観音崎の新しい職場(防大)からの手紙

2000年8月、小原台にて
古屋 信明

はじめに

 Aさん、ご無沙汰をしています。あいかわらず精悍に、お元気で活躍されていることと思います。
 私のほうも、三浦半島観音崎に近い小原台の上にある新しい職場で、しかも学校教師などという全く初体験の仕事の、最初の1学期(本当は学期制ではありませんが)を無事に終えることができました。
 この4月、葉書で転職のご挨拶だけはしましたが、その後こちらの様子もわかってきて多少詳しくご報告できると思い、ペンをとりました。

 

(1)防衛大学校の性格

 まず、何から書きましょうか。多くの人が不思議に思っているであろう、学校の名前からにしましょう。

 私の新しい職場は「防衛大学校」であって、「防衛大学」ではありません。その理由は、本校がよくご存知のように、自衛隊の幹部(国際的に通用する用語としては士官)となるべき者を教育訓練するために、防衛庁設置法に規定されている機関だからで、文部省所管ではなく学校教育法の適用を受けないために、「大学」とは名乗れないのです。
 似たような機関に、海上保安大学校、自治大学校などがありますが、つまり、国の行政機関がその任務達成のために設置した、目的のはっきりしている教育機関ということができます。

 しかし、ほかの大学校でも同様のはずですが、防大の場合には学校教育法施行規則にある「大学設置基準」を満たした設備、編制、教員の資格、カリキュラムなどで教育が行われているために、ここの本科(学部課程に相当)卒業生は学士号を得ることができますし、また大学院に相当する研究科もあって、本年度までは前期過程(修士)のみが設置されていましたが、来年度からは後期過程(博士)も始まります。
 ただし学位授与には、文部省所管の「大学評価・学位授与機構」の審査を受けるという手続きが必要です。
 ちょうど今は、博士課程を指導できるかという防大教官の資格審査も機構によって行われているところで、ほかの教官たちがパスしたのに私だけが落とされたら格好悪いな、と案じています。

 今年の4月に入校してきた私と同様の新米の、本科生は48期・研究科学生は39期です。
 つまり、2年後に防大は創立50周年を迎えることになり、卒業生総数は約19,000人とのことです。
 この間の、日本における国際情勢の認識、外交や防衛のあり方についての議論は、全世界の標準からすると非常にナイーブなところが見られますが、幸いにも深刻な試練に見舞われることなく来られた裏にはこのような努力もあった、というのは厳粛な事実のようです。

 

(2)防衛大学校での教育内容

 前述したように、防大は存在理由が明確なことからプラスアルファの分もあるのですが、根幹は普通の4年制総合大学と変わりません(と言っても、あとで述べるようにこの+α分は凄いのですが)。

 本年度から本科課程が改編され、学部的な位置付けとして、総合教育群(教養課程)、人間社会科学群(文科系)、応用科学群・電子情報学群・システム工学群(以上3つが理工系)、防衛学教育群の6群体制となり、その下に合計21の学科・教室が置かれています。
 そのうち、他大学と比較可能な専攻分野の学科数でいうと、理系10・文系3ということになり、これが4年制総合大学だと書いた理由です。

 防大は設立にあたって、旧陸海軍の角逐・軍閥の悪弊、軍事のみの精神主義への反省が強くあって、科学的・合理的思考のできる幹部を養成するということから、最初は理工系のみでスタートしましたが、自衛官も国際的な場で活躍することが多くなり、幅広い人材の育成が必要という理由で、1974年から人文・社会科学系も設置され、現在は人間文化・公共政策・国際関係の3学科があります。
 ちなみに、私の所属している建設環境工学科(旧名称では土木工学科)はシステム工学群に属し、仲間として機械工学科・機械システム工学科・航空宇宙工学科があります。

 学生が2年生に進級するとき、卒業後に陸・海・空のどこに行くか(これを要員別という)、本科課程13学科のうち何を専攻するか、が決定します。
 1学年の定員は基本的には460人です。ただし、今年の48期生は入学辞退者数の読みがはずれて570人(うち女子学生は43、留学生11)もいたそうです。
 要員別のシェアは、マンパワーを要する陸が当然高くて約6割、海と空が2割程度ずつ(海が若干少ない)、学科別はほぼ均等になっています。

 東南アジアを中心とした外国からの留学生も少なくない、というのは日本のために頼もしい発見でした。学生数ついでに書くと、卒業時に自衛隊に入るのを拒否する、いわゆる任官拒否者が毎春恒例のニュースになりますが、昨今は多くなく、今年の卒業者では381名中22人だったそうです。

 さて、防大生は卒業のために、通常の4年制大学同等分として128単位の修得(大学設置基準では124単位以上)、さらにプラスアルファ分として、23単位の防衛学履修と4年間で1005時間の訓練課程が求められています。

 防衛学の具体的な内容は、統率・戦史、戦略・作戦、国防論などと防大ならではのものであり、教官の多くが現役自衛官です。防衛学は、陸海空固有の特殊な講義以外は全員共通の必修科目ですから、以外に思われるかもしれませんが、「◯◯自衛隊学科」というような職業直結クラスは、防大にはないのです。

 専門的な教育・訓練は、曹長(下士官の最上級)に任官して防大を卒業後、陸海空のそれぞれの幹部候補生学校(陸は久留米・海は江田島・空は奈良。ここには一般大卒も入ってくる)で受けることになります。
 そして、インターンのように隊付き勤務を経験した後、3尉(士官の最下級)に昇進して、長いキャリアを始めるわけです。
 もっとも、自衛隊ほど生涯教育に熱心で、システムが整備されているところは他にないのではないか、と思います。昇進・異動と、その後の自衛隊内での各種の学校教育とは、車の両輪のごとくです。つまり、上級学校への入学を命じられないことは、出世に天井があることと等価のようです。

 話を戻して、1005時間の訓練課程とは1年あたり250時間余、つまり平均的労働者の2ヶ月分弱を余計にしごかれるという計算になります(授業料タダで、手当も貰っている国家公務員だから、当然?)。
 1年生では主に体力養成です。例えば、9月にある東京湾内8kmの海上遠泳に至る水泳教育は、1年生のこの夏の訓練の中心だったはずです。この遠泳は、学校の下の走水海岸から横須賀沖の猿島までの間を往復するもので、もちろん事故を防ぐために多数のカッターや舟艇を出し、お腹の減った者には船上から上級生が乾パンを投げてくれるのだそうです。どんなに泳げなかった子でも、最低3kmは泳ぐようになるという話です。
 一方、2年生以上は要員別に各地の部隊や演習場に赴き、実際的な研修・実習を受けることが主になります。さらに学期中でも、週に2時間程度づつ校内でできる訓練が続きます(時間割の中に組み込まれている)。

 訓練課程を指導するのは、校内においても現役自衛官です。彼らは指導教官といい、それに対して、われわれ文官教官は(教室の)先生と呼ばれています。
 ご存知のように防大は全寮制(これがプラスアルファその3)ですが、学生舎で一緒に生活して躾教育(敬礼・整列・行進のしかた、士官としてのマナー、etc)を行うのも指導教官たちです。
 防大の文官教官には当然、就職指導も求められていませんから、いま世間一般の大学で躾・就職の指導が大きな課題になりつつあることを思えば、教官1人あたりの学生数が日本一少ないということと併せて、楽をさせて頂いているのかなと感じます。4学年合計で約1700人の学生(研究科学生はさらに約160人)に対して、文官教官330人、制服組240人、事務官・技官290人が配置されているのだそうです。このようなman to manに近い教育を行うことになった所以も、旧軍教育への反省だということです。

 プラスアルファの最後が全員の課外活動です。これには体育系(37団体も!)・文化系ともにありますが、1年生は全員が体育系のどこかに属することになっていて、毎日16時20分から2時間程度、体を動かしています。
 教室の先生の1人としては、専攻分野を勉強する体力・余力を少しは残しておいて貰いたいものだと、雨の日も風の日も夕方になると聞こえてくるランニングの掛け声に、自分の青春の遠い日の哀歓を重ねながら(私は防大卒ではありませんが)思ったりします。

 

(3)教えている内容

 長々と防大全般のご説明をしましたが、私の所属している建設環境工学科のことに移りたいと思います。もっとも、旧称の土木工学科のほうが言いやすいですね。

 私が本四連絡橋公団から防大に移ることになった時、工兵を育てるのかとか、橋の落とし方(私が従前、生業にしていた橋の造り方ではなく!)や陣地構築法を教えるのか、とよく聞かれました。
 しかし、今までの記述から想像して頂けると思いますが、普通の土木工学を教えています。先輩教授からもそのように言われましたし、そもそも学校の教育方針が目先のことではなく、中堅以上の立場になったときに真価を発揮するようなバックボーン(合理的なものの考え方、予想外の出来事・マニュアルにないことにも対応できる柔軟性など)を養うことにあるからです。職業訓練としては、例えば工兵(施設科というのが正しい)教育ならば、茨城県ひたち中市に「陸上自衛隊施設学校」がちゃんとあります。

 土木に来るのは陸上要員が多いのは事実ですし、彼らの多くが卒業後に施設科に進むのもまた事実です。しかし、土木を出て戦闘部隊の指揮官として昇進している人も多いですし、私がいま教えている4年生には海上要員が2人いて(1人は女子)、彼らはパイロットになりたいと言っています。補給や段取りの計画、地形・地質・海象・気象などの自然条件の考慮、地元の人々への配慮、というような土木の考え方・もしくはセンスは、どのような職種に進もうとも役立つはずだと、ことある度に強調しています。

 だから、眠いだろうけど頑張って講義を聴け、とも。

 防大生は厳しく躾がされていますから一般に礼儀正しく、茶髪、ピアス、授業中の私語や携帯電話は全くないのですが、授業中よく寝るのです。
 これは土木に限ったことでなく、今に始まったことでもなく、数少なくない防大出の現職教授連や指導教官が学生だった頃から続いている、学校最大の悩みのようです。一つには前述のとおり、しごかれまくっているから疲れているのでしょう。また、就職の心配がないということ、さらには専攻分野と将来の職業人生に見たところの直結性がない、ということも指摘できるかもしれません。ミサイルの射程距離や潜水艦の潜航可能深度などより、将来の自衛隊を背負う防大生が授業中よく寝ている、というのは日本のトップ・シークレットではないのか、と思ったりします。

 防大土木はゆるい講座制(合計7講座)をとっていて、私の担当は建設材料工学です。
 九州大学で学位をとって助手を何年かしたのち、去年防大に移ってきたK講師とペアを組んでいて、2人で卒業研究の本科4年生を1人・研究科1年生を1人預かっています。防大では本科からすぐ研究科に進学することはできず、2年程度の部隊勤務をしてから学校に戻ってくるシステムになっているので、この人も2等陸尉(中尉)です。ちなみに県立千葉高校の後輩でした、世の中は狭いものだとつくづく感じました。

 授業のほうは、新米ですから他の先生方がおまけしてくれていて、前期は本科4年生に施工学T、研究科1年生に土木材料学を、10月からの後期では施工学Uと3年生に鋼構造学を教えます。週に2コマ(各1.5時間)しかありませんが、プリントを作ったり予習をしたりで、前期は自転車操業的なしんどい思いをしました。

 防大も、普通の大学のように研究をし、論文を書き、学会に発表に行くことが奨励されています。教授・助教授への昇任も、私ならばとてもダメだと諦めるぐらいに、いわゆる研究業績が求められています。ちなみに、私の前任教授は防大で42年間も教鞭をとったコンクリートの先生ですが、内部に適格者がいなかったため公募人事をしたのです。

 防大土木が世に誇れる施設として、衝撃試験設備(例えば重さ1トンの重錘を30m落下させて供試体にぶつける)や、高速載荷試験設備があります。もっとも、これらも大砲の弾が当たった時のような大きな速度は出ず、落石の運動、砂防ダムへの土石流衝突、地震動のうち衝撃的な効果などが対象ですが、熱心に研究を続けてきて成果も大いに上がっているようです。私も、私のところにあるコンクリートの耐久性試験装置と前述の設備とを組み合わせて、何か新しいことができないか、と考えているところです。

 

おわりに

 Aさん、だらだらと長い手紙になってしまい、ごめんなさい。

 あと14年半の私の任期中に何ができるか、何をすべきか、と日々に自問自答しています。防衛庁は自衛官27万人弱を中心にする総勢29万の大組織であり、一国の防衛はもっとも高度な政治の形態ですから、防大教授といえども、関与は一市民のレベル以上のものではありません。
 しかし、その大組織の幹部になっていく若者たちへの教育という形で、種を蒔くことが職責ですから、今までの27年間の本四公団での経験と知識をもとに、今後も勉強を続けていく学問的な蓄積と、私という一個人の全人格をあげれば、何かを伝えることは可能だろうと思っています。もちろん400人近い年間卒業生の中の数人に過ぎませんが・・・。
 その教え子が良き指揮官に育ち、彼らの率いる部隊が精強になれば、国の平和と独立・安定の維持に寄与するだろうし、阪神淡路大震災や今年の有珠山噴火でもあったような災害派遣で、市民の役に立つことも多いでしょう。

 防大の初代学校長は、日本唯一のヒマラヤ8000m峰初登頂(マナスル)を成功させた登山家・槙有恒氏の実弟の、槙智雄教授です。槙教授は、吉田茂首相じきじきの要請で慶応大学から防大に移り、「真の紳士淑女にして、真の武人を作る」(正確には、このフレーズには後の追加もあるが)を提唱されて、それは槙イズムとして今でも防大に語り継がれています。

 防大生も中から見ていると、現代社会の縮図のようなところもあり、国家防衛という仕事にはじめから燃えている学生ばかりではなく、授業料免除・手当ありという待遇に魅力を感じて入学してきた子も少なくないようです。でも、そんな彼らも大半がここ小原台の4年間の生活で何かに目覚め、一生の糧にすべきものを見つけて巣立っていくのですから、私も微力ながら彼らのために一働きしたいと思っています。

 それでは、また同期会でお会いしてお酒を酌み交わす機会があることを、それが遠くないことを、祈りつつ。


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