「橋と半生」
古屋 信明

1968年に千葉高を卒業した後、一浪して早稲田に入った。凡々たるmajorityである。中学時代の恩師が、「皆の目に見える、大きな物を造るのは楽しいぞ」と言っていたので、土木を選んだ。ダムを造りたいなと思っていたが、ダムの時代は既に終わろうとしていた。世界一の橋も含む本州四国連絡橋の建設がもうすぐ始まる、と講義に聴いて方針を変えた。千葉高を目指していた中学時代の東アチ・テストの延長のような気分で挑戦した国家公務員試験に通ったので、本四公団に就職できた。ただし、卒業前に面白半分で受けた職業適性検査で、「図面や数式を扱う仕事には向いていない。むしろ言葉を使う仕事に適性がある」とお告げがあり、すねに疵(きず)を持つ思いで73年に入社した。

 以来25年間、瀬戸内海を渡る長大吊橋の設計・施工計画検討、ときには現場で実際の工事、あるいは本社や中間組織である局での間接的な仕事、などに携わってきた。幸いなことに、適性不足はまだばれていない。1年余のアメリカ留学や、ジャワ・スマトラ連結計画指導のためにインドネシアに国際協力事業団から2年間派遣されたことも含めると、今は15番目のポストであり、10回引越しをした。途中78年に結婚し、どうやら私の頭は引き継いでいないように見える娘と息子が生まれて、まあ素直には育っている。しかし、同期会の仲間で子供さんが千葉高に入ったという話を聞くと、羨ましくなる。10回目の引越しはついに、船橋に家族を置いての単身赴任になった。ここ神戸で、発音では1音違うだけの単身フリンを夢見ているが、遺憾なことに甲斐性と資金がない。

 さて、私の飯の種になった「橋」とは、道路や鉄道などを川や谷、海峡等の障害を越えて対岸に渡すための構造物であり、自動車や列車の重さ、さらに橋自体の重さを水平方向に伝え、離れた地点で支えるという力学的特長がある。そこに、ある種の緊張感と美が生まれる。「橋は空間の叙事詩である。両岸を結びたいという素朴な願いに捧げられた人間の善意と意志、虚空に作用する荷重を遠く離れたところにまで伝えるという橋の構造上の本質を満足させるための、知恵と行為が空間に結晶している。それがまして、大きな吊橋ともなれば、人間にできることの一つの極限のように思えて・・・・」(小著:「世界最大橋に挑む」より)。

 私の場合は橋屋でも、特殊な吊橋屋である。
 吊橋というのは、橋を力学的な機構で分類したときの呼び名で、高く建てた塔と両岸の橋台との間に懸垂曲線状にケーブルを張り、これからすだれのようにハンガーを垂らして路面を支えている。橋が大きくなればなるほど橋の自重が設計を支配するようになり、中生代の恐竜と同じで、自分の重さをいかに効率的に支持するかがポイントになるが、吊橋はその能率が高いのである。と言うより、1kmを超えるような空間を一またぎしようとした時、人類は今のところ吊橋以外に手段を持っていない。
 首都圏で有名な吊橋の例は東京港に架かるレインボーブリッジで、よくNHKに映像が出てくる。しかし、橋屋にとってスパン(吊橋の場合には2基の主塔間の距離)は至高の比較基準であるから、スパン570mしかなく、橋全長でも798mで明石海峡大橋の側径間(主塔と橋台の間)に収まってしまうレインボーブリッジが、売れっ子になっているのは片腹が痛い。

明石海峡大橋

 私もさまざまに関与し、98年4月に完成した明石海峡大橋は、スパン1991m・側径間長960m・全長3911mもある。端数の1mは、95年の兵庫県南部地震の際の地殻変動の影響である。地震のためにスパンが伸びたが、橋の中心線も少し曲がった。野島断層の延長部が橋の中央径間を斜めに横切っており(このことは事前に知っていた)、この断層が変位量約2mの右横ずれ運動を起こしたことが、死者6400人を出し、阪神高速道路の高架橋を635mにわたってなぎ倒した原因である。このような工事中のハプニングも長大橋の歴史上、世界初めてである。
 この地震のとき、私は神戸市垂水区の住民であった。南に明石海峡と淡路島を見晴るかす丘の上の、公団の社宅に住んでいた。垂水は震源断層に近かったが、今回の地震で特徴的に発揮された断層運動の進行方向への地震エネルギーの集中、地下の地盤構成と地形による地震波の増幅効果、などを免れたため、一般的にも被害は少なかった。さらに社宅は良い地盤の上に建ち、屋根は軽かった。朝の眠りを突然破られたのち、外を見てみると周囲の被害もほとんどなかったため、ラジオが刻一刻伝えてくる神戸壊滅のイメージは、夕方に電気が復旧してから見たTVで初めて具体的に理解できた。
 そんな社宅でも、ほとんどの家でたくさんの食器を割った。しかし我が家ではそれ以前から、ひょろ高い食器棚がなんの固定もなしに立っていることを、私の職業上のフィーリングが許さず、壁に固定していたし、観音開きの扉にはかんぬきを掛けていた。そのおかげで湯飲み4個が欠けただけで済み、その時だけは、家の中での私の評価は高かった。

 中学の時の恩師は、家業の豆屋が嫌で大工になりたかったというお話であったが、教え子は能天気に「大きさ」を拡大してしまったわけだ。何しろ、意識上の対抗相手は20程度しかない世界の長大吊橋である。このベスト20橋リストも、私が就職したときには1位がNYのヴェラザノ・ナローズ橋の1298m、一番びりっかすにその年に完成したばかりの日本の関門橋の712mが掲載されていたが、今やトップは明石、ヴェラザノは6位に後退し、リストの中に本四吊橋が7橋も入っている。学生の頃は、サントリー・オールドなら上出来、リザーブでこんなうまい酒があるのかと感激したのが、今やシーバス・リーガルでもそう有り難みがなくなったのと、どこか似た話である。
 しかし、長大橋におけるアメリカの実績は侮るべきではなく(橋以外の分野でもそうであるが)、彼らは吊橋建設では半世紀以上も日本に先行していた。また、その上流に位置し、産業革命を起こして科学技術の基礎を発展させたイギリスも、歴史上の意義付けは功罪半ばという感じもするが、正当に評価すべきであろう。彼らの国民性、ものの考え方・感じ方は、橋という切り口からも見えてくる。そのような視点で書いた2冊目が、98年9月の同期会のときのビンゴゲームの賞品にさせてもらった「橋をとおして見たアメリカとイギリス」(建設図書、1900円)である。

 吊橋以外の橋で世界最長は、来春にわが本四プロジェクト最後の橋として完成する多々羅大橋の890m、その形式は斜張橋(好例は横浜ベイブリッジ)、吊橋では早くも1931年にそんなスパン長は卒業していた(ニューヨークのジョージ・ワシントン橋:1067m)という事実から、長大橋における吊橋の優位性は理解して頂けるであろう。その上、明石海峡大橋は、スパン約2km・全長4km、高さ方向には約300mというような空間規模を持つ構造物であるから、それを風速80m/sの風や激しい地震に耐えられるように設計し、さらに基礎建設地点の水深45m・最大潮流速4m/sというような過酷な自然条件を克服しつつ施工していく過程には、ぞくぞくするような興奮があった。
 例えば、風速の空間変動や時間変動というように一般の生活には無関係なことの理解も必要であるし、地球が丸いという物理的事実を考慮しなければならない。構造物が自重でかなり変形することもあらかじめ計算しておかなければならないなどなど…、知的チャレンジの連続であった。実は「世界最大橋に挑む」(NTT出版社、1500円)は、そのあたりの面白さを専門外の人にも伝えたい、と思って書いたのである。

 そろそろ、同期会事務局に言われた字数も尽きる。駄文でホームページ初回を汚してしまい、まとまりのないまま擱筆することを重々お詫び申し上げたい。

(1998年11月、紅葉の六甲山系を背後に望む公団本社にて)


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