふらすに違いない。しかし日本の生徒たちには逃げる場所さえない。

思うに、そういった「他人と同じ」ことをして安心する、という姿勢こそ最もドイツ人の嫌い、排除するところであろう。ここにはつねに、自己を主張していなければならない、というしんどさはつきまとう。小学生でしかも男の子が、自分を個性的に着飾るためにピアスをしてくるし、女の子は色とりどりのレオタード。それどころかカーニバルには仮装行列があって、子供たちは顔中塗りたくって、衣装に工夫をこらして楽しむのだが、自分の扮装が気にいった子供は一週間もそのかっこうで学校にやってくる。
大学のゼミの議論でも、日本人の得意な従来の学説の検証よりも個性的な主張ということに強い力点が置かれている。一種の寄り合い的な両親の夕べでさえ、料理は個人注文。あたかもアオトバーンの截然とした、しかも暗黙の車線の区別のように人間はそれぞれに応じて安全で快適なレーンがあって、各自がそれを見いだすことによって幸せが獲得できるのだといいう考え方がここにはある。
そしてそれが教育制度や税制をはじめとするあらゆる社会制度に体現化しているのである。このような社会というのは概して社会的な弱者、すなわち老人や子供、ハンディキャップを負っている人々には極めて住みごこちの良い社会である、ということができる。路線バスに乳母車用のスペースが確保されており、さらに昇降口に電動で上下する車イス用のステップがあたりまえのように常備されているのを見るとその感を深くする。そして、自由競争という市場経済の論理で日本の企業が欧米に対して優位に立っている理由がわかるのである。また、日本社会のあらゆる部分が、かたくなに外国人を同等の成員として受け入れようとしない理由もわかるのである。

 

[お互いの理解のために]

しかし、それだからドイツにおける価値観が多元的で個性的でプラスなのであり、日本は一元的でマイナスなのである、といった認識にとどまれるほどに事態は簡単でない。日本では、なかなか社会の質は変化しないにしても、上のような反省は聞こえてくる。西ドイツの街角でも「この小学校からギムナジウムに何人」というささやきが聞こえてくるのである。西ドイツの小学校ではハウスアルバイトといって宿題は多いが、土曜日あるいは週休二日制のとき金曜日は宿題を出さないことになっている。休暇にも宿題は出さない方針だが、最近、これらを徹底するように州から通達が出されているそうである。ということが、これらのことが守られなくなりはじめていることの証左であろう。日本の私の住居から駅までのわずか数百メートルのところに学習塾が数軒乱立して、夜遅くまで明かりが煌々とついていることから見ればまだかわいいものであるが。シュピーゲル誌の論調は日本を反面教師にすべきだ、と解するべきだろう。

また、「お客様は神様」という日本における接客態度を当然のこととしている身からすれば、ドイツの店員の態度には腹が立つ。午後6時半近くになれば、かれらは店から客を追い出しにかかる。6時半という法定閉店時間は、店員が店に鍵をかけて、通りに出る時間である(日本のデパートでは蛍の光のメロディのなかを入っていく剛のお客もいる)。車のパンク修理やタイヤ交換でさえ、午前11時半頃工場に持ち込めば悲劇そのものである。ドライバーの目の前でかれらは作業を中断し、2時になるまで戻らない。かれらにとっては、自分の余暇時間を一刻でも削らないことをすべてに優先させている結果がこうなるのである。ドイツ人でさえこの状態を嘆いている。
子供が減るなかで大学進学率は確実に上昇してきており、こんなに多くの外国人留学生を授業料無料の大学に受け入れることによって、自国の学生の教育機会を奪うべきでない、と大学生自身が主張しはじめている。西ドイツによる東ドイツの併合という、私の滞独中におこった世界史的事件については稿を改めて言及したいが、この問題でも、新ドイツがどのような質の社会を選択し、そのためには何を犠牲にしなければならないのか、ということが迫っているのである。いまこそわれわれはお互いに他の社会を、表面的な風俗習慣の違いだけでなく、そのよってきたるゆえんを深く理解しあわねばならないだろう。そして自身の社会を考えるよすがとしなければならないだろう。

 

帰国も迫った2月のある日、フラウ・ゲプハルト(子供たちはオーゲッパとよんでいて、そのほうが正しい発音に近い)から、相談があるので来校されたし、という手紙を受け取った。Nazukoはドイツ語の理解が進んだので学年を上げてはどうか、そのほうがHisashiの独立心を養うためにもいいだろう、Hisashiは心配ない、とのことだった。3月に帰国するということは、あらかじめメッケル校長には話してあったのだが、伝わっていなかったらしい。私は事情を話し、ついては教科書の買い取りと、日本の小学校で次の学年に進むために、ここでの成績を証明する書類が欲しいと要望した。「次の学年に進むために」というところに複雑な思いがあった。

別れの日にフラウ・ゲプハルトは手書きの2通の成績表を渡してくれた。連絡ノートで往生した書きなぐりの文字でなく、一字一字が細かく丁寧に書き込んであった。私の子供たちがこれらを読めるようになったとき、この自由極まりない小学校生活と元気のよい先生を、窓からのネッカーとともにどのように思い出すのだろうか。


「同期の人から」ページに戻る